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Sep 2012

理科大生は原子力をYESと言うかNOと言うか?

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by 卓 坂牛


理科大では夏休みの最後に外部講師をお呼びして集中セミナーをやっている。朝から晩まで3日間。単位も出す。その主催委員をやっており本日はその初日。
今年のテーマは「電力・エネルギーの将来―あなたは原子力発電を選択しますか―」。本日の講師は東京ガスの高木さん、電力中央研究所の原さん、浅野さんである。
高木さんはLNGの話し。非在来型の天然ガスシェールガスがアメリカで採掘可能になったことでアメリカの2020年LNG輸入予測量が3年前に比べて5000万トン近くも減少したという。驚きである。日本の消費量の8割くらいの数字である。石油やガスの枯渇予測年数が数十年前と今と変らないのはこうした新たな技術開発があるからである。高校の地理の先生は一年間こう言うことを教えてくれていたが、彼は正しかった。
原さんは石炭火力発電の話し。石油、ガス、石炭の中で埋蔵量が未だに圧倒的に多いのは石炭。石炭ガスによる火力発電とその時にでるCO2の地下貯留システムは面白かった。石炭は中国やインドでガンガン燃やし空気を汚す厄介者だと思っていたのはひどい誤解だった。もっと勉強せねば。
浅野さんはエネルギーと社会。当然メインは省エネとCO2排出問題。それに関わる建築の話も多い。
都市はコンパクトな方がいい。コンパクトにして自動車に乗らない方がいい。戸建より集住の方がいい。核家族より大家族の方がいい。
ごもっともである。となると親父の家を作ることは☓。兄貴家族と二世帯にしていることは〇。でも親父のために車を買ったのは☓。
60になったら自宅を作りたいと思っていたがやめよう。友人と病院のそばにコオポラティブハウスでも作り、車は持たず助け合って生きる。仕事は市街地中心の集住のみに絞り(絞れるわけ無いけれど)戸建はやらない、、、、なんて、、、、、
さて今日のセミナーで素晴らしかったのは5時から始まった公開討論会。壇上に座った講師めがけ学生300人がひっきりなしに質問を浴びせた。一時間半。極めて高度で)的を射た質問に講師も教員もびっくり。理科大生あっぱれ。
明日は原子力、太陽光、風力。明後日は燃料電池、電量貯蔵用電池、電力システム。これだけ多方面の客観的なデーターをその方面のプロから得る機会はそうないだろう。先ずは事実を正確に把握することが重要である(もちろん原発を考える上でこれだけで十分と言うつもりは無いけれど)。さて3日後に学生は原子力をYESと言うかNOと言うか?

日本の建築教育再考

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by 卓 坂牛

日本の建築教育において人文系の知がおろそかにされていることは問題である。これは以前からそう思っていたが今日コーネル大学で建築を学んだ方(アメリカ生まれアメリカ育ちで日本に3年前来られた)とお話をしてみてますますそう思うようになった。彼は日本から建築のきちんとした言説を世界に発信したいと考え、僕の『建築の規則』の英訳の可能性を尋ねに来られた。彼は丹下、磯崎、メタボリズム以降日本からのまとまった建築言説が世界に殆ど見られないと言う。その理由は、先ずは発信するモノが無いということと、仮に発信されていても読むにあるいは聞くに堪えないものしかないからだと言う。
例えばとある著名な若手の建築家が海外でインタビューを受けそれが発信されたのだが、あまりに非論理的で聞いている方があきれたと言う。あるいは海外建築ホームページに多くの若い建築家の写真や文章が掲載されているのだが、文章の(英語の善し悪しはおいておいて)内容が稚拙なので作品全体の質が問われると言うのである。
建築は造形であると同時に言葉なのだと僕は思っている。一つの強い論理であるはずだ。しかるに日本では相変わらず以心伝心でふわふわとしたあやふやな言葉の戯れを通してしか説明しない。論理があやふやなことと、あやふやなことを論理的に言うことの差に気付いていない。その責任の半分は学生にあるのだが、もう半分は教育にもある。入学するのに国語も歴史も学ばなくてもいい大学は沢山ある。加えて、中高の国語教育では最も論理性を必要とするライティングをきちんと教えない。
エンジニアになる方は言葉など使わなくても数式と言う言葉よりはるかに論理的なツールを持っているので現行の教育でもいいだろう。しかるにそうしたツールを使わないで建築を作り説明しなければならないデザインや歴史を学ぶ人間が国語も英語も歴史も使えない(加えてそっち系の学生は数理系にひどく弱い、つまり言語的にも数理的にもひどく非論理的)とするならば、戦場に裸で行くようなものである。
たまさか昨晩読んでいた福澤一吉『文章を論理で読み解くためのクリティカル・リーディング』NHK出版新書2012のあとがきにこんなことが書かれていた。アメリカでは文章を読んで理解できなければ、その責任は概ね書いた側にある。日本では逆で分からないのは読み手の責任とされる。そういう風潮があるから書く側が分からない文章(言葉)をまき散らしても許されてしまうのである
グローバル化する世界の中で感覚的な素振りだけで生きる人間を育てることに意味は無い。そういう類まれな才能を持っている人にそもそも教育は不要である。世界と対峙する上で必要なことは創作力に加え、言葉の発信力である。とするならば歴史、意匠の分野ではその教育の仕組を世界水準を見据え再考するか?高校時代に文系志望の人間も受験できかつ建築士への道を敷くか?現行のシステムの上で徹底して不足分を補うか?そのいずれしかないのだが果たしてどれが最も有効で現実的な方法なのだろうか?あるいはこんなこと考えるのはやめて日本のゆるーい論理性を是認していればいいのだろうか?来週再来週と3都市を回り中国、欧米、中南米の建築家や大学教員と議論する予定である。その中でなにがしかのヒントを得られればと思っている。

ベンヤミンはなぜパサージュに未来を見たのだろうか?なぜコルビュジエではなく

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by 卓 坂牛

1時半から6時半まで翻訳勉強会。始まって気が付いたら6時を過ぎていた。トイレも行かずおやつも食べず。なんだか凄い集中だった。頭の調子がいい時ってたまにある。
訳しているのはコンクリートの文化史なのだが、モダニズムに登場する鉄、ガラス、コンクリートの中で、コンクリートだけはモダンと非モダンの両義性を持っている。これがこの本の結論であり、執筆動機である。コンクリートは長大スパンを作り高層建物を可能にする潜在力を持つ。その意味で視覚的には確かにそれ以前と隔絶した建築を登場させた。しかしこれは言ってみれば泥みたいなものであるし、当初は調合だって、補強だって現場での手探り。決して学術的根拠に裏付けられていたわけでは無かった。
ベンヤミンが未来を見たのが何故パサージュであってコルビュジエの建物ではなかったのか?それはパサージュが鉄だからである。鉄にはモダンがありコルであってもコンクリートはマッドであり未来ではなかったのだというわけである。
確かにラオスで小学校づくりの手伝いした時も鉄は先ず無いし、使える技術者がいない(溶接やらボルト締めやら)でもコンクリートはどこにでもあるし、土蔵の延長みたいなものでだれで粘土細工いみたいに作れてしまう。。
中国の現場もそうだった。労働者は農地収容されて仕事無くなった農家の人たち。そんな人がサッシュつけたり、シールしたり、ペンキぬったりするわけだ。どれもひどいいことになったけれど、コンクリート打ちと補修のモルタル塗りはあまり気にならなかった覚えがある。

建築における自由とは

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by 卓 坂牛


ホセ・オルテガ・イ・ガゼットが「技術の彼岸にある人間の神話」という講演(1951)で(伊藤哲夫、水田一征訳『哲学者の語る建築』中央公論美術出版2008、所収)「人間とはもともとその本質として選択する動物である」そして人間は選択しなければならないから知的なのであり、「選択しなければならないから自由であらねばならない」とも言う
あのNHKで有名になったコロンビア大学の盲目の教授シーナ・アイエンガーの有名な著書『選択の科学』を読んだ時、人間は選択することで自由なのだというテーゼに共感したが、半世紀前にガゼットもまったく同じことを言うわけである。
そして、では、僕らは建築の中で自由であることはどういうことか?と問うてみると、一つの答えとして建築の中での選択の自由があるということなのではないかと思えるわけである。それにはいろいろな選択がある。でも選択の無い建築はとても息苦しい。今もう一度建築の自由について考えてみてもいい。

丹下さん曰く畳が亭主関白を生む

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by 卓 坂牛

日本短波放送というラジオ局(現ラジオNIKKEI)で一九六〇年から放送された「建築夜話」という番組があった。日刊建設通信社と建設放送社が企画製作したものである。毎回対談形式で何回行われたかは知らないが以下の内容が二〇一〇年に『復刻 建築夜話―日本近代建築の記憶』として日建建設通信新聞社から出版された。少し前に出版した新聞社の津川さんから頂いた。なかなか目を通す時間が無かったが読み始めると実に面白い。
・日本建築の美しさ アントニン・レーモンド 丹下健三
・地震と建築 内藤多仲 竹山謙三郎
・建築の新しさと古さ 佐藤武夫 田中孝
・二十世紀の建築 丹下健三 有吉佐和子
・芸術家の進む道 前川國男 曾野綾子
・明暗と孤独を好む建築家 村野藤吾 幸田文 武基雄
・新興数寄屋建築のあれこれ 吉田五十八 戸塚文子
・彫刻と建築 松田軍平 平田重雄 朝倉響子
・楓河岸の頃 中村伝治 鷲巣昌
・建築と人生 竹腰建造 大江宏
・建築談話 渡辺節 田中孝
・風景と建築 吉村順三 戸塚文子
・建築家の夢と現実 圓堂政嘉 伊藤ていじ
・建築戯評 前川國男 近藤日出造
・下町かたぎの建築家 山口文象 海老原一郎 田中孝
・建築家として生きる 松田軍平 田中孝
・建築風俗誌 藤島亥治郎 佐藤武夫 村松貞次郎
先ずは丹下さんを読んでみる。対談日は昭和三六年、二月八日、一五日、二二日である。ピースセンターを作り、東京計画が正式発表される少し前、もちろんまだ代々木の体育館ができる前である。アメリカ、ヨーロッパを旅行して戻った有吉佐和子が近代主義に対してやや批判的に丹下さんに質問する。それに対して丹下さんがやんわりと近代主義への熱い思いを語るという展開である。伝統論者有吉に載せられて話が地域主義に入りこむと、伝統を近代に活かしてきた丹下ではあるが、もっと大きな問題を解決していかなければならないと言って東京計画を熱く語り始める。これには有吉も圧倒されて「なるほど面白いですね」と静かな感想で終っている。
一方で話しが住宅になり、有吉が寝室は畳にベッドがいいと言うと、丹下さんが自分の家はそうなっていると言い、有吉はややびっくり。そして丹下が畳は一度座ると起き上がるのが億劫になり、つい「おい!」と言って人にものを頼みたくなるもので座式が亭主関白に拍車をかけるのだと真面目に言っているのも愉快である。
鈴木博之が一級の歴史的証言と言っているが確かにそう思う。残りを読むのも楽しみ。

スペインはグリッド、ポルトガルはぐにゃぐにゃ

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by 卓 坂牛

ラテンアメリカのスペイン領の中心都市は多く十六世紀に王権の規則に則り建設されたため基本的に類似の都市景観を生んだと言う。街の中心部に中央広場、それを取り巻きカトリック教会堂と市庁舎、広場に面した一画はアーケードとなり商店が並ぶ。それを取り巻き格子状街路が広がる。南米スペイン語ではこれをクアドラ(cuadra)と呼び、ブエノスアイレスを訪れたル・コルビュジエがそのクアドラの中身を調査したことで有名である。パリもグリッドの町ではないから興味深かったのだろう。一方ポルトガル領ブラジルでは都市計画の規制が緩かったという。
それは本国も同じである。一昨年両国を訪れて痛感した。マドリード、バルセロナが約100メートルの厳格なグリッドの上に作られた都市であるが、ポルト、リスボン、コインブラなどにはグリッドのグの字も見えない。しかしそれは当然でこれらポルトガルの主要都市はアップダウンの激しい丘と海の街なのだから。
さてそうなるとラテンアメリカの都市をグーグルアースで追ってみたくなる。ブエノスアイレスは言わずものがな、サンティアゴ、リマ、キト、ボゴタ、カラカス、グアテマラシティ、ハバナ、メキシコシティ、などなどよほど高地か海沿いでもない限りかなりグリッドがよく分かる。しかも概ね100メートルである。これに対し、ブラジルはリオ・デジャネイロ、サルヴァドル、レシフェ、何処を見てもグリッドは見当たらない。ブラジル都市にグリッドが無いのは規制が緩かったからなのか?それとも地形の問題なのかは行ったことがないので分からないが、起伏の多い場所に都市を作っているのならそれも含めて本国の影響が滲み出ているのが面白い。

パラリンピック水泳銀。木村選手、寺西コーチともにおめでとう

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by 卓 坂牛


昨晩見ていたパラリンピックの放送に僕たち夫婦の中学の同級生寺西真人が突如映った。パラリンピックの木村選手が銀メダルをとった瞬間である。コーチとして木村選手と涙していた。そして本日帰宅して朝日の夕刊を開いたら寺西の喜びの顔が社会面に大きく出ていた。本職は筑波大学附属盲学校の教員だがパラリンピックのコーチをもう十数年続けいてる。彼のひたむきな努力を知っているので僕も思わずもらい泣きである。おめでとう。

イベリア半島人は世界を二分していた

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by 卓 坂牛

大学で某先生とじっくり打合せ。いろいろと分からぬことを教えていただき少しさっぱりした。
グアテマラ行く前には終えておきたいと思い、国本伊代『概説ラテンアメリカ史』新評論1992を読み始めた。ビギナーのための丁寧な入門書。新書ほど大雑把では無く、専門書ほど細かくは無い。でも話はスペイン・ポルトガルの支配の始まりから具体的な統治の仕組み、独立から近代化へと書かれている。
未だ半分だが前半で面白いのは人種別身分制度の実態である。そもそもイベリア半島人は世界を二つに分けて半分ずつ領有した気になっていた凄い人たちであったが、遠くの場所を自分たちの思う通り統治はできなかった。身分制度一つとっても法と実体にはずれがあったようだ。法律上は上から白人、インディオ、メスティソ(白人とインディオの混血)、黒人、奴隷だったが、実体はイベリア半島人(最初の移民)、クリオーリョ(最初の移民を親として現地で生まれた人)、メスティソ、黒人、奴隷、インディオなのである。つまりインディオは奴隷以下だったということである。
奴隷は高価な品物であり、大事にされていた。よって社会はスペイン人とインディオに二分されたようだ。そしてインディオは虐待され急激にその人口を減らした。もともとインディオが少なかったアルゼンチンやブラジルはさておき、インカ帝国やアステカ文明が栄えた場所ではひどいことが起こっていたのではなかろうか?
人の場所に侵攻するということは結局そういうことなのだろう。台湾での反日感情はそれほどでもなかったけれど、ものの本では1万人は虐殺したと書かれている。それがあまり目立たないのは蒋介石(本土人)がその倍は殺しているからだと言われている。一体どこまでが事実なのかはよく分からないが、、、、

台湾の柿

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by 卓 坂牛


「李下に冠を正さず」「桃李もの言わざれども下自ら蹊を成す」など桃や李は中国ではポピュラーな果物。先日台湾行っても小学校の制服や、観光バスなど、桃色はいろいろなところに使われていた。台北国際空港の名前も桃園空港だったし。
なのだが、台北近くの町三峡で発見した素敵なガラスの文鎮は柿だった。残念ながら桃はなかった。この店にはとにかく大小様々なサイズの柿が山のように置いてあった。思わず重いの覚悟で4つほど買った。美味しいのかな柿?食べるチャンスはなかったけれど。

成熟した人間は必要とされることを必要とする

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by 卓 坂牛


「人にものを頼まれたらよほどのことが無い限り断ってはいけない」とその昔林昌二さんに言われたのだが、先日読んでいた東工大教授今野浩さんの本にも工学部の教え7条の第4条に「仲間からたのまれたことは(特別な理由がないかぎり)断らないこと」とあった。僕が独立した時に先に独立した先輩に「頼まれた仕事を断ってはいけない」とも言われた。
3つの教えは全て断るなということなのだが、何故断ってはいけないのか?一番大きな理由は、頼む以上は君の力が欲しいからなのであり、君が必要とされているからなのであり、それを断るとその後君は必要とされなくなるからということのようである。
見田宗介の『現代社会はどこに向かうか』弦書房2012というブックレットを読むと、若い人に起こる問題の根本に生活のリアリティの欠如があり、問題を起こさず上手く成長してる若者にもリアリティの欠乏感があるという。そしてそこに必要なのは君が必要とされているという感覚である。
見田さんが紹介するアメリカの心理学者エリクソンはこう言った。mature man need to be needed つまり「成熟した人間は必要とされることを必要とする」。必要とされることがその人のリアリティを充実させていく。
このことは学生にもあてはまることだと思う。友人や先輩にものを頼まれたら(もちろん真面目なものに限るが)よほどのことが無い限りそれを断ってはいけない。もし断れば君は人に必要とされているという少ないチャンスをドブに捨てることになるのである。自分のやりたくないことを頼まれるのはごめんだと思うならば、自分が必要とされるであろうところに先回りして自ら始めて人にモノを頼む側になってしまえばいい。どちらもやらない人はいつか必要とされなくなる。