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Nov 2012

スクラッチタイルのような吹付タイル?

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by 卓 坂牛


今日は朝からとても冷える。そろそろジョッギングやめようかなとも思う。先日テニスを週三回やっている大学の同僚先生にジョギングなんてだいたいつまらないし、朝早く走るなんて心臓によくないと言われてその通りだと思った。信大時代にはよく心臓麻痺で死亡する学生や先生の話が漏れ伝えられていたので、確かに早朝寒いときに走ると危険だと思う。走っているときはいいとしても戻ってシャワー浴びた時が危ない。
とはいえジョギングはつまらない分だけ散歩のように考え事したり発見があったりするものである。というわけで今日はIPHONE持って走って発見を撮ってきた。都心でも結構緑は沢山ある。このあたりは本当に素敵な環境だ。でもそんな写真はつまらないので家の近くの四谷税務署の写真を載せよう。遠目だとなんということもない経済スパンの4階建てで窓はスパン間の横連想。まるで一級建築士の模範解答のような普通の建物である。しかしその外装の肌理はちょっと面白い。タイル張りのごとく目地が入っている。スクラッチタイルのような粗さがある。でもタイルではない。とはいえ吹付タイルにも見えない。じっくり見ても僕の知っている材料の記憶の引き出しにはない。なんでしょうかねこれは?

直近の記憶が消える

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by 卓 坂牛


朝食をとりながら森美、会田誠展に午前に行くか午後に行くかという話になり、午前にした。のだが1時間後さあ行こうと言うと彼女はまだ支度をしていない。それどころか笑いながらさも勝ち誇ったように「午後行くって決めたじゃない!」と言うのである。そうだったかなとその気になったのっだが、少し考えた。いや午前中と決めたはずである。「午前中に行って僕は帰り、あなたはそのあと映画を見るって言ったじゃない?」と言ったら、「あっそうだった」と思い出した様子。最近こういう直近の記憶があやふやになってお互いが壊れる時がある。
さてそれでは仕方ない30分待つことにした。手元にあった蓑豊『超<集客力>革命―人気美術館が知っているお客の呼び方』角川新書2012を読んで待つ。近年まれにみるタイトルと内容に整合性のない本でびっくり。編集者が勝手に派手な名前付けたのだろうか?
その中に美術館が人を呼ぶためにはデザインが重要という話がある。そこでのデザインとは建築、ポスター、オリジナルグッズなどだそうだ。それが売れるためのクライテリアをスタンフォード大の教授が提唱しており著者はそれに共感するという。
1) 単純
2) 意外性
3) 具体性
4) 信頼性
5) 感情に訴える
6) 物語性
がそれだそうだ。これを見てわかるのは単純、具体、感情、物語は人にものを伝える時の基本で信頼性は安心感を与える。ただそれだけだと平坦だから意外性というやつがある。
30分経て森美に行って会田誠を見ながら、ああ会田自身がこれだなと思った。実に単純具体感情物語である。そしてたまにそれを上手に裏切ってくれる。とにかくうまいからあまり深みは必要ない。端的にわかりやすくあとは技術で押しまくれば伝わる。
このクライテリアは繰り返しになるが展示作品のものではなく、建築やグラフィック用である。そう考えると、ああ会田誠みたいな建築家いるようなあって気が付く、単純でわかりやすく、信頼感があってでもちょっと意外性も入れておくなんて言う人、、、、

かかわりの指数SQいくつ?

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by 卓 坂牛


国際交流基金で去年作ったCREA LAB(ブエノスアイレス、バルセロナ、東京を結ぶ都市建築研究グループ)の日本ミーティングを来年度末にやろうと企画している。ブエノスアイレスから二人、マドリードから一人招いてレクチャー、展覧会、シンポジウム、ワークショップをやろうというものである。朝からその書類をひたすら書き続けていたら夜になった。このミーティングのコンセプトの一つはグローバル化する世界の中でローカリティをいかに担保するのかを一緒に考えようというものである。
夕食後鈴木謙介『SQ“かかわり”の知能指数』ディスカヴァー・トゥエンティワン2011を読んでいたらこれからのSQ社会で求められる人材は「グローバルに考え、ローカルに行動する」人と書いてある。つまりある地域のことをうまく考えるにはアイデアを世界中から持ってきてそれらをつなぎ合わせるコーディネート能力がいるというわけだ。まさに午前中やっていた作業はローカルに行動するためにグローバルに考える作業だった。そしてこのコーデ能力の指数がつまりsocial quotientである。知能指数(IQ)ではなく心の指数(EQ)ではなくかかわりの指数(SQ)がこれらかは大事だというわけである。
しかしこういう言葉が出てくると確実に「なにを言おうとIQの低い奴は使いものにならない」と言う輩も後を絶たない。

何も考えない時間

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by 卓 坂牛


先日テレビを見ていたらレディガガの靴をデザインしているノリタカタテハナ氏がこう言っていた。「一日の内で何も考えない、何もしない時間を作るように努力している」とてもいいなあと思った。教師やって、事務所やって、そんな時間はなかなか取れないし、そんな時間あったら本読みたいし、ジョギングしたいし、やりたいことは山とある。小学生の頃から一日が30時間あればいいなあと思っていた人間にとってこんな贅沢はない。家路について家の寸前で思い出した。今日は配偶者のお稽古日。10時過ぎまで生徒さんが沢山いて食事もままならぬ。しからばそのまま何も考えない時間を楽しもうと知り合いのレストランにふらりはいる。、、、そうしてブログ書いてたらなんだかなあ、、、、

メタ合理性

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by 卓 坂牛


朝から現場に張り付いて階段取り付けの調整を見守る。今日はひどく寒い。8時間くらいたちっぱなしで寒くてもうエネルギー切れ。現場を見回りながら合理性ってなんだろうかとふと思う。というのも車中読んでいた『日本史の終わり』の中で著者の一人池田信夫氏が「メタ合理性」ということをしきりに主張していたから。曰く「愛情や信仰などの感情は不合理に見えますが、進化の過程ではメタ合理的だったはずです」。つまり宗教も突如カリスマが現れ意味もなく伝播したわけではなく、人間が進歩していく上で最終的(事後的)にはそうあるべきだったという理由が見つかるというわけである。建築も一見非合理に見えながら、この建物が生きながらえていくためにはこうあってよかったのだという理由が事後的に理解されるということもあるのではないかと思うわけである。たとえばリダンダンシーなんていう概念も一見非合理だけれど、数十年たったらああそうしておいてよかったねと思うのである。

目の力

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by 卓 坂牛


家に帰るとこのシマウマを見てドキッとする。最近我が家で飼い始めたシマウマのトルソーである。いや実に似ている。この目がすごい。酔って帰ると飛び出てきそうだ。人間でも動物でも目の力は大きい。
6月頃行ったコムでギャルソンをめぐる座談会が文字になって送られてきた。ゲラを校正しながらしゃべったことを思い出した。コムデギャルソンのショーではモデルを使わないで一般の人を使うときがある。スタイルは悪いし顔も今一つなのだが、逆にいろいろな目が出てきてそれに惹かれて服が見えなくなる。一方で顔をストッキングで隠した、のっぺらぼうのモデルを使うときもある。目が見えないと顔には注意が向かず服が前景化する。目の力はすごい。

イメージを引っ張る言葉

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by 卓 坂牛

卒計の中間発表会で磯さんにショートレクチャーをしていただいた。建築における言葉の重要性という話。日経アーキ時代の話から始まり、雑誌作りは見出しづくりであり、見出しがかける建築はいい建築だと言う。そしてモダニズムの言葉、次に言葉で作る建築へと話は進みパターンランゲージまで。アレグザンダーは図面を描かず日本で学校を作ったときはかなりもめたとか。
最近の建築はドライな名前が多いけれど確かに70年代はすごかった。反住器、幻庵、反射性住居などなど。磯さんいわく、建築家の名前もなんだかすごいと毛綱毅曠とか梵寿綱とか、、、、
言葉を論理構築の道具としては考えてはいたが、イメージを引っ張る言葉というのも確かに重要である。

日本が江戸化すると日本史も終わらないか?

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by 卓 坂牛


6時から大学院の講義。フォーティー『言葉と建築』の歴史の章。最近は本の内容を語るのに飽きたので毎回違うことを話している。今日は歴史とは過去の事実の列挙ではないという話をするために、歴史の終わりの話をする。
アレクサンドル・コジェーブ『ヘーゲル読解入門』の注について。歴史の終焉以降の日本のスノビズム、アメリカの動物化、そしてフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』、そしてコジェーブを受けた東浩紀の『動物化するポストモダン』。ここまでまず現代的歴史認識としての歴史というものを話した。そしてヴィドラーの20世紀建築の発明、先日の中国シンポジウムのテーマである過去の発明(invention of the past)。歴史というナラティブの説明。
授業を終えてゼミ終えて部屋に戻ると池田信夫、与那覇潤『「日本史」の終わり』php2012が届いていた。ここでも歴史の終わりである。与那覇潤の『中国化する日本』によれば日本は維新で一度中国化(中国宋のネオリベラリズムを念頭に)しその後江戸化するが現在また中国化している。ネオリベ化はフクヤマの歴史の到達点であるからつまり日本史も終わったことになる。まあ世界史が終わったのだから日本史も終わって当然と言えば当然かもしれないが、ここで日本が再度江戸化すると日本史も終わらないということなのだろうが。

探していた本が出てきた

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by 卓 坂牛


超整理法で有名な野口悠紀夫氏の『超「超」整理法』講談社文庫2012になるほどと思うことが書いてあった。Gmailはどでかい自分検索エンジンだということ。何か気になることは自分あてにメールしておくと後で検索できるというわけである。
彼は押し出しファイリング法を昔推奨しており、分類するな時間順位並べよと言っていた。今回の本でも分類するな、ヴァーチャル空間に並べておけ、ただし検索しやすいようにと言っている。なるほどそうかもしれない。僕も最近では事務所にファイルボックスは置かないし、研究室にもほとんどない。必要書類はスキャンしてなるべく捨てる。
さてそれでも検索しきれないものが残る。本である。そこで決めた。ある程度のまとまりで研究室と事務所と家で置く本を分類する。モダニズム、建築論は研究室、人文系のほとんどは家、プラクティカルな建築本は事務所。という作業を少しずつやっていたら探していた本がでてきた。日本の西洋建築史はどんなふうにいつ始まったのかというのを示す資料。伊東忠太序、井上一之著『西洋建築史』中央工学会対1924。こういう資料はいくらネット検索してもそう簡単に出てこない。デジタルオフィスを補完するのは古本屋めぐり。

西荻の家躯体が上がり学生見学会

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by 卓 坂牛


お昼頃西荻の現場へ。型枠が全部ばらけたので研究室の学生を呼んで躯体の状態を見せた。外断熱の建物なので内装は打ち放しのままである。コンクリートの家は3件目だが、内装を全面的に打ち放しにするのは今回初めてである。2時には施主が来て定例。3時半頃終わって新宿へ。久しぶりに紀伊国屋でどっさり本を買い込み宅急便で送る。夜は根津のはんていで理工学部建築と工学部建築の教員親睦会。明日は入試なので2次会は失礼。
(写真は研究室の中東君が撮ったもの)