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Oct 2013

女ことばとはどうやって生まれたか?

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by 卓 坂牛

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大阪への往復で中村桃子『女ことばと日本語』岩波新書2012を読む。久しぶりに内容の濃い新書を読んだ。女ことばは古来あるのだが、一体その言葉とは女性が女性らしくありたいから話されていた言葉なのかというとそんなことはない。それは小説の中で女性はこうしゃべるものだと言う固定観念で作られた言葉であり、女性が女性言葉とはこうあるべきと言う規範に対して反抗してできた言葉であり、そして男言葉に対して女性はこうしゃべるべきだと押し付けられた言葉なのである。たとえば○○ってよ!とか○○だわ!とか○○よ!など今では小説に出てきそうな女性特有に聞こえる「てよだわ言葉」はその昔は不良女子の言葉づかいだったのであった。言葉とは乱れた挙句にもできるのである。

資本の建築

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by 卓 坂牛

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一年に一度日建のOB会が東京と大阪で順番に行われる。大阪で行われるときは出席するようにしている。不謹慎だがOB会に出るのが目的ではなく、2年でどのくらい町が変わっているかを見に行くためである。今年は大阪駅の北側の開発が完成したので見てみようと思った。北側にはオフィスビルが3本くらい建っているのだろうか?その足元に7層くらいの商業施設や、ショールームが展開している。一回りして感じるのは建築もテナントも東京となんら変わらないということ。破格の家賃を払えるテナントは全国展開している大きな資本ということなのだろう。さらに驚いたのは北側開発のはずれに建っているヨドバシカメラのビル。これが秋葉原のそれと兄弟のようにそっくり。
日建OB会は800人くらいの会員数でその半分くらいが本日出席。皆さん元気で何より。最初に中村さんが日建の海外物件の紹介をしていたが数百万㎡の仕事など見ると一つのグローブの中でどこに資本が流れ込んでいるのかが感じられる。
世界でも日本でも資本が流れ込むところは集中する。久しぶりにそんな建築を見せてもらった。

お人よし?

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by 卓 坂牛

ちょっとした経験談。
私が結婚して5年くらいして頑張って買った中古マンションがある。1LDK50㎡。当時ですでに築20年くらい。それをその後事務所とし使用していたのだが手狭となりそこを貸して都心に移った。ところが貸した住人が数年前から家賃を断続的に滞納するようになった。最初は大目に見ていたのだが、少しずつ滞納額が嵩むようになり、保証人である母親と話しても拉致があかなくなった。仕方なく友人の弁護士に相談したら、そういう話は昨今山のようにあるから即裁判するべきだと言う。そう言うものかと思いお任せした。裁判してどうなるのだろうか?と聞くと普通は示談になって金を払って出ていくものだと。それはありがたいと思ったが、示談に応ずる風で先延ばしされ結果的には居すわられた。結局数度の催告の後に裁判所の執行官によって荷物はすべて室外に運びだされ中身は空っぽになった。
元に戻ったのは良かったが、なんだか後味が悪い。大幅に嵩んだ滞納額に加え、裁判費用や、執行費用に苛立つのはもちろんだが、それ以上におよそ3年にわたりこの人と付き合い、何かの事情があるのだろうと斟酌しながら支払いを期待し続け、結局裏切られたそのことが残念である。まあお人よしということか?

探す本が見つからない

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by 卓 坂牛

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月曜日は授業とゼミが圧縮されている。週の初めが一番ぎっしり詰まっている。「さあ行くぞ」と言う気持ちで始めるのだが、終わるとさすがにへとへとである。そんな霞んだ頭でとある本を探す。本棚の整理が悪いのと、事務所と大学と自宅に本が分散しているので探す本が見つからない。これはかなり根本的問題なのだが解決できない。建築の実用本は事務所に、建築の観念的な本は大学に、人文系は自宅にと思うのだが、なかなかそううまく分類できていない。どうしたもんだろう??

レフェリー集団からプレイヤー集団へ

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by 卓 坂牛

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鷲田清一『パラレルな知性』小学館2013は専門的知性と市民的知性の乖離を再接続させる方途を模索する。その中で著者は専門的知性の変遷を語る。専門的知はその昔、社会から一歩離れた中立的な知として社会のレフェリーを務めていた。しかし現在では大学の研究者は研究資金を競争的に国や企業から獲得してこなくてはならない。資金は既にイデオロギー化されたものとなっておりそうしたマネーで行う研究は社会から一歩離れた中立的な物ではない。大学の専門家はもはやレフェリーではなくプレイヤーの一人なのだという。
確かに建築で考えてみてもその昔大学にいた建築家と言えば丹下健三、吉阪隆正、吉村順三、清家清などなど、だれもが社会に一言言える人たちであった。つまりはレフェリーだったのだ。ところが現在の大学にいる教員の多くはプレイヤーである。レフェリーたらんとする人もいるかもしれないが、そういう態度がしっくりくる人をあまり見かけない。そして著者が言うようにそれは大学全般の問題なのである。国家があるいは社会が大学をレフェリー集団ではなく、即社会の役に立つプレイヤー集団に育てようとしているのである。

貧富が同居する公共性

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by 卓 坂牛

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翻訳勉強会。翻訳書の中に次のようなことが書かれている。「空間」の価値が否定され「場」の多様性が金を生み出す時代に移行し、富めるものと貧しいものがきわどく同居する場に金が流れる。
最近読んでいる本に似たようなことが書かれていた。若手気鋭の社会学者古市憲寿+國分功一郎による『社会の抜け道』小学館2013では消費について二人が比較的異なる視点を持つ。そして実際に多くのショッピングモールを訪れ意見する。ショッピングモールには老いも若きも裕福な者も貧しいものもごった煮のように集まって時間を費やす。その多様性を東浩紀など公共性と言って養護する。そして中国ではとんでもない規模のモールができそこに学校からスポーツ施設からアミューズメントからなんでもあるという。安いものから超高級品までが共存する。果たしてこのごった煮を本当に公共性と呼ぶのだろうか?ノー天気に楽しそうな空間だと勝手に想像するがそれを公共と呼ぶ気にはなれない。

今日は講評会漬け

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by 卓 坂牛

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●東工大のレビュー
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●理科大のレビュー
朝一でリーテム東京工場に行って打ち合わせ。午後東工大に行って大学院製図のゲストジュリー。出題は塚本さんとベルギーの建築家。課題はヴェンチューリのcomplexity and contradictionの中の最終章。The obligation towards the difficult wholeをテーマとしベンチューリの住宅を日本のコンテクストの中で再構成しようというもの。びっくりしたのは学生の3分の2が留学生。完璧な英語のプレゼンと英語のクリティークである。スチュワート先生、塚本さん、ゲストで西沢立衛さんと僕がクリティーク。2週間の課題と聞いたがさすが院生皆思慮に富んでいる。途中だったが5時に中座し理科大へ。神楽坂で3年生の製図の講評。坂牛スタジオ今回は皆優秀で、突出したのが無いのが淋しいが、平均レベルの高い作品が並んだ。10時までみっちりクリティーク。今日は講評会漬けだが楽しかった。

ノー天気な建築

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by 卓 坂牛

毎週台風が来るこのごろ、憂鬱である。今日は夕刻事務所でブラジル建築スライド会。改めてブラジルの建築を見るとノー天気なブラジル建築の力強さを感じる。でもノー天気な良さと言うものもある。さてこのあっけらかんとした雰囲気と複雑な我々の環境とは相いれいるのだろうか?スライドを見ながら考えてしまう。

久しぶりの日本語の講演

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by 卓 坂牛

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夕刻から日立設計でトーク会。日立設計は日立グループの設計事務所で300人弱の設計事務所。たまさか私の信大時代の研究室出身者や理科大のOBなどがいたので招かれた。建築の素材について話して欲しいとの要望。質料と形式について本を書いたぐらいだからこういう要望は多いのだが、さすがに素材だけで1時間話すことは難しい。なので今日の演題は建築のエイドス(概念)・モルフェー(形)・ヒューレ(素材)である。社長さんも聴くと言うのでシンプルにお話しした。このところトークと言うと外国ばかりなので久しぶりの日本語のトークで言いたいことがすっきり言えて気持ちが良かった。

人間の成熟と建築の成熟

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by 卓 坂牛

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曽野綾子『人間にとって成熟とは何か』玄冬舎2013が朝日の書評に載っていたので読んでみた。書評は少々辛口だったが、僕はなかなか共感するところが多かった。特にそうだったのは彼女の中庸な思想である。目次からそんな言葉を拾い出してみる。
「正しいことだけをして生きることはできない」
「いいだけの人生もない悪いだけの人生もない」
「いいばかりの人もいなければ絵に描いたような悪人もいない」
「人生には悪を選んで後悔する面白さもある」
この最後の標題に書かれていることは彼女がニュージーランドに行った後に彼の地が清浄過ぎて悪のにおいがしないところがつまらないと感じて言った言葉である。これは僕の実感でもある。
曽野綾子も僕も原理主義者の真逆である。世界は矛盾に満ちておかしなことばかりであることを受け入れようとしている。こんな姿勢は建築においても見受けられる。矛盾と複雑さを容認したのはベンチューリだが、日建設計でも僕がいたころ原理主義の部長のSさんが図面を見ながら「おかしいだろう」と部下を叱りつけている上から専務のSさんが「世の中をおかしいことは沢山あるんだよS君」と言っていたのを今でも鮮明に思いだす。二人の性格の差は作るものにも如実に表れていた。
曽野綾子によれば人間においては矛盾を容認できる度量が成熟だが矛盾を容認する建築は果たして成熟した建築か?