社会的共通資本
宇沢弘文の『社会的共通資本』岩波新書2000では経済、文化がバランスよく発展するために社会が共有すべき資産を「社会的共通資本」と呼ぶ。それらは農村、都市、教育、医療、金融、環境であり、これらを経済史の中に位置づけている。そうすると何が見えてくるか、現在のネオリベラリズムの中ではすべての分野で儲かるとことが最優先にされるがためにそれらの本来のあるべき姿を逸脱するものあるいはそれ自体の衰退を招くものが出てくるわけでわる。典型的なのは農村、教育、そして都市、医療、環境も同様である。著者に言われるまでもなく、これらの社会的資産は無くなっていいものはひとつもない。世界は冷静にこうした問題を直視しないといけない。
何者
早稲田大学の現役学生小説家朝井リョウという名前をどこかで知って一冊読んでみた。『何者』というタイトルの直木賞受賞作、仲良し5人の就活物語である。最初のうちはお互いが協力したり、励まし合ったりしているのだが、終盤お互いの欠点を露骨に非難し合う結末となる。その批難のかなりの部分はツィッターで呟いていることへ向けられる。主人公はツィッターに二つのアカウントを持つ。周りからは本人だとは気づかれないと思っていた「NANIMONO」というアカウントがメルアドからバレてしまい、そこに好きに書いていたことが最後に徹底的に非難される。
「あんたはさ、自分のこと観察者だと思ってんだよ。そうしてればいつか、今の自分じゃない何かになれるって思ってんでしょ?」「あんたは、いつか誰かに生まれ変われると思ってる」「いい加減気づこうよ。私たちは何者かになんてなれない」
僕の身の回りでもツィッターで傷つく人は少なくない。SNSが普及すればするほど、SNSワールドの言葉に敏感になるのは当然である。僕らの世代が大して気にしないことでも今時の大学生はとてもデリケートである。彼らにとって現実の世界と、SNSの世界は併存しており、彼らはそのどちらの世界の中でも生きていかなければならない。そういう生き方は恐らくそう簡単に消えることもない。
Time Flies
去年は出られなかった大学の新年会(正確に言うと理科大工学部の新年会)に出席。理事長が挨拶でinnovation, entrepreneurship, quaity of life この三つがキーワードだと述べておられた。新年会の後丸善に行って新刊を物色。去年の今頃はロベルトたちと桂を見に行ってたことを思い指す。光陰矢の如しである。Time flies.
いつになったら終わるのか?終わらないのが表現というものの宿命なのか?
今日は朝から原稿と睨めっこ。やっと昨日一つ短い原稿を送ったのでまた長い原稿とにらめっこ。図版を加える、文章を足す、引用を足す、図版番号を振りなおす、文献表を刷新する。とりあえずここ1ヶ月分くらいの修正と付加した原稿をプリントアウト。A4表裏で100枚。そして再度読み直す。読むそばから赤が入る。半年こんな調子でずっとやっている。翻訳も平行していやっているが、こちらも何度目かの読み合わせしても絶対赤は入る。そうやって2年半。翻訳やっているとつくづく思うのだがやろうと思えば一生やれる=かかる(もちろん能力がないからなのだが)。こういう原稿もやろうと思えば一生終わらない。八束はじめさんの何かの本のあとがきに出版されたそばから直したくなると書いてあった。八束さんにしてそうなのだからいわんや私ごときおやである。スケッチも描いたそばから描き直したくなるのであり、いつになったら一回で書ける(描ける)ようになるのだろうかと思いつつもう55である。
もっとゲーリーを
12月にエンリクが来た時ザハの国立競技場の話からスターアーキテクト問題に移り、ビルバオの話になった。彼はビルバオをどう思うかと聞くので僕はビルバオであの建物を見て感動したと言うと、彼もビルバオの街はあの建物で復活したと言った。しかしと僕は続けて、世界中であれを作り続けるのはどうかと思うと言うと、その通りと同意した。しかしこの間読んだglobal architectなる本に書いてあるとおり、スターアーキテクトに頼むクライアントはスターのブランドイメージが欲しいのであって、デザインを変えることは容易ではないと書いてあった。そうだよなあと思いつつ本当だろうかと疑心暗鬼だったのだが、今日ジェンクスが10年くらい前に書いた本(Charles Jencks Iconic building Rizzoli 2005)を読んでいてやっぱそうなんだというインタビューが載っていた。それはジェンクスがゲーリーに行ったインタビューである。
CJ:フランク、アイコンの作り方が変わったよね・・・
FG:ビルバオから僕は「フランク・ゲーリービル」を作るために仕事を頼まれるようになった。彼らは「フランク・ゲーリー」を欲しいと言うんだよ。打ち合わせでデザインを置くとクライアントはこう言う「うーーんこれはゲーリービルではない」・・・・
もっとゲーリーっぽくというわけである。これはゲーリーだけではないだろうなあ、、、、、ザッハもリベスキンドもアイゼンマンもであろう。
外国向け年賀状
去年末は理由はよく分からないが例年に比べてとても忙しく、ついに年賀状を作る暇が無かった。いつもは12月の1週目くらいにできているのだが、、というわけで去年末に腹をくくり年賀状はこちらからは出さない。来た年賀状に返信するだけと決めた。そして正月三が日以降にはもう来るまいと踏んで、3日に年賀状をつくり一度に返信してさあ終わったと思っていた。しかしそうは問屋が卸さない。今日6日になってもまだ年賀状は少しずつ届く。しょうがなくちょぼちょぼ返信しているのだが、外国からもご丁寧にカードが届く。そういうのは日本語の賀状を訳してメールに添付して返信している。しかしせっかく作ったのに10通くらいしか出さないのももったいないので、ブログにあげることにした。たまたま見た方にHappy New Year!!である。
数学者の文章は論理的
重い腰を上げて篠原先生のアフォリズム集の英訳を始めた。最強のメンバーで臨むこの翻訳チームのなかで最弱小の私はページ数を最も少なくしてもらったが、そうは言っても和訳と違って英訳は大変である。そう思って始めたが、たしかに大変は大変なのだが、実に篠原先生の文章は主語述語が明快で英語にするのに困ることは何も無い。とりあえず本日の文においては。これが最後までそうかどうかは分からないが、数学者の文章はやはり論理的ということか?