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Jul 2012

1000字の文章は3回「おっ」と言わせろ

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by 卓 坂牛


午前中オフィス改装の現場へ。設計期間も施工期間も短期なので日々変転する状況の中でモノを決めて行くのは一苦労。
現場から大学へ。某出版社の編集者来研。新たな企画のご相談。学生のワークショップ体験を書籍化しようと100ページ余りのダミーを見せる。タイトルと、それに続く序の作り方が重要との指摘を受ける。全体としてはなかなか行けそうである。
ただ学生の文章が余りに面白くないのが僕の不満。「これとっちゃいますか?」と言うと「面白いかどうかですね」と言われた。
それは学生がワークショップの感想を書くページ。9チームあるので9ページある。それぞれ1000字くらいの文章なのだが、だらだら書くととても読めたものではない。そこで文章を3段落に分けてそれぞれ惹きこむ見出しを付けよと指導してきた。1カ月言い続けているのだが、誰ひとりそれに応えられていない。それどころか書く気がないのかページが埋まってない。これってどういうことだ?やる気がないの?能力がないの?指導が悪いの?ぐっと我慢して指導が悪いと反省し、指導の仕方を学ぶべく、今晩はプロの新聞記者と飯を食ってそのひどい文章を見せ指導方法を乞うた。「どう思う?このセンスの無さ」と問うたら、笑っていた。
彼曰く、見出しの付け方には二通りある。ひとつはそれを読めば本文がほぼ想像できるタイプ、もう一つはミステリアス見出しが本文を読みたいと思わせるタイプ。どちらを選ぶかはケースバイケースだと。そして本文の書き方には二つの鉄則がある。一つは最も面白いことを最初に書くこと。次に1000字の文章なら3回「おッ」と言わせること。そうしないと人は最後まで読んでくれない。
まったくそうである。ほぼ同じことを言ってきたつもりだが直らない。所詮僕は文章のプロではないので学生もまじめにやらないのかもしれない。腹は立つが仕方ない。そこでプロに来てもらおうと考えた。「悪いけれど研究室に来てくれない?ひどい文章を直々に直してくれないか?」「おう、分かった。行くよ」と言ってくれた。ありがたい。ノーギャラでプロの文章書きが来てくれるなんてこんな贅沢はあるまい。これで書けなければ指導の問題ではない。能力がないだけである。

松永さんの地域づくり本を読みました

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by 卓 坂牛


長野にいる時よく思った。この町のサイズはコンパクトシティ化するのにちょうどいいと。チャリで暮らせるいいサイズ。もう少し小さければ徒歩圏内。これで流入する車がなければベストである。そこで先ずあの駅を地上化か地下化して障壁を無くし南北にトラムが走ればいいなあと思った。それから郊外から市街地に働きに来る人の家は中層化して市街地に移し、極力車を市街地に入れなければいい街になる。
その時、しかしコンパクトシティの間はどうしたらいいものか?とふと疑問が湧いた。長野市、上田市、小諸市などがコンパクト化するとして、その間はどうなるのだろうか?まあ農業地帯なのだが、ここにいる人たちはさすがに市街地に住むわけにはいかない。
そんなことをかんがえていたら松永安光さんの『地域つくりの新潮流―スローシティ、アグリツーリズム、ネットワーク』彰国社2007が実に同じような疑問と動機の上に書かれていると知った。
いま茨城県の某町の農業街づくりのお手伝いをしている。今日も町長さんと3時間じっくりお話した。この本のことをお伝えした。町長はドイツ、フランスのアグリツーリズムの視察に行かれる。農業を経済行為から文化活動に格上げしたいとおっしゃる。マルクス的に言えば農業を下部構造から上部構造に格上げしようと言うわけである。
それって字義的には矛盾しているけれどとてもよく分かる話でもある。というのも、農業は食文化であり、風景なのだから。とてつもなく大きな話ではあるがそういう時代が来たという気もする。

世界4大文明と教わったが本当は6大文明

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by 卓 坂牛

9月にグアテマラのイスモ大学(Universidad del ITSMO)の建築ウィークに招待されている。行きたいところがあれば何処へでも連れて行くので早く来られる日を伝えるようにとメールが来た。そう言われても全く知らない国なので少々歴史を辿ることにした。青山和夫『マヤ文明――密林に栄えた石器文化』岩波新書2012を読んでみた。僕らは世界史で四大文明(黄河、インダス、メソポタミア、エジプト)を教わる。しかし世界にはあと二つ第一次文明(0からスタートした文明)がある。それがメソアメリカ(メキシコの大部分と中央アメリカ北部)の文明とアンデス文明(ペルー、ボリビア周辺)である。
UCLA時代にリゴレッタやムーアとメキシコのオハカという町で見た遺跡がある。これはサボテカ文明だった。これ以外に有名なアステカ帝国、やマヤ文明などがこのメソアメリカという地域の一連の文明に分類される。中でもマヤは最も長く続いたメソアメリカの中心的な存在だろう。その遺跡が多くグアテマラにもある。マヤ文明は30メートル近いピラミッドを持っているのだが、大型の家畜を持たず、人力が主体。さらに乳のでる動物を飼わず乳製品を食さない、しかもスペインに占領されるまで鉄器を持たなかった。人力以外を頼らず、道具の進歩がなく、食べ物の選択肢も比較的狭い、それも原因で小さな国家しかなかったのかもしれない?
一般の歴史本がこの辺りを包含していないのだから、建築史の通史も同様。この辺りを語るものは少ない。まして日本語になったモノだと殆どない。唯一ドリス ハイデン、ポール ジャンドロ『メソアメリカ建築 (図説世界建築史)』本の友社1997があるくらいである。
メールにはITSMOでのレクチャーのレジメを送るようにと書いてある。僕以外の海外招待建築家は4人。タイムテーブルを見ると僕の講演がしょっぱなである。レターをよく見ると僕のレクチャは Inaugural Lectureと書いてあった。あまり気にしていなかったけれど Inauguralというのは開会とか最初のという意味である。つまり基調講演ということである。今年のテーマはIDENTITYである。さてどうしたものか?

モルタルしごきのうえ銀ペイント

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by 卓 坂牛


6時に起きてジョギング。雨降っているけれど雨の中も気持ちいい。ヨーグルトとコーヒー飲んで翻訳の見直してこの2週分を相棒に送る。家を出て西荻の現場に。初めてやるRC外断熱の家。外断熱メーカーが持っている純正品塗装は種類が少なく木造モルタル住宅にしか見えない。クライアントもそれは嫌だということで外断熱上の寒冷紗に銀色ペイントをスペックした。うっかりしていたが銀ペイントは厚みが無いので寒冷紗がよく見える。仕方ないモルタルしごいてその上に塗ることにする。二つの見本を見てもらう。しごいたとしてもこて跡が残るのでコンクリートペンキには見えない。このギャップはなかなかたまらん。
西荻の駅から現場の間には戎(えびす)というおいしい焼き鳥やがある。ここは焼き鳥がうまいだけではなく店がいい。何がいいのだろうか?道すがら店を眺め考えた、すると建具の桟が太く、店の椅子の足が太く、カウンターが分厚い、ことに気付く。つまりなんとなく全体的にデブなのである。このデブがいいのではと感じた。
出窓の先端を薄く見せるために断熱材を切る原設計を変更する決心がついて、もっとデブに見せることに決めた。繊細さを自慢する時代は終わった。というのが焼鳥屋からの教訓である。
午後はオフクロの一周忌。一年たちました。去年はちょっとへこんで飲みまくっていたがもう直った。焼香して皆で吉祥寺で会食。昼からワインのんでいい気持ち。

中国における建築理論研究の進捗度

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by 卓 坂牛

エイドリアン・フォーティーの『言葉と建築』を翻訳し終わった頃、中国でこの本を翻訳していた南京にある東南大学の李准教授がメールをくれた。僕が翻訳したことをエイドリアン本人から聞いと言う。未だ会ったこともない同じ興味を持つ海外の人と話をするのも面白い経験だった。大したアドバイスをした記憶もないのだが、その後覚えていてくださり、去年日本に来たおりに僕の研究室を訪れ、東南大学の学科誌をプレゼントしてくれた。中国語、英語併記で建築論、歴史の論考が10編近く掲載されていた。英米の著名な学者の寄稿もあり、その充実ぶりに驚いた。日本の大学でこんなの作っているところは無い。建築学科がその編集や出版のシステムを既に持っているのだから日本を抜いている。東南の建築が建築論では3本の指に入るというのも頷ける。いつか中国で講演をして欲しいと言われ、そういう場があれば喜んでと言って別れたら一年経ってお誘いのメールを頂いた。9月に東南大学とAAスクールの共同主催で2日間の現代建築理論のレクチャーシンポジウムを行うのでレクチャーをとのこと。このシンポは今年で3回め。テーマはInvention of the Past.。まだよく分からないけれど興味深い。決まっているスピーカーは以下の通り。よく知らないけれど建築理論のエキスパートなのだろう?
Mark Cousins、Mark Campbell from the AA;
Reinhold Martin from Columbia University;
Stanford Anderson、 Yung Ho Chang from MIT
PrGu Daqing from Hong Kong Chinese University;
Jianfei Zhu from Melbourne University;
Lu Yongyi from Tongji University;
Chen Wei from Southeast University.
中国来るなら上海同済大学でもレクチャーをと頼まれた。南京への通り道。久しぶりに上海に寄るのも悪くない。

芸大の3年生

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by 卓 坂牛


学会関連の会議を終えて夕刻芸大に。学部三年生の講評会にTNAの武井君と二人でゲスト参加。ヨコミソさんと川辺さんが開いているスタジオで「共有して暮らすかたち」というタイトル。100人の人が何かを共有して暮らす集合住宅を作れというもの。
世の中に存在する言葉で言えばシェアハウスが近いけれど、必ずしも何かの部屋を共有するだけとは限らない。ある案は時代の空気を共有すると言うもので、しかも集合住宅を作っていない。
アルゼンチンでやったαスペースに近い考え方の課題であり興味深かった。そしてそれへの返答の仕方が形より生活を重視していることが嬉しかった。図面にこれでもかと人が描いてある案がいくつかあったし、最初のスケッチが生活を漫画で描いているものもあった。こういうのを描けるところが芸大ならではである。
懇親会でビール飲んでいたら後ろから信大で教え、現在北河原研にいるTさんが現れた。ダンスと建築の関係を学びたいからダンスのメッカパリに行きたいということだったが北村明子さんに相談したら、今ダンスが熱いのはベルギー、ドイツ、オランダだとか。そこでまた行き先が決まらなくなったようだ。

北千住電気大を訪れる

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by 卓 坂牛


午前中、野木の現場。午後久喜から東武の電車で北千住電気大へ。槇さん設計の新キャンパスが夏空の下で目にまぶしい。まるでテピアのような階段が迎えてくれる。あせってきたのだが着いたら30分早かった。せっかくなので図書館を見学。しばし休憩。小池滋、和久田康雄編『都市交通の世界史―出現するメトロポリスと鉄道網の拡大』悠書館2012を読んでみる。公共交通って世界各地、最初は人力か馬力なのだ。それが20世紀を境目にして電気に代わる。郊外という概念ができるのも公共交通ができてこそなわけだ。フィリップ・モリスの赤い家は郊外を象徴する家だけれど1860年イギリスには既に郊外があったということになる。世界最初に公共の都市交通が発達した国だからこそ。
4時から電気大修士の講評会。僕と藤原徹平さんがゲスト。それに常勤の山本圭介さん、松岡恭子さん、今川さん、非常勤の佐々木さん長友さん藤江さん。凄い布陣。
課題のやり方がまた考えられている。テーマは公開空地の備蓄。これを5週間松岡さんが全体を見て、次の5週長友さんがコンピューター3次元を教え、最後の5週藤江さんが原寸スケールを教えるというもの。正直言えば学生はそれについていけていないのだが、今日は4年生も見にきていたし、きっと来年からはよくなるはず。

つながらない生活

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by 卓 坂牛

10年くらい前誰かが言っていた。もはやネットに繋がっていないcpuなどcpuの意味はない。その時はまったくそうだと感じていた。cpuが常時つながっているなんて夢のような時代だったから。
それがどうだ、10年経ったら状況は逆転した。今ではcpuを前にして何かアプリを立ち上げた時はネットから切れるボタンがあるといいと感じている。翻訳作業でスクリーンと睨めっこしていてちょっと休憩などと思ってメール見たりする。変身すべきメールを見てしまうと「ああ見なければよかった」と思いつつ、見た以上早く返信しなければという気になってしまう。ちょっと天気予報を見てしまって雨だと分かった時、ちょっと電車の接続を調べて今日の予定を考えてしまった時、とにかく何か情報が来てしまえばそれに脳ミソは反応せざるを得ない。
ウィリアム・パワーズ(Powers, W.)『つながらない世界』㈱プレジデント社2012はネットにつながることとつながらないことの調和が生活を豊かにすると説明する。まあそれはそうなのだが、面白いのは人類史上でメディアが開発された時にはそれが対話であれ、本であれ、印刷技術であれ、ラジオであれ、人間は情報過多に悩まされ、その都度自らを反省する手段を考えたと言うのである。プラトン、セネカ、グーテンベルク、ハムレット、フランクリン、ソロー、マクルーハン。彼らはいずれも情報と言う雑踏から身を隠す術を身につけた。それなしでは極度の情報過多に身が持たない。
ネットスクリーンを前にした我々は自分と向き合っているようで実は違う。スクリーンの向こうにはつながった世界がありこの雑沓の中で集中を失い、深い思索に到達するまえに、思考は細切れに分断されるのである。
因みに僕のIPHONEは常時繋がってない。ポケットwifiをONにしないと使えない。これが結構手間なのでIPHONEをつなぐのは日に数回ということになる。便利ではないけれど困ることもない。それでいいのだと思いつつ、まあしかし、ポケットwifiなんて持っていること自体、そもそもこんなこと言う資格ないのかもしれないが。

キレイならいいのか?

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by 卓 坂牛

月曜日って長いよなあ。朝早く起きるようになったらますますである。朝6時に起きて夜10時くらいまでオブリゲーションがあると思うとちょっとへこむ。でもまあへこまない体力をつけるために朝早く起きているのだから仕方ない。なんだかいたちごっこであるが。事務所行って、外で打合せして、大學来て電話して、教員と打合せして、ゼミやって、講義して、研究室の打合せ。
合間にデボラL. ロード栗原泉訳『キレイならいいのか―ビューティー・バイアス』亜紀書房2012を読みながら笑う。これ正しい!!
著者はアメリカのとても著名な法学者。化粧にも、スタイルにも、服装にも殆ど興味も関心もない学者なのだが、偉くなればなるほど、周囲から服装やら、化粧やら、髪型やらうるさく指摘されこんな本を書くはめになったようだ。
世の女性とは美しくあることをデフォルトとされており、それにとんでもないお金と時間をかけることを社会的に強要されているというわけである。一方で男性はそういう強要の程度が遥かに低い。
アメリカにはシンディ―クロフォードが一般女性にメイクアップ指導する番組があるそうだ。そして世の女性はとてもシンディクロフォードになれるはずもないと思っている。そしてこれは数十億ドル規模の産業に支えられている。一生なれないでもなりたいという願望をこの産業がデフォルトとして世の女性に埋め込んでいるのである。では男はいかに?ブラッドピットが中年男を集めて男性化粧品の指導をする番組は成立しない。世の男性にとって、そんなのなれるはずもなければなろうともしないことがデフォルトだからである。
こんなことを書くと多大な反論があるそうだ。僕も多少思わなくもない。美という感情を人間が持つ以上それは動物にも、植物にも、建築にも、絵画にも、何に対してでもその多寡はあれども存在する。だからそれを隠蔽することはできない。しかし著者が言うようにその概念が社会構築的に拡大されているのもまた事実である。美に限らずだけれど、「いいね」と言うようなものの大半は社会的産物である。それが人の差別を生む方向で産み出されてくるのならそれはまずい。

スポーツ新聞のような論文を書こう

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by 卓 坂牛


昼から大学院の学内選考を行う。終わったら夕方。結構かかる。すぐに帰宅しようと思ったが研究室から見える緑にしばし見とれる。読みかけの本を鞄から出し、残りを読み終える。森田邦久『科学哲学講義』ちくま新書2012。よくある科学の妥当性、科学性の話しである。なんとなく聞いたことある話が多いのだが、一つ面白い指摘があった。
科学的な命題とは何かという問いに、「間違っていることを証明する手段があること」という一般的な説明がある。これは「反証可能性基準」と言う。「神は存在する」と言う命題は「神は不在」を証明する手段が無いので科学的命題ではないということになる。
建築のデザインなどやっていると、実に科学的ではない言葉を吐くことが多くなりがちである。しかしなんとかそれを回避して、科学的とまで行かなくても妥当性の高い言葉にしたいと思うものである。つまり反証可能性をかろうじて担保するようにしたいと思うのである。
さて反証可能性を担保したうえでの話だが、、、著者は「反証可能性というのは情報の価値とも関わる」という。なるほど!!!!反証可能性が高い情報ほどそれが正しければ価値があると言う。例えば、「妹島和世が受けた建築的影響の最たるものはシルバーハットの開放性」という命題があったとする。これはもちろん反証は可能だから科学的命題。そして昔のボスの自邸なのだからそう聞いてもさもありなんと思う。だから反証する可能性は低い。一方、「妹島和世が受けた建築的影響の最たるものは幼少の頃近所に沢山あったガラス温室の透明性」という命題があったとする。これも、もちろん反証は可能だから科学的命題だけれど、「ええええそんなこと聞いたこともない」と皆思い反証したくなる。つまり反証可能性はとても高い。
しかしもしこのニュースが正しければ、この情報価値は「シルバーハット」より高いのである。
論文も同じである。なるべく「ええええええ、うっそ」と言うような反証可能性の高い命題を証拠付きで提示する方が価値は高い。皆が「そうだよね」、というようなことを結論ずけても価値は低く、何たって面白くない。信じられないということを結論づけることに論文の意味はある。
なんかこう言うといかがわしいスポーツ新聞のように書くことを勧めているみたいで気が引けるが、あれだって確かな証拠があれば情報価値が高いのは言うまでもない。