たまった仕事に右往左往
WSで神楽坂に張り付いていたので久しぶりの金町。こっちはこっちで日常の仕事がたまっていく。その処理と対応で大わらわ。そして修士設計、修論の梗概を見る。さすがに一気に5つ見るのはしんどい。うーんまだこの程度か、、、大学から駅までの風がまた一段と寒い。11時ころ帰宅してかみさんと夕食。
WSで神楽坂に張り付いていたので久しぶりの金町。こっちはこっちで日常の仕事がたまっていく。その処理と対応で大わらわ。そして修士設計、修論の梗概を見る。さすがに一気に5つ見るのはしんどい。うーんまだこの程度か、、、大学から駅までの風がまた一段と寒い。11時ころ帰宅してかみさんと夕食。
朝日新聞の日曜日版に隔週ついてくるglobeというペーパーがある。今週の特集は「大学ってなんだ?」。その問いの根拠はMOOC(Massive Open Online Course)の受講生が世界で1000万人を超えたというところにある。世界中の一流大学の一流授業がインターネットで受講できると言うわけである。こうなると大学のアイデンティティがどんどん薄れるではないか?よって「大学ってなんだ?」という最初の疑問に戻るわけである。
確かにコロンビアでやっているケネスフランプトンの建築史とバートレットのイアンボーデンの建築論をとれば僕の建築論もY先生の建築史もとらないでよいとなり、われわれもうかうかしていられないが一方で僕の建築論を取る学生は学内は0でも世界中で1万人現れるかもしれない。
問題はテスト。大学とは達成度を確認して卒業させる仕組みをとっているのだから、どこかでテストせねばならない。1万にの受講生をテストするのはとてもじゃないけれどできない。ただテスト一回ごとにテスト料を払うような仕組みをつくればそれも可能性は0ではない。トエフルみたいなものである。数学の○○、物理の××、などとやたらと共通試験がネット上に転がり、その合格証明書を持って来れば単位が発行されると言う時代がくるかもしれない。ここまで来ると本当に大学って何だ?ということになる。そこまで僕は生きているのかわからないが。
先日京都に行った際に宿泊した亀岡の楽々荘は現在のトロッコ列車として有名な旧山陰線生みの親、田中源太郎翁の生家であり、敷地は1750坪。庭は小川治兵衛であった。行く前に読もうと思い時間が無く先ほど風呂につかりながら鈴木博之『庭師小川治兵衛とその時代』東京大学出版会2013に目を通した。読み始めてから75頁まで主人公は登場せず、ひたすら琵琶湖疏水の作成経緯が書かれ、次に山形有朋が無鄰菴を作りこの疎水を引き入れたと続きやっとその庭づくりに小川が依頼されたとして登場する。山形の仕事をしたことであっちこっちから引っ張りだことなる。
人によっては小川の作品の価値を哲学がないと言って認めない人もいるようだが、自然主義の庭に哲学などないだろうと思わないでもない。楽々荘の庭は庭の向こうに高層ビルが建ちあがり風情がなくなったが庭の奥から建物を見るとそれなりに素敵であった。
午前中事務所の今後について3人で話し合う。午後方南町のマンションのリノベ工事の出来上がりを見に行く。きれいに終わっていて一安心。夕方理科大のゲストハウスに行きダニエル、グレースに別れを告げる。このゲストハウスはとあるビルの7階にあるのだが眺めはいいし広いしきれい。今度ゲストが来たら皆こちらに案内したい。夜助手と南洋堂に行く。ラテンアメリカの本を探したがやはりそんなにあるものじゃない。帰りがけ「いつもブログを拝見しています」と買い物をしている方からごあいさつされた。ご購読ありがとうございます。
帰宅すると小さな雑誌が届いていた。雑誌の名は『クリネタ』別冊となっていてタイトルは「行かな!荒木町」見開きA4版、30ページの雑誌だが中身は結構よくできている。荒木町の写真、エッセイ、対談など。誰が作っているのかと奥付を見るとグラフィックデザイナーの長友啓典。ウエッブサイトを見てみると既に30号以上出ている。雑誌名のクリネタとはクリエィティブなネタという意味だそうだ。
ダニエルとロベルトを連れてリーテム東京工場に行く。日本のリサイクリングのち密さ、そしてそれをパブリックに見せるという建築コンセプトに感動していた。次に大桟橋に行く。スパニッシュアーキテクトの作品にプライドを持つかと聞いたら「別に」というのには、そうなんだとちょっとびっくり。東京に帰る途中、妹島さんの大倉山の集合住宅を見て芝浦ハウス(妹島さん)に寄る。この建物はみんなして深く感銘を受けた、というのも一昨日のシンポジウムで、これから重要なのはパブリックなパブリックスペースだけではなく、プライベートなパブリックスーペースだからだと言う話が出たから。芝浦ハウスはまさにプライベートなパブリックスペースであり、それはαスペースなのである、そのあと日本のビシャ(スラム街)を見ようということで山谷に行ったのだが余りにきれいで彼らはびっくり。四谷で夕食。お別れにグレースとフロレンシア(ダニエルとロベルトのワイフ)に着物をプレゼント。
2週間の長い建築イベントが終わった。いやーほっとした。そして充実した2週間だった。
午前中に午後のシンポジウムテーマレジメを日本語と英語で作る。午後ロベルト、ダニエルらと会い彼らを連れてセルバンテス文化センターへ。2時半にスペインの建築家ジョアン・ロイグが来て一緒にランチ。その後彼ら三人に英語レジメを渡し通訳には日本語レジメを渡し今日の話の説明をする。テーマは三つ。都市の公共性、建築のグローバリゼーション、自然への作法。これらを1時間半くらいで議論し、残り30分で質疑を受ける予定だった。のだが終わってみれば質疑なしですでに2時間が経過してしまった。7時からは2階の展示ホールにてオープニングパーティーが行われた。展示ホールエンパナーダが用意されていたのは実に懐かしいしワインはしっかりアルゼンチンだった。アルゼンチン大使夫妻も来られ会は盛大に行われた。
吉見俊哉『大学とは何か』岩波新書2011の中で吉見は大学とはその起源において自由への意志を体現するものだったと言う。更にこれからの大学はもはや国民国家では支えきれない文化や政治を扱う場とならざるを得ないだろうと予告する。
教師も学生も都市を移動し国家を超越し、そしてその自由な意思を十分に自らの意志によって拡張できるようなそんな大学でありたいと僕は思っている。それ故に僕は面倒くさいワークショップやって、研究室を学生に解放する。しかし自由なる意志とはある種の制限や規律の中でこそその価値を生み出すものだと言うのもまた一方の真理である。そうした枠をはめるのも自分の仕事であろうと考えている。今年一年そんな気持ちで大学教員、建築家を続けていきたい。
久しぶりに竜安寺、金閣寺などザ・京都を一周した。と言ってもタクシーと電車を乗り継いで外人4人を連れて歩くのは容易じゃない。その上一応ガイドらしきことをしなければならないのでいつもはもらっても真面目に読まないパンフレットに目を通して必死に説明する。そのせいかなるほどそうかと改めて知ることも多い。
帰りの新幹線では明後日のシンポジウムのこともあって真面目な建築の議論を2時間半途切れることもなく行った。ロベルトはどうしても建築の存在論(ontology)について語りたいという。一体それはなにかと聞く。それはその建築が成り立つ場所が持つ社会、文化との関係性であるという。サイトではなくプレースだと言う。そこから話は社会の非対称性になり、、、、つまりは建築はフォームではないというところに落ち着く。
ロベルトにそれは僕らが去年言っていたいことだよねと言うと、だから今年のワークショップではそのことを強調しているのだと言う。僕らの影響なのか????