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Apr 2015

物への切り込み方

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by 卓 坂牛

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とある方から勧められたグレアム・ハーマンの「代替因果」(『現代思想』2014、1月号)を読んでみた。カント的認識論から再度新たな存在論への回帰を目論み、哲学が自然科学に対して守勢に回ってしまった理由を対象に対する思弁を放棄し、人間的事象(ことば、テクスト、政治)へと目を向け過ぎたことに求めている。そして科学が求める「因果」に変わる新たな物の「因果」を求め、それはアリストテレス言うところの「形相因」に近いと述べる。そしてモノの本質に迫る方法が述べられるのだが、そこで興味深いのは「人間の知覚対象は常に人間の知覚の範囲を超えている」という認識である。それはあまりに当たり前ながらあまり口にしない内容でもある。そこで、そんなことは当たり前でそれいいじゃやないかと今までは思い過ごされていたのをハーマンは(というかハーマンと意識を同じくする人たちは)そこでその物へもう少し肉迫するためのメカニズムを考えているのである。
それは一体何のために?と思いたくもなるのだが、その転回の意義はどこにあるのか?どうもそれは一つにやはり近代への反省なのではなかろうか?そもそもカント的な美学への私の批判は形式主義批判であり、質料の再評価なのだが、それも近代批判であるし、、、
Concrete and culture 翻訳の「はじめに」を考えながらハーマンを読み、物あるいは自然への切り込み方が今大事なのだと思うに至る。

水俣病を忘れない

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by 卓 坂牛

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四ツ谷駅に水俣病記念講演会のポスターが貼ってあった。ネットで調べてみると水俣フォーラムというNPOが90年代の終わりに発足してほぼ毎年水俣病記念講演会というのを開いている。毎年数名の有識者の講演会が開かれているのだが、去年は上野千鶴子、中島岳志、今年は平田オリザなど風化しかかった水俣病の悲惨さを後世に伝えるのはもとより、公害を生み出した近代を反省するという狙いがある。その意義に共感する。水俣病が問題となるのは50年代後半。私が生まれた頃である。小学校の社会の時間の話題に公害問題はつきものでアメリカの公害訴訟で活躍したラルフ・ネーダーは我々のヒーロ―だった。
最近授業で近代とは何だったかという時に公害と戦争の話は欠かせない。こうしたNPOがあるというのに感心した。

56

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by 卓 坂牛

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月曜日は本当に長――いゼミとその後の授業で週の頭からハードなのだが、ゼミの終わりにサプライズがあって元気が戻った。皆ありがとうね。でも56とガッツリ年齢を突きつけられたチョコレートケーキに嬉しいやら悲しいやら、、、こんなロウソクあるのね、、、トホホ。

天気がいいので青山あたりを徘徊

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by 卓 坂牛

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〇秋山庄太郎写真芸術館エントランスアプローチ。壁に埋め込まれた写真。
国立新美にマグリットを見に行ったら、となりのルーブル展にムリーニョの「乞食の少年」が展示されているのでそっちも見ようと配偶者に誘われ両方見たら疲れた。しかしルーブルの方ではフェルメールの「天文学者」が展示されていて想定外で得した感じ。マグリットも、フェルメールも今書いている本に例示しているので少々よく見ておく必要があると思っていたところだったので。マグリットについてはコラムにも書いたのでご一読を。http://ofda.jp/column/
新美を出て青山墓地をクロスして秋山庄太郎写真美術館というところに初めて来てみた。根津美術館のすぐそばである。秋山のアトリエ兼自宅だったところだそうだ。秋山は少なからぬ縁のある人なので写真はもとより、その人間や生活に興味津々。素敵な場所で仕事をしていたのだなあと羨ましくなった。
その後この間見られなかった、ステラマッカートニーのインテリア(細矢さん)とMIUMIUのインテリアを見に行った。天気がいいせいかとにかく人が多い。まあ賑やかでいいことだ。インテリアを見て外に出ると配偶者がプラダのビルは一番好きかもというので驚いた。

弦楽器屋さんが裏道に

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by 卓 坂牛

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朝ジョギングがてら選挙に行った。投票所は家から1分。さて高校の後輩が二人いることがわかったが、後輩だから入れるというものでもあるまい。もう一度ポスターを全部見てみた。しかしポスターの公約はどれもにかよっており(原発反対くらいは少々違うが)そこに差異は見いだせないし、人格はまして分からない。そうなると少しでもヒントがある高校の後輩になびき、今回は若い伊藤君に入れることとした。投票してからジョギングしていると「弦楽器と弓の店――Atlier Francais」というお店が裏道のマンションの1階に入っていた。弦楽器ではなく、弦楽器と弓というセットにしているところがいいね。弓も大事なんです。

ディテールいろいろ

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by 卓 坂牛

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〇竹中帽田チーム、ステラ・マッカートニー:つなぎ目のないアルキャストスクリーン
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〇谷口吉生、神宮前のオフィスビル:アルミ切り板5ミリシールの謎
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〇ヘルツォーグ、ミユミユ:12ミリの切り板を支える構造の消し方
さあ昼から追い込みの翻訳会。残念ながら脱稿とはいかなかったけれど来月脱稿だな。ということは「はじめに」を書かねば。ところで昨日ヘルツォーグのMIUMIUの横にあったStella Mac Cartneyのお店のファサードの手の込んだスクリーンにつなぎ目がなくすごいディテールだと思っていたら細矢さんがインテリアは細矢さんで外装は竹中緒方チームだと教えてくれた。アルキャストだと細矢さんはいうのだがつなぎ目が見えないのは嵌合しているからなのかな?高そう!!ディテールといえばヘルツォーグの12ミリのアルミ板を支える構造の消し方や、246に建つ谷口さんのオフィスビルのアルミ切り板間の目地5ミリくらいにシールされているのも驚いた。シールしなければいけないような場所を5ミリにしていることに驚いたということなのだが、、、、(普通ならもっとしっかりシールしろとるでしょう)。

青山あたり

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by 卓 坂牛

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朝一で木場の倉庫に行きクライアントの持っているテーブルを拝見する。1200×2400という超大型のテーブル。これを現在建設中の別荘に入れられるかどうかの品定めである。このテーブルはスライド式で2900まで大きくなる優れものである。だがやや大きすぎなのとマホガニーの突き板の色がかなり濃い。という所見をクライアントに電話で報告。
その足でいっしょに見に行った青山area(家具屋さん)の専務さんとareaのショールームを見に行ってソファ、テーブルなどを見せていただく。午後のゼミまで少し時間があるので最近できたヤマギワのショールーム、とカッシーナを周り最近の家具のお勉強。それで分かったことだが、LCソファ(コルビュジエ)はクッションの中身に2種類あってフェザーの入っているものは実に柔らかくて座りやすいということ。これはareaの方も言っていたが少しフェザーをいれると体へのクッション感が全然変わる。
まだ時間があったのでプラダ前にできたMIUMIUの新店舗を見に行く。プラダ同様デザインはヘルツォーグ。厚さ12ミリのアルミ巨大庇が建物上部からキャンチレバーで垂れ下がっている。しかもアルミ同士は溶接。建物サイドに回ると高さ1メートル位の部分から上50センチくらいが鏡面に磨き上げられている。溶接の目地部分も磨かれていて目地は見えない。プラダ同様とんでもないコストだろうことは容易に想像されるがプラダのようなスペクタクルな感じがぐっと抑えられ。Mac bookを開けようとしている風情である。周囲や曇天の空に消えそうな色とどうでもいいようなただの箱。こういう建物あり方は好きである。あの辺のファッションビルの中では頭一つ抜けている感じがする?

ありそうでないこと

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by 卓 坂牛

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今から10年くらい前にまだナディフが表参道の裏に店を構えていた時に鹿島出版会の人に紹介されて田中巧起さんとお話した記憶がある。徹底して美術史を振り返り、何が行われていないかを考えていると言っていた。その後ダンボールを並べたり、家具を並べたりする作品や、同じ動作が繰り返されるヴィデオ映像などを見ながら、確かに今までに似たようなものがあってもちょっと違うと思った。最近森美術館で流れていたヴィデオ映像は板前さんの調理風景のアップでこれはえも言われぬ魅力があった。人が料理を作るというのはたいして不思議な光景ではないのだが、プロの料理風景はテレビの料理教室くらいのものであまり見たことがない。それをアップで見るというのはありそうで無い光景である。このありそうで無いというところが重要な視点である。この本(『必然的にばらばらなものが生まれてくる』武蔵野美術大学出版局2014)はそんな彼の歴史が綴られている。作品のヴィジュアルがないのだが、言葉で考えている彼の作品はむしろ言葉の方が伝わるのかもしれない。ありそうでない着眼点にぎょっとする。なるほどものにはまだ見えていない面があるのだということを知らされる。

SRとNM

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by 卓 坂牛

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21世紀の僕らが倫理的に暗黙に社会やそこに登場する物(建築でも都市でもなんでもいいのだが)に対して持っている(持つべき)感覚の一つは、それらを大事にしましょうという「優しさ」であり、もう一つはそういうものが自分たちの知らぬ不気味なパワーを持っている(原発はわかり易いが)かもしれないという「不安」である。この優しさと不安を哲学的に裏付けている昨今の風潮が、新唯物論(new materialism)と思弁的実在論(speculative realism)というものである(らしい)。そもそもカント以来の認識論的転回はモノ自体を否定して「人の理解したモノ」があると考えるようになったのだが、それがおかしいと言い出したのが上記哲学的状況で千葉雅也はこれを思弁的転回と呼んでいる。
つまり「人の解釈したモノ」があるのではなく「モノ」があるというカント以前の状態にひとまず戻って、さらに冷蔵庫も机も椅子も電話もそして人間も同じ水準にあり、人間をモノとは別格に置く認識論を破棄する考え方である。
さてこうした考え方は建築の創作、受容にどのような影響を及ぼすのだろうか?と考えてみるとストレートにこの考えを受容すればモノと対峙せよということになる。NM new materialismに即せば建築を大事にしなさいとうことになるし、SR speculative realismに即して考えればモノ自体の持っている計り知れない世界に向き合いそこから湧き出る未知の世界を感受せよということになる。この考え方は様々なものの価値が相対的に社会に浮遊しているというポストモダン的な思考を否定して、かなりの程度個人的な「思弁」に依存しそれをお互い極度に否定しあわないという関係性を肯定するもののようである。さらに言うならば、昨今のビッグデーターで様々な意思決定を行ったり価値判断を行う傾向をも否定していくものでもあるだろう。しかしこれは昨今の学生の卒計などにも見られる社会性」の呪縛からの解放とは、やや異なる位相にあるだろう。彼らの選択は解放へのエネルギーに基づくものであるが、上記思弁的転回はモノを再度見つめ直す強い観察眼と洞察力に裏付けられている。
とここまで書いてしかしではその観察学と洞察力とは何なのか???まだ先はよく見えない。

曙橋にはY字路が多い

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by 卓 坂牛

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今朝はジョギング中(というのは嘘で最近足が痛くてウォーキング中)にコインパーキングに停まっている超ロングのリムジンがパーキングからはみ出ているのを見て思わず笑った。そのそばに新たなY字路を発見。曙橋界隈にY字路が多いのは何故だろうか。このあたりの都市史と関係するのだろうか。午前中お勉強。午後は東工大でエスキス。今年はエスキス受ける学生が去年の倍はいるなあ。不思議なものである。夜は理科大でプレディプロマエスキス。ああ腹ペコだけれど食べるのはやめてシャワー浴びてベッド直行して本読んで寝る。