キャリア官僚は入省してから競争人生を一生送る。そこで自らを切磋琢磨して能力を発揮する。それが嫌な人はこの著者のようにさっさと官僚をやめて大学の先生などになってしまうらしい(中野雅至『キャリア官僚の仕事力―秀才たちの知られざる実態と思考法』)。官僚的な人生に興味はないけれど官僚の知り合いが本書をくれた。
読んでみるとああ俺には関係ないけれど学生がちょっと読んでみる価値はある。二つのことは見習ってもいい。一つは時間管理術。もう一つは競争心。時間管理とは締切から逆算して今日やることを実行する術である。学生は締め切りの重要性が分かってない。社会では、締切に遅れたらお金はもらえない。一度そういう苦い経験をしないと分からないのであろう。だから時間に遅れたレポートには絶対単位は与えない。
次に競争心。今の学生は恐ろしいほどに皆で仲良しこよしである。もちろん仲良しであることは重要である。しかしそれと勉学の競争心は別の問題である。そこを割り切り自らを切磋琢磨する精神力は必須である。
大学の行きかえりと帰宅後風呂で池上彰『世界を変えた10冊の本』文芸春秋2011を読む。さすがに解説が上手だし独断と偏見で選んだと言う10冊がさもありなん。池上流に現在のニュースを理解するために必読の本10冊というところである。
さあみなさんは読んだことありますか?
●アンネの日記(はるか昔に読んだだけだしそれは父親の改訂版だったと思う。本当の奴は結構えぐい。世界がイスラエルを否定できないのはこの本のせいだと著者は言う)
●聖書(阿刀田さんの解説書が面白かった、本物はとても読む気にはなれません)
●コーラン(解説書さえ見たことが無いです。少し勉強しないと)
●プロテスタンティズムと資本主義の精神(高校生のころ読んだ)
●資本論(もちろん全部は読まないけれど高校生のころ見た)
●イスラーム原理主義の「道しるべ」(ビンラディンの教科書とのこと)
●沈黙の春(読んだと言えば読んだけれどよく覚えていない)
●種の起源(高校の教科書とかで内容を知る程度)
●雇用、利子及び貨幣の一般理論(ケインズの本だと言うことでその概要は聞いたことがあるけれど本を見たことは無い)
●資本主義と自由(フリードマンのリバタリアニズムの本であると言うことは知っているが本自体を見たことは無い)
どれも納得のいく本ばかり。
早朝ジョギングしてから今日の選挙の予習(というもヘンだが)『憲法がやばい』を読んで自民党がいかにとんでもない憲法改悪をしようといているかを再認識。
午後は事務所で新しいクライアントと打ち合わせ。クライアントに最初の案を見せる時は少々緊張する。いつも真っ向本音勝負の案を見せるから。しかし今回は、その方法を止めた。クライアントにもそう最初に言った。自分の本音が未だ見つからないというのもあるし、(少しはあるのだが)最初から本音を出すと基本設計の期間持たないだろうと思ったからである。いきなりI love youというのではなく、「趣味はなんですか?」とか「好きな料理は?」なんて聞くのが人間世界のフツウでもある。プレゼンも時間がある時はフツウでやろうというのが今回の方針。だからただの細長い四角に必要な部屋をただ並べてみた。なんだかひどくいい加減なプレゼンのようだがこういうのもあるのではと思っている。
先日内田樹がある本に今時の学生のレポートを読むとこれだけ書いとけば単位はもらえるだろうというあざとさが見え見えだと書いていた。つまり必要最低限のことしかしないということである。でもそれを上手にこなすということでもある。僕も昨今同じことを感じている。大学には大学それぞれのレベルに応じて目に見えないアベレージのようなものがあって、学生の殆どはそこまでやっときゃいいだろうという構えがある。これは信大にも理科大にも早稲田にもある。しかしそういうアベレージを超えたいという向上心の高い学生も数パーセントいる。このパーセンテージは大学によって若干違う。そしてこの違いが大学の質を決定する。
就職が人生の大きな価値であるとは言わないが、大きな価値をつかむステップではある。そのステップをくぐり抜ける上で企業が見ているのはこの向上心である。少なくとも僕が試験官ならそれを見る。また就職ではなく起業する人もいるかもしれない。しかし今度は社会がそうした若い起業家を見る目もこの向上心があるかどうかである。この向上心は人生をけん引する不可欠の要素である。そしてそれを持ち続けられる人だけが生き甲斐をもって充実した人生を実践できるのである。
しかるに今僕の周りを見た時にこうした向上心を感じる人は少ない。それはたまたま僕の目に触れていないだけだと言うのなら嬉しいことである。あるいはその人間のキャラの問題だと言われればそういう側面があるのも否定しない。しかし静かに目立たなくとも黙々とやる活動はなんとなく知れ渡るものではなかろうか?それが聞こえてこないのは少々さびしい。いや教員はそんなことに係ることなく、機械的にゼミやって、卒論、修論書かせて送りだせばいいのだというスタンスに立てばこんなことを考えることもない。しかしそれでは少々淋しい。研究室なる世界的にも稀な不思議な制度がある以上、その良さを生かし学生をある程度その内面にまで立ち入って育てるのが教員のやるべきことだと思っている。
そう思うならやりなさい」と言われそうである。オックスフォードのように。週一時間個人ゼミやるとか、、、、しかし私立大学の研究室配属の数十人相手にそれは無理な相談である。だから教員は集団をまとめてけん引し、学生はそれに対して自主的に自らを引き上げなければいけないのである。その努力を怠れば、何も生まれない。教員は学びの種をばらまきそれに食らいついてくる逞しさに期待したいのである。教育は教員と学生の共同作業なのである。
9時のスーパーひたちで水戸へ向かう。水戸のギャラリ―のオープンハウス+竣工写真の撮り残し撮影+建築技術の撮影。水戸はそれなりに遠いので一度にたくさんのことを終わらせようと言う貧乏根性がで働く。遠いわりには途切れることなく人が続く。ありがたいたいことである。今日は気温28度くらいで風もあり大開口に風が注ぎこみ心地よい。
木窓特性のスライド大開口の前に座ると「ガラスが無いということの心地よさ」を改めて思い知る。ガラスって繋げているようでやはり分けている。昨日竹内がそんなこと言っていたなそう言えば、、、
午前中早稲田の講義。講義は今日が最後来週は学生プレゼン。本日のテーマはグローバリゼーションとローカリティ。僕がこの講義録を作ったのは2007年なので今から6年前。少しずつ改訂しているけれど根本的に書き換えてはしていない。
今から6年前にグローバリゼーションの問題はそれほど深刻ではなかった。やはり2008年のリーマンショックがこの問題を顕在化させたのではなかろうか?世界がシステムを共有してしまっているがために起こる同時多発事故である。
そういう中で僕らはこのグローバリズムとそれとセットで現れた新自由主義にどう立ち向かうのか?真剣に考えなければいけなかったのだが、僕も相当呑気に考えていた。しかしこの本を読んで少々反省。
というのも橋下新市長の誕生の根底にグローバリズム+新自由主義vsローカリズムという構図があることを再認識したからである。つまり民意は結果的にグローバリズムを支持していると言うこの事実に唖然とするわけである。橋本流がポピュリズムを獲得していることに数年前から少々疑問を感じ、ポピュリズム政治はまずいだろうとするナベツネの警鐘に珍しく賛同した。しかし問題はポピュリズよりむしろグローバリズム推進の流れである。誤解してほしくないが、僕はナショナリストではない。国と言うまとまりを最大価値としてはいない。そうではなくある地域(国を超えていても構わない)の価値を尊重したいと思っているだけである。
だから建築もそうである。世界中に地域を無視して類似したアイコンをまき散らしているデコンまがいのbig architectsなどにはもうNOを突きつけるべきではないのだろうか?そういうのはまさにグローバリズムが生み出したゴミである。
午前中事務所にUBA(ブエノスアイレス大学)の教授で建築家のフェデリコ・レルネール氏が来所。2時間近くかなり真剣に建築論の議論となる。現象学が建築に及ぼした影響そしてそれが日本でどう発露したかなど。日本語でやっても結構面倒な話を英語でやるのもお互い外国語だから大変。お昼に事務所を出て食事抜きで1時に金町の会議に滑り込む。いつもながら会議と言うものは苦手である。終わって研究室で雑用をこなしてから神楽の製図室に向かいそこで某設計事務所の方々と会う。秋にその事務所でレクチャーとワークショップを行う打ち合わせ。その後7時から大学院製図の最終講評会。藤原+小西先生の指導する神楽を読むという課題である。2週間前は影も形も無かったのだが、今日は皆形ができているのには少々驚き少しほっとした。ただ神楽を読む読み方に丁寧さが足りない。院生なのだからもう少し理性的にことを運ばねばいけないだろう。
和様の書という展覧会をやっている。この題名ちょっと不思議に響く。書なんて和に決まっているじゃないかと思うと不思議なことになる。でも書はもともと中国のものだと思い改めれば不思議ではない。そしてその書が日本に入りいつから和様(スタイル)になったか、そしてどう発展したかというのがこの展覧会のポイントである。
これまで書の展覧会はいろいろ見たけれど、ビギナーが書の歴史を把握するには最良の展覧会だと思う。加えて、日本の三跡と三筆を一度に見られると言う意味ではまたとないチャンスであろう。因みに山跡とは平安時代10~11世紀の能書である小野東風、藤原佐里、藤原後成のことを指す。そして三筆とは数種類あるがこの展覧会では江戸時代の能書である本阿弥光悦・近衛信尹・松花堂昭乗を取り上げている。
松岡正剛が言っていたように日本人の最大の発明は仮名である。仮名とは仮の字と言う意味で仮名なのだがいつのまにか日本の最大の発明とまで言われるほどに芸術的に昇華した。そのさまはこの展覧会でも三跡の出現そしてその流麗な仮名を見れば納得がいく。さらに、それが12~13世紀になって武士の時代になり男性的な武士の文化の中でやや陰りをみせるところが面白い。さらに江戸になって三筆の奔放でかつ絵と合体した字と言うものが新たな書芸術の領域を創り上げていくさまは見ものである。
午後一で主任会議。4時まで3時間。この会議は一番時間がかかる。4時からしばし図書館で読書。6時から4年生の製図講評会。冴えた案はほんのわずか。切れ味悪くてもせめて時間かけていればエネルギーが伝わるのだがそういうものも少ない。
その中ではこの目の見えない人のための住宅の平面のコノテーションは冴えていた。平面の仕上げや下地を変えることで、歩いた時に出る音が変わるだろうと考えた。そしてその音で表現した平面図である。
明け方自転車を飛ばし、社会に出てからの最初の仕事「日比谷ダイビル」を見に行った。懐かしいというか、自分がこんなことしていた時代もあったのだと改めて思う。帰宅後午前中、ダニエル・J・ソローヴ(Solove, J.D.)『プライバシ―の新理論』みすず書房(2008)2013を読む。プライバシーという概念はアプリオリに正しく価値あることだなんて思っている一方でやたら最近の個人情報保護というものも過敏すぎやしないかと疑問をもっていた。そこにこういう本があったので読んでみた。プライバシーを専門に扱い、プライバシーとそれに対立する公共の価値をプラグマティックに評価しようという研究家がいることを知る。目から鱗である。世の中には知らないことが山とある。
午後恵比寿の写真博物館に行き「日本写真の1968」を見る。1968は日本写真史ではあの「provoke」が出版された年である。展覧会にはprovoke1,2,3の写真からその後の荒木など時代を変えた貴重な写真が並んでいる。せっかく来たので4階の図書室でprovoke復刻版を読み、一部コピーした。読むとっ言っても多木のところだけで、それは第一巻にしかない。大学闘争のまったっだ中に出されたこの雑誌がいくら政治性を標榜しないと言っても誌面からは熱い血潮が噴き出そうである。
恵比寿から六本木に行って、昨日行けなかった「アンドレアス・グルスキー展」を見る。その昔竹橋かどこかでドイツの写真展というのがあって見たことがあったがその時の印象からあまり進化していない気がした。彼の写真の強度はその大きな画面の中に含まれる途方もない量の情報とその解像度の高さにある。それが我々の眼の能力を楽々と超えていくのである。この敗北感にわれわれはマゾ的な快感を味わうのだが、敗北感も二度目になると「まあね」という諦めに代わる。さっき見た86年の熱い血潮のほうが心を打つような気がする。
青山ブックセンターにアルゼンチン本が展示されていると聞いて立ち寄る。すてきな音楽関係の本である。本屋の前のサンクンガーデンでぺらぺらめくりながらこのブログを打っている。これから夜の講義までまだ時間があるので銀座のエルメスギャラリーに立ち寄ろう。