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Jan 2015

atomic からnuclearへ

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by 卓 坂牛

一部の卒論発表会でTIME誌の中で50年代から原子力発電所についてどのようなことが書かれてきたかという言説分析があった。これは結構面白い。もちろんその言説の深層にせまるわけではなく端的にどういう観点から書かれているかという分析であり、それが時代とともにどう推移してきたかという分析である。しかし25年分(だったかな?)の週刊誌の言説分析しかも英語だからこれは結構根気がいる。よくやったもんだ。この手の分析はもちろん他のビルディングタイプでもできそうなのだが(例えばskyscraper)よほど巷の噂になるようなものでないと誌上に登らないだろうから原発はタイムリーでやりがいのある対象と言える。その中でひとつ面白いのは原発をどう呼ぶかであるがその昔はatomic power plantと記されていたものがあるときからnuclear power plantに変わってきたそうだ。それはatomicが原子爆弾を連想するからと発表者言っていた。本当かな?

資本主義の終焉は何を導くか?

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by 卓 坂牛

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私が日建設計をやめる時(1988年)マルキストである私の父親は21世紀世界経済がどのような事態になるかを予測して独立して建築なんてやれる状況ではないことを語った。そして日建をやめないよう私を説得した。しかし考えてみればマルキストが資本主義の歯車のような会社で働く息子を否定しないというのもへんな話である。その時私はもちろん父親の言うことを真に受けてはいなかった。マルキストが資本主義の終焉を語るのは当たり前のことだからである。しかし今は普通の経済学者や政治家がそういうことを言う。例えば水尾和夫は元モルガンスタンレーにいて、その後内閣府で官房審議官までして最近『資本主義の終焉と歴史の危機』集英社新書2014を書いた。その内容は20年以上前に父親の言っていたことにほぼ等しい。簡単に言えば資本主義は先頭ランナーが後続から資源を買って加工して付加価値を付けて後続に売りその利ざやで儲ける。儲けた金で工場を大きくしてもっと作ってもっと売ってもっと儲けるという成長のイズムである。しかるに21世紀に入り、すでに先頭ランナーは息切れして、後続ランナーは元気になり全員が横並びにならんとしている。こうなると作ったものを誰に売る?売る相手がいなくなるので儲からない。儲からない資本主義はもはやその死期を迎えているというわけである。昨今資本主義批判の本は巷に溢れているがこの本は最もわかりやすい。榊原英資、内田樹、佐藤優などなどが推薦し17万部も売れている。トマピケティよりはるかに説得力がありかつ明日を考えさせる本だとぼくは思う。
さてそんな本を読みながら山崎亮『ソーシャルデザインアトラス』鹿島出版会2012を並行して読んむ。そこにはこう書いてある。昨今メディアに登場する建築のほとんどは「コマーシャル建築」である。それは経済的な価値を重視し、人をどれだけ集められるか、いくらで貸せるかというようなことが問題になる建築なのである。一方建築にはそれとは異なり、困っている人を助ける類のものがありそれはソーシャル建築と呼ばれる。この手の建築は地味だし、金にならない。よってメディアにはあまり載ってこないから誰も知らない。しかしこういう建築も重要だろうと言って山崎氏はその紹介の本を作ったわけである。ここでこの両極を経済と結びつけるなら、コマーシャルは資本主義的であり、ソーシャルは社会主義的ということになる。先ほどの資本主義の終焉に説得力出てくると、コマーシャル建築は原理的に終焉するということになろう。
さらに並行してMOMAで2011年に行われた展覧会『small scale big change』を読むとこんなことが書いてあった。モダニズムは社会の最大公約数のために社会を抽象化して多くの人のために巨大スケールの建築を作ってきた。しかし時代が変わり、現在必要なことは社会を抽象化せずに、個々人を大事にして少数の人のために小さなスケールの建築を作り社会を変えていくことだと。
こうして三つの本を同時に読むと資本主義は超低空飛行をして、それに後押しされるコマーシャル建築の未来はかすみ、巨大スケールで個人を無視した建築はお役御免となる。そんなストーリーが自然と生まれてくる。おそらくその流れにそう間違いはないように思う。でもそうは世の中進まない。あるいはそれはひとつのアンチ資本主義原理主義のようにも響く。ビッグではなくスモールというのもMOMAっぽい宣伝文句に聞こるし、なにか不自然である。コマーシャルでもソーシャルでもなく、ビッグでもスモールでもないものがあると思う。

茨城町廃校再利用計画プレゼン

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by 卓 坂牛

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茨城町の廃校小学校再利用計画のプレゼンが雪で中止になるかと心配したが、東京に比べて茨城はほとんど雪が降らず予定通り行われた。涸沼周辺の二つの学校に焦点を絞り、スポー系、コミュニテイ系、アート系の四つの提案をした。町ではすでに住民の意見収集なども行っておりそれも踏まえこれからひとつの方向性を作るとのこと。引き続き来年度にこの仕事は敷継がれ、来年は住民も交え案をひとつに絞り実現へ向けてWSなどを行っていきたい。

駐車場は貸して駐輪場は二段式になった

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by 卓 坂牛

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うちのマンションは総戸数70戸弱。そこに駐車場が屋内が30第弱屋外が10台くらいあるのだが、屋内の駐車場には空きがでてきて、屋外の駐車場はついに使う人がいなくなり、近所の企業にまるごとお貸しすることにした。一方駐輪場は数十台分あったのだが希望者が増えて倍増する計画で一部を二段式にした。おそらくこうした車のニーズが減って自転車のニーズが増える傾向はますます増えると思う。こうなると靖国通りも新宿通りも車線を一車線減らして自転車レーンを作ることを考えてもいいのではなかろうか。もちろんきちんとした調査は必要だとしても、、、

非合法探検隊

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by 卓 坂牛

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甲府の現場は東京同様今日の気温はぐんと下がってかなり寒い。早朝の電車で帰りは夜。一日現場をウロウロしていた。往復の車中で読みかけの本:ブラッドリー・L・ギャレット(Garrett,B・L東郷えりか訳『立ち入り禁止を行く――都市の足下・頭上に広がる未開地』青土社(2013)2014を読む。先日の朝日の書評にも載っていた話題作。著者はPhdを持つ社会学者のようだがその正体は不明である。というのも立ち入り禁止区域潜入のレポートはそれだけでひとつの犯罪を自ら暴露した記録のようなものだからである。よってその潜入先は場合によっては(本当に潜入が非合法のような場所の場合)正確な場所と日時は書き換えられ、あるいは明示されていない。主な潜入先は、廃墟、工事現場、地下インフラ、使用済みの軍事施設、などである。躯体が出来当たっがスカイスクレーパーの最上部での夜通しのバーティーなど少々気違いじみている。しかしこの手の都市探検は実は著者の思いつきのような行動ではなく、多くの同好の輩がいるというのが驚きである。

Arquitectura social

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by 卓 坂牛

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ソーシャルアーキテクチャーの根っこを探るべく助手のS君に南洋堂に調査に行ってもらったらなんでも知っているSさんがいろいろと本を紹介してくれた。一つはRural Studioの作品集。これ2014年に出ているからかなり最新情報。20年の営為が詰まっている。それからMOMAで行われた展覧会Small Scale Big Change(2011)のカタログである。そしてBuilding Brazil ――Proactive urban renewal of informal settlements つまりブラジルファベーラの再生である。などなど。
今年は来月Arquitectura socialのシンポジウムがあり、小学校再生プロジェクトが2年目に入り、新しいリノベプロジェクトが始まりそうで、夏にはブエノスアイレスのスラム(villa)調査も行う。腰を据えて Arquitectura socialを考えてみてもいい。
しかしこの言葉の意味はラテンアメリカ行くとスラムと結びつくし、東南アジア行くと災害に結び付き、先進国だとリノベに結びつくわけで世界的に意味合いがいろいろ変るようである。

90を超えても知的に生きる

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by 卓 坂牛

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外山滋比古90歳を超えてこんな本を書いている(『知的生活習慣』ちくま新書2015)一体全体どんな健康な精神と肉体を持った人なのだろうか?学生の頃読んだ『知的創造のヒント』は40万部近く売れたらしい。その頃からこの人みたいに脳みそを鍛えようと思ってそこに書いてあることを一生懸命真似たけれどまあその足元にも及ばない。そしてそれから30年たってこの人は未だに膨大な着想メモを書き続け、5つの勉強会を続けているという。恐れ入った。

不機嫌な人は幼稚に見える

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by 卓 坂牛

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和田秀樹『感情的にならない本-不機嫌な人は幼稚に見える』新潮社2013をつい丸善で買って30分で読んだ。というのもいつも感情的になる人を見て幼稚だなあと思っていたからである。しかし読みながら、かく言う自分も論文の梗概とか読みながら学生相手に感情的になっている。ああ幼稚に見えているのだろうと反省しきり。また本書には次のようなことも記されている。Should 思考はグレーゾーンを認めず、グレーゾーンを認めない人はつまり原理主義者であり、そう原理主義者がいるとどうも周りの感情を悪化させる。しかし人のことばかりは言えない。このshould思考は別の言い方をすると曖昧さ耐性が低い状態をいうのだが、私も酒を飲んで感情的になったりするとこの曖昧さ耐性が0になり白か黒かはっきりさせるようになり、対人関係においてもあいつはいいとか悪いとかダメだとか言うようになる。
感情的になったらどうするかこの本では「放っておく」そうすると「忘れる」だそうだ。そんなことできるだろうか?できない場合は「動く」こと。なるほど。そして考えても始まらないことは考えない。はいそうしましょう。

菊竹清訓の方法論

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by 卓 坂牛

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国立建築近代資料館に菊竹清訓アーカイブを見に行った。今日はA0翻訳会の予定だったがメンバーの一人天内君がインフルエンザにかかったために(おかげで)翻訳会は中止となりこうして菊竹展に来られることになった。
菊竹清訓は僕の中では作った建築もさる事ながら、建築の方法論を真面目に模索した日本で最初の建築家として輝いている。菊竹氏自ら言うように建築とは方法が存在しない工学でありそれはとても珍しいことである。それゆえ多くの人がその方法を確立しようとチャレンジしては失敗してきた(かくいう私の『建築の規則』もその一つである)。建築の方法論とは他の工学のそれのようにリジッドなものではなく、もっと緩いものである。とはいえそこにある種の原理があると僕は思い『建築の規則』を書いた。その時そのての方法論を古今東西有史以来調べた挙句に菊竹氏の閃きに出会ったわけである。そういう意味で建築の方法論を記した他の建築家として磯崎新と篠原一男は日本近代建築史において僕が最も重要と思う建築家である。
菊竹展では50ページほどのカタログがある。売っているのかと思っていくらか聞いたら無料だった。今時こんな立派なものを無料でくれるなんて凄いとは思うが、その必要はないようにも感じる。売ったらいいと思う。その中に山名先生の文章がのっておりアーカイブの重要性が謳われている。まったくである。噂によると建築家藤井 博巳の図面はすでにポンピドゥーが買い上げているとか、、、、文化庁頑張れ。

ご苦労様

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by 卓 坂牛

理科第二部卒論、卒計発表会。発表できなかった人3名、出せなかった人1名。1時半から6時半までなんとか終わって会議して8時。神楽坂の一品香に意匠系の学生と非常勤の先生数名で食事に行ったら、座敷が今本研究室に占拠されていた。テーブルの方も我々以外のお客さんがいなくなり、一品香が理科大でいっぱい。
学生諸君ご苦労さまでした。