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Nov 2012

暗闇坂

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by 卓 坂牛


先日大学の先輩が突如事務所に来られた。篠原研の隣の平井研(建築史)にいた先輩は卒業後照明のFLOS入り、その後家業をついでファシリティマネージメントをやっていた。のだが、いただいた名刺はなんと飲食店。自分の名を冠したレストランである。場所は愛住町。さっそくその夜うかがった。靖国通りを曙橋から新宿方向へ歩いて5分まるで自宅のような隠れ家的レストラン。奥さんと二人で経営されている。なんだかほのぼのとしていいなあと思った。老後の生き方候補がまた一つ増えた。
このあたりよくジョギングするのだが、ご存じ四谷は台地と低地の境にあるから坂ばかり。お店の裏はすぐ上り坂である。その坂の名が暗闇坂(暗坂)。東京にはここ以外に港区元麻布、文京区白山、文京区本郷、大田区山王、品川区、目黒区上目黒と複数存在する。暗くて急坂で妖怪幽霊が出没するという伝説が生まれ、実際追剥などが現れたらしい。確かに夜は歩きたくないといった場所である。

薄い階段

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by 卓 坂牛


外国人建築家招聘助成金の相談に国際交流基金に行く。なんと家から歩いて行ける距離。韓国大使館の隣である。小さなオフィスを想定していたらビル一つ丸ごとこの組織であった。いろいろお聞きしていたら、私がこの組織の助成でグアテマラに招かれていたこともすでにご存じであった。びっくり。
事務所に戻り現場から帰ったスタッフと打ち合わせ。階段が取りついた。まるで模型のようにきゃしゃに見える。構造の長坂さんとは以前にもこんな階段を「ヤマ」という住宅で作ったがそれより薄い。さてこれで揺れないか?たわまないか?

建築の知情意ってあっただろうか?

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by 卓 坂牛


モダニズム研究会の最近のテーマは戦前戦後を貫くモダニズム思想。なので調べる対象は、美学、美術史学者、民俗学者、哲学思想家が中心。美学者というと建築に関係した黒田鵬心がいるが、その先生は大塚保次という新カント派の美学の教授だと昨日天内君から聞いた。さてたまさか今日読んでいた吉田亮『美術『新』論―漱石に学ぶ鑑賞入門』平凡社2012によれば、この大塚保次は『吾輩は猫である』に登場する迷亭先生のことだと知り、急に親近感がわいた。ついでに芥川龍之介は教え子だそうだ。
さてそんなことはどうでもよく、漱石には『文芸の哲学的基礎』なる書があり、知、情、意で心は構成され、その心が一体となって美を感ずるものだと説くのだそうだ。そしてもちろんこれは同級生である大塚先生の教えでもあった(当時のmental philosophy の常識なのだそうだ)。
大塚が新カント派だと聞くまでもなく、この知、情、意の理想となるものは認識上の真、倫理上の善、審美上の美でありカントの真善美(3つの批判書)で探求されたものに他ならない。
さておもしろいのはこの漱石の美論の知情意は明治絵画の流れに見事に当てはまっているということ。知は主として、明治10年代まえのリアリズムであり(高橋由一など)、次に正確に描くではなく、何を描くかに夢中になった(つまり意を貫こうとした)のは20年代になってから(横山大観など)、そして正しさや対象に拘りを捨て美に対峙したのが30年代(青木繁など)なのだそうだ。
こんな説明の仕方が日本美術史の常識かどうかなど全く知らないけれど、さてこんな真善美が当時の建築界に意識されていたのだろうかと考えると面白い。ちょっと気になる。

莫言と王澍

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by 卓 坂牛


村上春樹がきっととるだろうと思っていたノーベル賞を受賞した莫言に興味がわいた。でも興味は莫言自身にあったというよりは、村上ではなく莫言であったというその差にあった。そこで莫言『赤い高粱』(井口晃訳、岩波書店、(1987)2003)を数日前から読み始めた。今日も夜、読み進めながら思い出すものがあった。今朝ぺらぺらめくっていた建築雑誌の写真である。この雑誌はラテンアメリカで編集者がくれたなかなか素敵な世界の建築を載せた雑誌である。その中の一枚の写真。それは今年の建築のノーベル賞と言われるプリツカー賞をとった中国の建築家王澍(ワン・シュー)の作品である
思い出した理由はおそらく、『赤い高粱』の野性味、自然の荒々しさが王澍(ワン・シュー)の作品にも感じられるということではなくて、世界がそんな属性を生み出す、田舎っぽさ、地方性に思いを寄せたそのベクトルの近似に思い当たったからだと思う。

一部の卒論発表終了

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by 卓 坂牛


一昨日卒論の発表会があった。理科大の4年生は、一部は卒論と卒計両方やる人(これは主として計画系)これをαと呼ぶ。次に卒論だけやる人(これは主としてエンジニアリング系)これをβと呼ぶ。そして二部は卒論か卒計の選択である。ぼくの部屋は一部の4人は全員αで二部の13人の内2人が卒論、11人が卒計である。つまり3つのグループが1学年にいるのでそれぞれ別個に指導することになる。これだけでも普通の大学から比べればとんでもない負担増である。本当しんどい!!
さて卒論のできは?
テーマ探しから初めて、あっちやって駄目で、こっちやって駄目でという試行錯誤の末にほとんど1.5か月くらいでまとめ上げたにしちゃよくまとめたなと思う。でも卒論って4年間の自分の建築観の総集成だし、ここで自分の言いたいことが一つまとめられると思うと、もっと「私はこれが言いたい」という強い熱があるはずだと思う。その萌芽は皆に十分感じられるのだけれど人に伝わるレベルになっていないと思う。つまり背景はとてもいいのだが、そこからのプロセスと結論が陳腐整理されていない。いい卒論は1分で説明できるものだ。
因みに僕の部屋の論文タイトルは
現代住宅における白の言説―建築家が白に込めた意味
大型住宅の計画手法―延べ床面積500㎡以上の住宅を対象として
現代住宅の指標について―多木浩二の現象学的考察から見たポストモダニズム期
美術館内部から見える風景とシークエンス―谷口吉生の美術・博物館における設計手法の再構成
二部の卒論はこれを超えることを願っている。

銀座で書展

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by 卓 坂牛



昼頃配偶者といっしょに市澤静山氏の書展を見に銀座へ。今日は天気も良く歩行者天国がとても気持ち良い。場所は伊東屋の二つ隣のメルサビルの8階東京銀座画廊。とても広いギャラリー。引きがとれて見やすい。照明も単なるスポットではなく蛍光灯にアクリルカバーで面光源にしてから間接光にしているので目に優しい。
市澤先生の書は力強い信山ばりなのだが、ちょっと歪んだ豊作という字が好きだった。実がなってたわむ穂のようにも見える。
メルサを出て右斜め前のポーラアネックスに寄ったら八木マリヨという作家の縄の彫刻が置かれていた。ポーラを出てギャラリー小柳にも寄ろうかと思ったが帰宅。ネットで見たら内藤礼をやっていることを知る。やはり見に行けばよかった。

2冊本をいただく:南先生、山岸綾さん

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by 卓 坂牛


先日本を二冊いただいた。一つは相模女子大教授の南明日香先生の『コルビュジエは生きている』もう一つは建築家の山岸綾さんが山奥の小学校をリノベした美術館(絵本と木のみの美術館)のブックレット。
南先生とは分離派研究会でお会いして著書を送っていただいたのだが、『荷風と明治の都市景観』三省堂の著者とは知らなかった。出身が早稲田の文学部とのことで文学畑の人が建築を語るのは大好きである。今後ともよろしくお願いします。
山岸さんもそういえば早稲田出身(建築ですが)、昔から飲み会の席でよくお会いする。先日上越トークインの帰りに渡辺真理さん、木下さん、北山さん、山城さんでこの美術館に立ち寄った。なんだかしみじみいいなあと思っていたところが彼女の設計だと後で知ってうれしくなった。

東利恵さんの個展を拝見

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by 卓 坂牛


午前中西荻の現場。来週には全部型枠がばれるので学生を連れて見学会をしよう。午後大学に行き昼をとって東利恵さんの個展を見に行く。大学で自転車を借りて5分。市ヶ谷駅そばにある山脇ギャラリー。ビルの一階にある70平米くらいありそうなガラス張りの空間に東さんの主として星野リゾートシリーズの建築から家具まで並んでいる。学会選集の審査で星野リゾートは以前みせてもらっていたのだが、こうやってドローイングや模型、家具、素材などを見せていただくとシンプルな形に込められた思いが伝わってくる。
大学に戻り明日の卒論発表会のリハを聞く。いやー明日が本番の割にまだ駄目だよな。昔なら激怒していたかもしれないが、最近は何とかなるだろうと思ってあまり言わなくなってしまった。でもきっとその期待に応えてくれるものと信じて4時からの講義を終えて6時から3年製図の合評会、亀井、青島、多田、川辺、僕+呉スタジオにゲストは松田達さん。相変わらずキレのいい講評に感謝。

「フレームとしての建築」におけるフレームの射程

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by 卓 坂牛


アン・フリードバーグ(Friedberg, A)著井原敬一郎・宋洋訳『ヴァーチャル・ウィンドウ―アルベルティからマイクロソフトまで』産業図書[2006]2012を現場往復で読み始める。大部の書なので興味のある部分を飛ばし読んだだけだがとても興味深い。
タイトルを読むとコンピューターというウィンドウの向こうにあるヴァーチャルな世界の話だろうと思ってしまう。確かにそれは半分正しいのだが、重要なのはそうした世界はじつはアルベルティの時代から始まり現代まで連続しているというのが著者の言わんとするところである。
アルベルティの「絵画は窓」という謂があるが、それは額縁に囲まれた絵画世界とフレームに囲まれた窓の向こうの世界の共通性を指摘するものである。しかしこれは文字通りの窓の向こうの現実世界を意味していたのではないようである。アルベルティはフレームの向こう側は絵画同様ヴァーチャル(非物質的)な世界だと考えていた節もある。
時代が近代に入ると、ハイデガーは「近代とは世界が像となった時に始まった」と言った。それはハイデガーにとってはデカルトの謂「考えることを通して世界を表彰する主体」が生まれたことにつながっている。そしてハイデガーはここでこの像を見るフレームを哲学的に設定している。ここでは世界が個々の内面のフレームの内に立ち上がっているのだが、それももはやリアルな何かではなくヴァーチャル(非物質的)な世界なのである。
そして現代ではコンピューターのフレームの向こうにヴァーチャル(非物質的)な世界が広がっているのである。つまりアルベルティからマイクロソフトまでという副題の言わんとするところはここである。
僕が「建築はフレームだ」と言っているときのフレームはまさにハイデガーの言う世界を像化したいという観念的なレベルと同程度にお隣さんとお話ししたいというくらい具体的なレベルの双方にまたがるフレームなのである。
いずれにしても、、我々の目はフレームを通さないと世界が見られないように飼いならされてきたのである。世界を見るにはフレームが必要なのである。

保坂猛さんの上手なお話

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by 卓 坂牛


午後一で水戸の現場、オレンジ色の不思議な建築が姿を現し始めた。夕刻研究室で出版社の方とデザイナーと打ち合わせ。だんだん完成形に近づいているのだが、あと一歩である。7時から2年生製図の合評会。保坂猛さんをゲストに招いてショートレクチャーをしていただく。ほうとう不動やガラス張りの保育園の成立のいきさつが聞けて楽しかった。ほうとう不動は和風を頼まれこれが50年後の和風ですと言ったそうだ。富士山にたなびく白い雲が日本の風景だと言ったら施主は30分黙った後にこれで行こうと決めたとか。ガラス張りの保育園は森と建築、2歳児から高校生、それらを混ぜこぜにするのが狙いとのこと。なるほどどれも説明が上手である。