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Jan 2013

一部生の卒計を見て思う

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by 卓 坂牛

理科大一部の卒計が昨日締切で採点が始まった。採点締切日まで全日程が埋まっているので今日必死に全部見た。会議の合間を縫って少しずつじっくり見た。3回ほど行ったり来たり。終わったら夜。40近くを見るのは結構大変である。
例年一部の方が二部よりちょっとレベルが高いような気がしていたのだが、今年は甲乙つけがたい。上位5作品くらいを比べてみるといい勝負である。いや、本音で言えば二部の上位作品の方がよく考えられているしリアリティも高い。コンセプトや論理性から見ても地に足がついていている。一部の案は少々幼いし単純な気がする。かけられる時間が少ないのも原因かもしれない。来年からはもう少し早くから準備をさせた方がいいのかな?

音のイベント

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by 卓 坂牛


浅草にあるシュタルク設計のきんとん雲ビルの最上階はイベント会場である(ということを最近知った)そこで福永敦ハリーバリーコーラス―まちなかの交響、隅田と浅草という音のイベントをやっている。セットエンブの入江君に教えられ入場券もいただいたので夕方行ってみた。どういうものかと言えば、浅草周辺で採取した様々な音を数十個ぶら下げられた小さなスピーカから流すというもの。会場は真っ暗でいろいろな音があっちこっちで流れているわけである。駅のアナウンスとか、お店の呼び込みとか、町の雑音、車の音などなど。町のノイズを取り入れた曲のcdをいくつか持っているのでそれほど新鮮ではなかったが、音がきれいで会場が広いので立体感がした。それにしても数十分いたが客は僕一人だった。この場所でこんなことをしているなんて皆知らないだろうなあ、、、、

建築における山口晃体験

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by 卓 坂牛


山口晃の『ヘンな美術史』の中で著者は伝源頼朝を最初に見た時の印象は最悪だったと書いている。その理由は教科書などで見て想像していた大きさより本物が大きすぎて間が抜けて見えたからだそうだ。ただこうしたスケールギャップも楽しみと言えなくもないと書いている。
建築もぼくらはたいてい写真で知っていて、気に入ればじゃあ見に行こうなんていうことになる。そうするとこの山口晃体験が起こりそうだが、あまりおこらない。そこには二つの理由があって、一つは点景である人や木や家具からスケールが推測できるから。二つ目は建築のデザインボキャブラリーである、建具や目地の慣習的スケールを知っていて全体の大きさが推測できるからである。
しかしまれに点景が無く慣習的ボキャブラリーも無いと一体こいつはどんな大きさ??と一瞬わからなくなる写真がある。いや写真だけではなく、そういう空間に入るとその大きさが把握できずに眩暈を起こしそうになる。そういうことをデザインの手法としてやる人もたまにいるように思う。

大学っていう場所はつくづく健全であると思う

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by 卓 坂牛

午前中教室会議。午前中のはずが気付いたら1時半。議論が絶えない。
信大で働き始めたころは大学という場所は何決めるのにも民主主義でほとほと疲れた。なんでお招きした講演者のコーヒー一杯の費用を会議で議論しなければならないのかと腹がたった。民間企業では考えられない。基本的に企業なるものは上意下達の世界である。しかるに大学はそういう側面ももちろんあろうが基本は民主主義である。
信大に比べれば理科大は理事会なる経営陣が力を持っているので彼らの命が教員に発せられることもあるのだが、それでも企業に比べればかわいいものである。
加えて教員というものは実に裏表ない正直な人たちが多い。裏で人の足を引っ張ろうとすることはあまりない(もちろん無いとは言わない)。常に表で勝負となる。だから議論が真っ向からぶつかりなかなか収束しない。いらいらするものの、ほのぼのとしている。
大学っていう場所はつくづく健全であると思う。

幾何学に体を押し込める日本の服って

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by 卓 坂牛


朝テレビを見ていたら杉本博司が那智滝を撮影する姿がドキュメンタリーで報じられていた。数日かけて撮っているのだが、晴れた日の光はいやだと少し曇った夕暮れ時を白黒で撮っていた。そのモノトーンを読む感性はとても日本的である。とまあ誰でも思うことだろうが最近読んでいた山口晃の『ヘンな日本美術史』祥伝社2012によれば日本には白描画と呼ばれる黒の線と紙の白だけで描く絵の伝統があるそうだ。まあ鳥獣戯画に始まり、水墨画もそうなのだろう。
モノトーンとは関係ないのがこの本に登場する伝源頼朝像を見ていると日本美術の別の伝統を感じる。それは抽象化。この絵を見ていると顔は写実的として、服はまるで折り紙であり二次元平面構成でも見ているようである。この当時自画像は畏れ多くて見ながら描かず、記憶して別室で描いたとも言う。だから抽象化も必然?、いや、いや、やはり日本人の美意識にはすごい抽象化作用があるのではないか。もちろん絵画に限らず、描写対象である和服自体がそうである?そもそも体に合わせて服は作られるものだろうが、そんなのおかまないしである。人間の体は階級の象徴化なのか?それとも幾何学に抽象化されているのか・

理科大卒論の独特な仕組み

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by 卓 坂牛


朝から一部エンジニアリング系学生の卒論発表会。9時から7時まで。ちょっときついな。来週は修論の発表会。論文サーフィンである。
理科大の卒論、卒計の仕組みは独特である。先ず理科大には中間部の一部と夜間部の二部があり、夜間部は卒論、卒計は選択でどちらかやればいい。一方一部は二つの方式の一つを選択する。それらをここではα方式、β方式と呼ぶ。α方式とは卒計と卒論の両方をやる方式。β方式とは卒論だけやる方式。そうなると、将来設計をしないと決めた構造、設備、材料系のほとんどの人は(今年は実際全部)このβ方式を選択し、意匠、計画系の人はα方式を選択するわけである。去年はへー変わったやり方くらいに思っていたが、冷静に考えてみると、ちょっと違和感もある。αの学生とβの学生の一年間の負荷がだいぶ異なるようにも感じるからだ。αの方がやること多いよなt。まあその実態はわからないけれど。もちろん大変だから負荷を減らせという気持ちはこれっぽっちもない。逆に構造系で将来構造設計をやるような学生が卒計をしないというのはとてもディスアドヴァンテージなのである。あるいは設備でもこれからはそういうデザインできる設備エンジニアが必要である。そういう志の人間は自ら卒計もやるべきなのだが、残念ながらそういうポジティブな学生にまだ出会えていない。

モルタル銀塗装の外装が見えてきた。

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by 卓 坂牛


午前中事務所の新しいホームページの打ち合わせを行う。セットエンブの入江、井上君とOFDAの伊藤君木島さんと3時間密な打ち合わせ。去年の9月くらいにはできるはずだったがのびのびで今日にいたる。
午後西荻の現場へ。足場がとれて銀色の外装が夕日に照らされ幻想的。モルタルに銀色塗り。窓のぼてっとしたプロポーションがはてどこかで見たような気にもなる。スタッフが水無瀬の町家の出窓の話をするので「ああそうかもしれないな」と思う。知らず知らずに水瀬っぽくなっているようでもある。まあそれはそれ。

劇的応接間か?

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by 卓 坂牛


このそりのある屋根がジョギングコースにありいつもちょっと気になる。様式の専門家ではないのでこの形状の由来を説明する知識は持ち合わせていない。しかし住宅でこんな屋根を載せてベージュのモルタルリシンの外壁と濃茶の瓦、加えて正方形と思える平面で縦長プロポーション。ちょっと見たことない。2階建にしては低すぎるし、平屋にしては高すぎる。ざっくりと天井高4.5メートル。一辺3メートルくらいだろうか。一体どういう用途の部屋なのだろうか。玄関わきのちょっと離れ的な応接間だろうか?かなりドラマチックな空間だろう。でも座るとちょっと落ち着かないプロポーションのような、、、、閑静な住宅街で立ち止まってゆっくり住宅見るのは難しい。ひょこっと現れる付近の人に怪訝な顔をされたりするのでなかなかじっくり見ることができない。というわけでいつまでたってもその実態はよくわからない。

お祓い

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by 卓 坂牛




水戸のギャラリーの建屋ができて水戸八幡の神主さんに来て頂き竣工のお祓い。建物の四方から未完のお庭の隅々まで丁寧に清めていただいた。なんと丁寧な神主さんだろう。さすが国宝水戸八幡。朝一の水戸はとても寒いのだが床暖と南の日差しで畳の広間はポカポカだった。大学に戻り会議。雑用。

宇野求先生の書かれた本に懐かしさを覚える

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by 卓 坂牛


夕方研究室入研希望者7名と3時間ほどかけて面接。へばった。そしてこの中から3名を選ばねばならない。なんとも酷な仕事である。優秀な学生を前に贅沢な悩みでもあるが、とにかく3名を選び終える。
疲れて帰る気にもなれず、昼間宇野求先生に頂いた本、武蔵73会編『僕らが育った時代1967-1973』れんが書房新社を通読。この本は宇野先生の母校武蔵中学高校を73年に卒業されたOB16人と31人のアンケートで綴る60~70年台の精神史。中高OBでこれだけの本をまとめ上げたことに先ずは感服。単なる卒業文集ではなく、精神史としての幅と深さが感じられる。というのも各界で活躍するOBたちが執筆しているからである。
もちろん学生時代の体験から派生する話が書かれているので武蔵の校風が色濃くでているのだが、なんともわが教育大付属とよく似たものだと痛感する。文武両道、先生は好き勝手に教える、多芸、自由闊達。である。執筆者の中にサッカー部の方が数名おられ、音楽家もおられるというのがうれしい。私自身がサッカーと音楽に明け暮れる中高時代だったことが重なってくる。ついでに彼らは67年から73年までを江古田(武蔵のある西武池袋線の駅)で過ごしていたわけだが、私は59年に江古田で生まれその後75年まで江古田で過ごしており、彼らの描写する江古田が自分のことのように蘇るのである。ありふれた言葉だが懐かしい。
僕は彼らとは6年の差で生きてきたわけが、彼らの感じる60年台70年代との一番大きな精神的な差は政治に対する感覚だろうと思う。彼らは政治的には宙吊り状態であったような記述がみられるが、僕らは相対的に言えば個人差はあれど、政治に対する熱は冷めていたと思う。この差は社会が生み出したもので仕方ない。それが結果的にあまりいいことではなかったのだろうと今は思っているが、この当時小学生、中学生の我々に政治にコミットするチャンスはあまりなかったのだろうと思う。それでも僕個人的には小学生の卒業文集に社会主義革命のごとき文章を寄せていたのだから冷めていたと言えば嘘なのだが、そういう心を萎えさせる社会がそこにあったのだろうと思っている。