平成史は歴史というより現実
小熊英二編著『平成史』河出ブックス2012を先週末から読んでいる。厚くてまだ3分の2くらいだが少し感想を記しおく。歴史というには近過ぎるなんていう風には思わないが、同時代を生きてきたのでこれは歴史というよりかは現実である。
話はそれるが今日葬式であった高校時代の先輩が「歴史っていうのは戦勝国が勝手に作る物語だからそんなもん嘘っぱちであって、結局真実なんて誰も知らないのさ」。と言っていたが80%同感である。
平成史が僕にとっては歴史ではなく現実だというのはこの意味においてである。総論で編著者の小熊は歴史とは社会を代表するものを記述することなので昭和史と言えばなぜ戦争をしたのかということにフォーカスされる。その意味で平成史には代表が無い。つまり「代表が成立しない」という状況を生んでいる社会構造と社会意識の変遷史として描くしかないと言っている。しかしそういわれても戦後世代の僕にとっては僕が生まれた時から考えれば平成に代表がないのなら昭和にも代表はないし、その意味では昭和史、平成史と分けて考えることに何の意味も感じない。まあそう固く考えず、90年代と0年代の合体論、あるいは冷戦後史、と考えればいいのだろうか?
そう思って読めば、諸論考の中では小熊の「国際環境とナショナリズム」における冷戦後の日本のナショナリズムの変遷は興味深い。小熊によれば冷戦期の日本のナショナリズムの理念型は3つ。1つめはアメリカにおんぶにだっこの現実主義史観に支えられた親米保守ナショナリズム。2つめはその逆を行く平和主義史観に基づく革新ナショナリズム、そしてもう一つが富に最近目立ち始めた反米保守ナショナリズムであるという。これは対米自律、重武装、戦前回帰志向が特徴で、反中国、反韓国の意識が強いというものである。そしてそれを担っているのは若年層であり、領土問題、経済競争でまさに追い抜かれんとする危機感も拍車をかけているのだという。なぜ三つ目が前景化してきたかというと最初の二つは冷戦の両陣営を基盤にしているからであり、保守革新の二極分化を知らない若い世代は3つ目に流れるということのようである。
昨日タカ派政治家にうんざりと書いたがどうも彼らはどこにも属さないようにも見えるのだが、、、
石に見えるコンクリート
昼から翻訳勉強会Adrian FortyのConcrete and Cultureを翻訳中。コンクリートにまつわる美学的、社会学的、経済学的側面からの系譜学である。美的歴史の中にコンクリートを石に見せようと努力した時代があったと書かれていた。それを読みながら「コンクリートだって元は石だもんなあ」と改めて思った。
先日荻窪の家の型枠がとれた後の定例でクライアントがコンクリーベンチに座ってコンクリートの天井を見ながら「いいなあ、、、、、、石みたいだ」と呟いた。石に見せようとしなくても見えるんだと思った。
日本のアヴァンギャルド
『美術家たちの証言―東京国立近代美術館ニュース「現代の眼」選集』美術出版社2012の大正期の新興美術運動のあたりを読み、二科会、アクション、マヴォなどの日本のアヴァンギャルドの流れを少し理解した。自称日本最初の抽象絵画は神原泰の「スクリアビンの『エクスタシーの詩』に題す」で1922年の作。カンディンスキーに遅れること約10年である。建築は、ウィーン分離派から遅れること約20年。
いい夫婦の日に銀婚式
11月22日はいい夫婦の日。僕は25年前のいい夫婦の日に結婚。なので今日は銀婚式である。このボールはサッカー部の友人たちが結婚式の日に寄せ書きしてくれたもの。昔の縫いボールである。今じゃこんなボール売ってない。25年はアッと言う間だったけれどあと25年生きて金婚式を迎えられる気はしない。だからこそこれからの人生は濃密に生きたいものである。しかるに今日は10時から委員会、1時から入試決定会議、2時半から建築専攻会議、3時45分から臨時学科主任会議、4時から教授総会、5時半から教授会議、6時から二部教員研修会。まあ会議はばらばらいろいろな日にあるより、こうしてパックされていた方がいいと言えばいいのだが、、、、、濃密な人生にとっては無駄な内容も多々ある。
会田を読んだら恐怖が少し飛んだ
現場に行く車中、会田誠『美しすぎる少女の乳房はなぜ大理石でできていないのか』幻冬舎2012を読み続ける。いやーこの本痛快!!会田はこう言う。現代美術の半分は屑だけど半分は将来残っており、この歴史に残る作品を選んだ人だけがそれを選んだ精神自体によって「次」の時代に行ける。そしてそれこそが現代美術の正しい機能である。
会田ファンであるからではなく、ああ現代美術ってそうだよねってとても納得した。
さらに彼はこう言う。ロンドンが最近ある研究機関の調査で企業にとって魅力的な都市ナンバー1に選ばれた。それは彼らが古いノスタルジーとプライドを捨てて、肥溜めから這い上がってきた結果である。そしてそのこととロンドンが現代美術を評価する眼を持つことは無関係ではない。
会田が言いたいのは現代美術を評価する国は「次」にかける魂がある国で、そういう国がこれから勢いを持つのだということである。同感、共感!!
あほみたいな、遊びみたいな、何だこれ?っていうようなものに国を挙げて応援しようという韓国や中国やイギリスの魂に伝統芸能しか称揚できない日本のおんぼろ役人の保守根性はもはや比較の対象ではない(と、急に力がはいった。もちろん現代アートに力を入れようとしている役人さんだって少しはいるのでしょうけどね、スイマセン)
久しぶりに明るく、無邪気で、闘志あふれる言葉を読んだら元気が湧いてきた。細い手すりと薄い階段を施主に見てもらう恐怖の打ち合わせ前の緊張が少しほぐれた。