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Sep 2014

ファッションのスピード

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by 卓 坂牛

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●シャネル26歳、未だ店を出す前の頃。可憐な美しさが漂う。
階級制の崩壊は社会をそして文化を変えた。ということは最初の市民革命が行われたイギリスにおいて建築はどう変わったのだろうか?という思いでイギリス建築史を見ても17~8世紀にかけて大きな切断は見られない。フランス革命でもルドゥーが革命前から徐々に新たな建築を考えていたけれども決定的ではない。
そこへ行くとファッションではイギリスでも、フランスでもこの時期に大きな切断があった。イギリスでは18世紀に新しい紡績機が考案され一気にファッションが大衆化した。またフランス革命は一夜にしてファッションを簡素化した(新古典主義も大きく影響していたようではあるが)。作るのに時間のかかる建築よりもファッションのほうが時代を直接的に反映しやすいようだ。20世紀に入ってシャネルがパリに店をだすのは1910年。そして12年に海岸沿いにブティックを開きスポーツモードを展開する。彼女は特権階級的衣服を王の座からから引きずり下ろしたのである。
シャネルはファッション界のル・コルビュジエと言えるだろうし、上述のとおりコルブより時代を反映するスピードは早かったのではないか。そしてそれゆえに戦前ほとんどのエネルギーを費やしてしまった(戦後復活するものの既に彼女の時代は終わっていた)。もしエネルギーが残っていたらコルブのようにモダニズムらしからぬ第二の人生を歩んだのだろうか?ディオールのようにもう一度女性を女性たらしめるようなデザインをしたのだろうか?

言葉と建築

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by 卓 坂牛

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大学院の言葉と建築の授業は隔年でやっている。信大時代から通算8回目の講義なのだが、毎回新たな発見がある。今日は一回目の講義で「性格」についてなのだが、一体なんでモダニズムのヴォキャブラーとして「性格」なんて問題にしたのだろうかというのが今回の疑問である。いろいろ考えた結果、これは現象学の登場を考えることなだというのが今日の発見である。18世紀に問題とされた性格という問題はモダニズムでは殆ど等閑視された。しかし現象学が建築の現れを問題視し、それがフォルマリズム的なものの見方を瓦解して性格を復活させたというのが「性格」を20世紀に考える意味なのだということに気づかされた。毎回勉強になります。

新自由主義はなぜ無くならないのか?

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by 卓 坂牛

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新自由主義の本は世の中に数多あるが佐藤嘉幸『フーコーから現在性の哲学へ―新自由主義と権力』人文書院2009はフーコーに棹差し分析している点で他には見られない「権力」構造から見た新自由主義があらわになる。
フーコーは1975年に『監視と処罰』において学校、病院、工場等において人々は規律を内面化させられ、そしてそれに服従する権力構造を問題視した。その後フーコーは70年代末に『生政治の誕生』で現れくる新自由主義の権力構造を批判的に予測した。
そこで明らかになるのは新自由主義の経済的側面と統治的側面である。前者においては古典的自由主義が政府の介入しない自然な市場メカニズムであるのに対し、新自由主義は競争原理が法的に仕組まれた市場メカニズムであること。また統治的側面では新自由主義権力とは個々人の内面に働きかけ「規律的権力」を内面化させるのではなく、個人々の環境のゲーム規則を通して人々に働きかける「環境介入権力」であることを示した。
つまり以前は学校などを通してやっていいこと悪いことを教えこまれ、それに従うことを強制されていたものが、新自由主義では何をやってはいけないという強制は少ないが、利益を得るルールに暗黙のうちに導かれる状況となってきたということである。
こういう権力構造の生み出す社会はは一見自由に見えて実は全く不自由な社会を生み出していると言えるだろう。つまり多様性を担保してそうに見えて実は結論は皆同じ可能性も高いのである。
一体どうしてこういう社会が捨て去られず維持されているのだろうか?世の中には数多く批判書があるにも関わらずである。デヴィッド・ハーヴェイ曰く(『ネオリベラリズムとは何か』本橋哲訳、青土社2007)経済成長を促すことができなかったのはもはや明らかであるにも関わらず、新自由主義がなくならないのには二つの理由がある。一つは局所的に(日本、アジア、西ドイツ、アメリカ、イギリス)順番に瞬間的に経済が急成長したからである。もう一つは格差が進み、権力を握る富裕層がますます富裕になっているからである。
しかしこれ以外に理由がないとするならば誠に悲しい話である。為政者は未だこのイズムに可能性を見出そうとしていうのだろうか?あるいはこのイズムに代わる何かを探せないでいるのだろうか?

八潮ワークショップホームカミングディ

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by 卓 坂牛

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朝から読書。夕方八潮へ。八潮ワークショップも7年目。駅前公園もだいぶできてきて一区切りということで、7年間の間にこのワークショップに関わったOB OGを呼んで7年間の仕事を振り返ろうという会を行った。題して八潮ホームカミングディ。50人くらい来ただろうか。全部で7大学が関わってきたので知った顔だけではないのだが、懐かしい人たちが集まって乾杯。まちづくりには時間がかかるしこうやって続けることがきっと大事なのだと思う。高橋てい一先生が始めた上越トークインでも高橋先生がいつも言っているのは続けること。その通りだと思う。やめたらその瞬間全ては終わってしまう。ほそぼそでも続けることで何かができるのだと思う。そしてこんな経済原理とは関係ない活動が街を作るのだと思う。

建築を経済原理優先で作らない

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by 卓 坂牛

昨日理科大の3年製図の非常勤講師による課題説明があった。そこで竹中工務店の萩原さん帽田さんペアのスタジオは銀座の一角に文化と歴史を基盤にした都市施設という課題を出してくれた。その課題の主眼が「単に容積を消化する巨大ブロックを作ってはいけない」というもので現在進行中の銀座の巨大開発を批判的に例示してくれた。そして裏通りに残る路地を見直し、歴史を再考せよという説明があった。まあそれは今時の設計事務所なら一通り考えることだろうけれど、それを実際に形にするのはとても難しい。その理由は単純である。経済原理に優先する原理が見当たらないからである。
しかし、ではあるが、そうだとしても、それにどう抗うかを示さない限り、巨大設計事務所に明日はないと僕は思っている。いやもっと言えば彼らに仕事を発注している巨大企業こそ自家撞着に陥りそうなこの問題(経済原理に優先する原理を生み出すこと)を真摯に考えない限り企業として堕していくしかないだろう。その意味で彼らが「単に経済原理に則った建築を作るのではいけない」と言ってくれたことは嬉しかった。しかし大きな事務所はそういうことをもっと明示的にアピールすべきである。彼らは金科玉条の如くエコロジーを叫び、エコロジカルな素振りをしていれば社会的正義を獲得できているかのように振舞うがそれは幻想である。しっかりと声を大にして「経済原理のみで建築は作らない」ことを明言し、経済原理のみで建築を発注してくる発注者を啓蒙すべきである。

3年生の製図オリエン

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by 卓 坂牛

夜、理科大二部3年生後期の製図オリエンテーション。3年後期からは選択必修なので、履修者も少し減って丁度良い感じである。スタジオは全部で5つ。竹中の萩原+帽田さんたちは銀座の歴史、文化をベースとした都市施設を設計する。柳沢潤さんは公園を紡ぐ施設と題してランドスケープと建築を北の丸公園で考える。アーキテクトファイブの川村純一さんによる都市に建つ複合建築は日本らしさを考えさせるもので、場所は川村さんが丹下事務所で最初に担当された草月会館。構造家横山太郎さんは前半構造を考えた小学校、後半はその小学校の体育館。そして私は呉さんと一緒に東京のパブリックスペースを考える。場所は自分で探し、プログラムも自分で考える。ちなみに後半課題はエンリクワークショプに合流してさらにパブリックスペースを深く考える。今年の3年生は皆元気がいいので良い結果を期待しよう。

大学院後期の課題は環境建築+公共性

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by 卓 坂牛

理科大大学院後期の製図は日建の亀井さんと日建設備設計の山下さんのお二人による環境建築+公共スペースというテーマで行う。具体的にはホーム位置が市ヶ谷に200メートルずれる飯田橋駅とその駅ビルの設計である。駅ビルといっても大学の多いこの地の立地を考え、インキュベーション施設+サービスアパートメント+ユースホステルのついたオフィス商業コンプレックスビルの設計である。延床42000㎡はこの場所の容積率を使い切るもの。またこれだけの付帯施設を付けているのはそのために必要な公共空間のあり方を考えさせるため。このスタジオは12月初旬で終了して、次の一週間はスペインの建築家エンリクが来日しワークショップを行い公共空間について考える。前期は藤原さん、小西さんによるややコンセプチュアルで構造を考える課題。後期は大規模かつ環境をベースに一年で建築の幅を学んで欲しいと考えている。やや盛り沢山ではあるけれど、いい結果を期待している。

頼みの綱はNGO?

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by 卓 坂牛

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大澤真幸、塩原良和、橋本努、和田伸一郎『ナショナリズムとグローバリズム-越境と愛国のパラドックス』新曜社2014を読むと、グローバリズムとナショナリズムは表裏一体であるが、どちらかが強まればどちらかが弱くなるというものでもなく、昨今はグローバリズムと同時にナショナリズムが高まる状況であることを例証している。それは昨日読んだ柄谷氏の話しと同じで、現在が第一次対戦前夜と同様な帝国(主義)的状況にあり、かつ、グローバリズムが生み出した経済停滞への不満が違う形(ナショナリズム)として発露してきたということなのである。もはや官に期待できない現代社会ではNGOが世界的な公的機関に代わりグローバリゼーションへのオルターナティブを考えている。それに期待したい。ということはドメスティックに見てもグローバーりぜーション(新自由主義)を続ける限り頼れるものは第三者機関ということになる。

新自由主義は帝国主義

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by 卓 坂牛

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新自由主義政策が失敗であったとして一体この先どうなるのだろうか?この失敗経済から抜け出られるのだろうか?服部茂幸『新自由主義の帰結-なぜ世界経済は停滞するのか』岩波新書2013はアメリカの失敗を繰り返さず、同じアメリカでもローズベルトに学べという。広井良典、柄谷行人その他『知の現在と未来』岩波書店2014では岩波創業100年シンポジウムで二つのことが議論されている、ひとつは「ポスト成長時代の知」という問題、もう一つは「資本主義と国家の未来」である。後者の問題の基調講演をした柄谷は新自由主義は19世後半から20世紀初頭における帝国主義の時代に等しく、帝国主義は戦争で集結したように、新自由主義も戦争で集結せざるを得ないという不気味な予想をしている。帝国主義は世界的なヘゲモニーをどこかの国が維持している間は起こらずその国が不安定になると生まれると柄谷は説明する。つまりはアメリカのヘゲモニーが崩れたことで新自由主義は帝国主義に突入したというのである。ということは次に安定したヘゲモニーをどこかの国が持てば帝国主義は再度自由主義に安定しそうなのだが、その前に戦争が起こるということか?

ひたすら話す

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by 卓 坂牛

後期最初の授業が12:50からあって終わってからゼミを6時までやって6時から7時半まで大学院の授業。初日からヒーヒーだ。でもひさしぶりの授業で話すのが楽しい。なんと最初の授業ではスクリーンセイバーは映るのにパワポがどっか行ってしまう現象が起きた。後で聞いたらとあるボタンを押すとなおるらしいのだがその場では分からず仕方なくひたすら図柄なしで話た。昨日のエネルギーが持続しているようで昨日のノリで話しまくる。ああすっきりした。