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Feb 2015

研究室のテーブルリフレッシュ

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by 卓 坂牛

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●打ち合わせ大テーブル3✖6版4枚分
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●僕のテーブル3✖6版2枚分
坂牛研では前任の直井先生から頂いた古―――――いグリーングレーの事務所家具を捨てずに使っている。ただしそのまま使うと本当に古―――――――いまんまなのでそれはさすがに痺れるので3✖6版のしなランバーコアを30枚買ってきて載っけたり脚をつけたりして使っている。そうするとあのグリーングレーは視界から消えてホッとするのである。そのランバーはクリアラッカーをかけて使い始めたが1年立つと汚れるので3月になるとサンダーかけてまたクリアをかける今年も昨日サンダーがけを行い。テーブルは新品に戻りました。

ゲシュタルト的な塊を識別したがるのが人間

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by 卓 坂牛

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ゲシュタルト心理学が示すように、人間はものを識別する(区別する)本能的な能力がある。その場合あるもの(図)をその背景(地)から識別するための条件がいくつかある。図のまとまりがあること。図と字の間に輝度差があることなどである。まとまりがあるという言葉は妙に曖昧な感があるがヒトデのようなものより、饅頭のようなものの方が背景から浮き出やすいということである。この林のように沢山木は一本の木が立っているよりその塊を識別しにくい。
この人間の識別能力はもちろん視覚に限ったものではない。聴覚においても我々は音の塊を聞き分ける。運命のジャジャジャーンを始め、ポップミュージックのサビの部分などをよく覚えているのは聞き分けが容易であると同時にその音の塊は記憶の棚に置いて後日引き出し易いということでもある。味覚で考えてもスープに比べてカレーライスには具というものがありそこに味覚の塊がルーの中に浮遊していることに気づく。では触覚は?無理やりいうなら荒川修作の天命反転住宅は感触の塊がランダムに配置されザラザラ、ツルツル、凸凹、斜めを足の裏で感じ取るように作られている。そこには感触のゲシュタルトがある。焼き鳥屋やうなぎ屋の前には匂いのゲシュタルトが漂っている。
さて一方でこうした5感のゲシュタルトをあえて否定してフラットにしようという行為(表現)も簡単に思い浮かぶ。ミニマリズム音楽、ポタージュスープ、平らで同一素材の床、無臭の空間、モネの絵などである。
五感がゲシュタルトを感じ取る場合その対象の価値が高まる必然はないのだが、往々にして人は識別しやすいものに価値を見出したがる。理由は分かりやすく、人を説得しやすく、記憶に残りやすいからである。モネの絵は当初完成品ではないと酷評されたのも分かりにくいからであろう。ミニマルミュージックを嫌う人のほとんどはメロディーが無いと思うからである。しかしそれが絵画や音楽の価値を下げるこにはなるまい。
こんなことを長々と書いたのは建築の評価もゲシュタルト的に識別しやすいことに重きが置かれる傾向があるということに最近気づいたからである。一昨日の川久保玲のように分かりづらいものの置き方には思考を彷徨わせる意図がある可能性もあるのであり、それこそが受容者の想像性を掻き立てる真の象徴性を兼ね備えた場合もあるのである。
もちろん識別できないことが説明能力のあるいはプレゼン力の不足によるのであれば論外なのだが。

やれることをやろう

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by 卓 坂牛

新刊本の打ち合わせ。本の概略を決めていただいた。定価2400円。初版2000部。サイズは菊判。これは『建築の規則』と同じ大きさなので2冊並んで置ける。全200ページ。ページ750字で下端は少し空けそこに註と参考文献を入れていく。さて自分の写真でもう少し使えるものを探し、章ごとのダイアグラムを作り、最後の対談の相手にお願いをして6月ころにはしたいところである。入稿は10月末。9月は学会、ブエノスアイレスと忙しいので8月が勝負だろうか?進行中の翻訳の脱稿目標が3月。前書きなど入れて、入稿はゴールデンウィーク明けくらいだろうか?篠原先生のアフォリズムの英訳が7月。バルセロナのWSが7月末。そのあたりで二つの建物が竣工。もうひとつの本の入稿が盆前。そして10月末に本書の入稿。時間はあっという間に過ぎていく(Time flies)。先行していろいろなことを終わらせないと終わらない(当たり前だけれど)。

ものの置き方

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by 卓 坂牛

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川久保玲が2008年にデトロイトの美術館で展覧会を行っている。タイトルはREFUSING FASHIONである。ファションの拒絶とでも言おうか。そして展覧会場の壁には自分の作品を説明するつもりはないというようなことが書かれている。展覧会を見たわけではないがカタログを見る限り、かなり乱雑に自らのデザインした服が壁に貼り付けられたり、床に置かれたりしている。
ファッションであろうと、絵画であろうと、建築であろうと展示の基本は展示品を分類して、順序を考えてストーリーを見るものに分かってもらおうとするものである。つまり展示品の一つ一つは展示のストーリーを語る言葉でありその言葉同士の接続関係はその並び方である程度推測できるようになっているものである。それはあるときは時系列に並べることにより作者の作品の流れを知らせるものであり、ある時はその作品の特徴ごとに分類することで作者の個性を立体的に鮮明にするものである。
という展示の普通の考え方からするとこれはどうもそういうストーリー(説明)を拒否してランダムに並んでいるように見える。そしてそういう「ストーリーを拒否したものの置き方」というものがあってもいいのだろうと思うに至るわけである。しかし一体そういうものの置き方とは何を欲してなされるのだろうか?(この展覧会がそうなっている確証はまるでないのでこれは想像の域をまったくでないのだが)。
たとえばスーパーマーケットに並ぶ商品というものはだいたい列ごとに商品分類されており、買う人が買いたいものに短時間でたどり着けるようになっている。加えて列と列の関係も近しいもの同士が並んでいる。この列の隣にはきっとこういうものが並んでいるだろうという推測が可能なように配慮されている様に思う。一方ドンキホーテのものの置き方は必ずしもそうではないと言われている。買う人はランダムに並ぶ商品の中をさまよい自ら欲しい物へ辿りつく楽しみ(?)を味わえるようになっている。さらにその彷徨いの中で別の商品に出会う可能性も期待している。
そう考えると川久保がものの置き方の論理性を拒否した(と僕が推測する)こととドンキホーテのランダムな商品を置き方には近しい関係があるように思えてくる。加えてレイアウトというものは必ずしもロジカルに行われているとは限らないししその必要性もない。ということに気づく。ロジックを排除した並び方は思考の彷徨いを誘い、その彷徨いが見る側の内側にある欲求だったり、見方だったりを引っ張り出してくるからである。
最近ものの置き方の持つ意味が気になっている。街並みのようなものを考えてみてもロジックがある場合もあればない場合もあるしどちらがどれだけいいとか悪いとかいうことを言えるわけでもない。

ズントーの本

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by 卓 坂牛

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ピーター・ズントー(ツムトア)の文章(『建築を考える』みすず書房2012)を読んでいたら「設計の礎になるのは自分がしてきた建築の経験である」と書いてあって、そういう部分は少なからずあるなと納得する。若い頃はそんなことはないと思っていた。どんなに幼少の頃に貧困な建築環境に育とうと大学教育とそのあとの生活で建築は変わると思ってきたが最近はそりゃそういう人も100人に一人くらいはいるかもしれないが、まあ無理だと思うようになった。槇さんや谷口さんのような建築は彼らのような育ちをしなければできないものである。そう考えるとこの人はこういう幼少期を過ごしてきたのだろうなあと想像出来る建築家はたくさんいるものである。かくいう自分も結局自分の過ごした幼少期のさまざまな体験が建築になっているとしか言いようが無い。それ以上でもそれ以下でもないように思う。もちろんそのつくり方とか表層の部分ではどうであれその真ん中に滲むものはそういうものなのだと思う。
この本のブックデザインシンプルで素敵だと思った。まさにズントーである。彼の幼少期はきっとこういうことだったのだろう。葛西薫のデザインである。

翻訳会への道すがら飯田橋に一羽のサギ?

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by 卓 坂牛

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昼から大学で翻訳会。飯田橋駅から大学への坂を下りながら駅ビル脇に残された江戸時代の濠の中に一羽の鳥が見える。あんなところで何をしているのやら?翻訳はいよいよ佳境。年度内には脱稿しようと皆の決意を固める。この本を売るにはタイトルが勝負である。原書の直訳だと中身の良さが伝わらないので思い切った意訳を考えねば。

篠野先生ありがとうございました

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by 卓 坂牛

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(東工大篠野先生、スチュワート先生、奥山先生、北大小沢先生、筑波大鵜沢先生、竹中藤田さん、鹿島辺見さん、岩下さん、私)
軽井沢の現場から東京駅に戻り、丸善で1時間ほど新刊渉猟してから赤坂四川飯店へ。今晩は東工大の篠野先生の退職をスチュワート研究室一同でお祝いした。我々スチュワート研究室は1984年~1985年の2年間だけ東工大に幻のごとく存在した5人の集団であり、それを指導してくれたのがもちろんスチュワート先生であり、そして篠野助手だった。我々は拙い英語を先生と交わしたあとに篠野先生に対して日本語でひたすら我々の論文の思いの丈をぶつけていたのである。あの時の情熱は半端ではなかった。篠野先生にしては迷惑以外の何ものでもなかったのだろうがそれを真面目に聞いてくれたことで今の僕らがある。こうやって話をすると30年前にワープするのだが、感謝の念は絶えない。こうやってお祝いしてあげられることに喜びを感ずる。ありがとうございました。そして篠野さんの次の人生を応援致します。

スティーブとジョニー

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by 卓 坂牛

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軽井沢現場への数回の往復でリーアンダー・ケイニー著、関美和訳『ジョナサン・アイブー偉大な製品を生み出すアップルの天才デザイナー』日経BP2015を読む。アイブの言葉は自分の博士論文にも引用していた。コンピューターの透明性や、取手のアフォーダンスなど彼のデザインの思想にたいそう驚かされた記憶がある。とてもロジカルなデザイナーであると思っていた。しかしこの本を読むと彼は徹底して機能性と、製作可能性を考えるデザイナーであることが分かる。とは言えクライアントのイエスマンということではない。それゆえに彼は転職の末最後にアップルに来てスティーブのもとで花開くのである。天才と天才の核融合といえば出来過ぎた話のようだがどうもそれが真実みたいである。

理科大二部建築学科合同講評会

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by 卓 坂牛

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夜神楽坂キャンパスで理科大二部建築学科の2年生から4年までの後期合同講評会。2年生2課題で4プロジェクト、3年生3課題で6プロジェクト、そして卒計3プロジェクト。審査員は常勤の3人の先生と非常勤の先生たち。新堀さん、河辺さん、浅見さん、蜂屋さん、長谷川さん、木島さん、萩原さん、白子さん、細矢さん、広谷さん、手嶋さん、塩田さん、高橋さんが参加。毎年思うがなかなか豪華な講評会である。
今年選出された作品は形態的に見ると大きく二つに分かれるように思える。一つは敷地に寄り添うもの、もう一つは敷地に寄り添わないものである。一方内容的に見るとそこに建築の重要な要素として人の視線が介在するものとそうでないものがあると思われた。これはつまり僕の中では敷地と人間が建築を分類する大きな分かれ目になっているということの裏返しなのである。そしてでは敷地に寄り添い、人間の視点があることがいい建築なのかというと実はそうでもないということに気がついた
つまり論理的には自分では敷地と人が重要だと分かってはいるがそれを超えたいと思っており、それを刺激するような案が見られたということである。
たまさか審査員の選択で一等賞をとったのが写真の作品である。理科大神楽坂の建物である。2年生にしてこれだけの形が作れるという驚きがある。そしてこの形へ到達するエネルギーと葛藤が垣間見られる。