佐藤万絵子ドローイング
入江君に模型を作って欲しいと頼まれたのは何年前だったか?朝日アートスクエアで行うアーティストが自分の作品をシミュレーションするために会場の模型が欲しいというのである。結局僕らは忙しい時でおおむろ君を紹介して彼にやってもらった。それから予定の展覧会は1年延びて今日がオープニング前日。なのだが前日にライブをやって会場で作品を制作するのである。そのライブに来ませんかと入江君に誘われて行ってきた。アーティストは佐藤万絵子さん。どういう制作かというとコントラバス奏者の即興(たぶん)演奏に反応しながら、マシューバーニーのごとく、会場に敷き詰められた白い紙に極太のオイルスティックのようなものでドローイングするのである。1時間そのドローイングは続く。身にまとう白いシャツは最後にはオイルの色がつき、手足もどろどろである。かすかに見えていた白い足の裏と土踏まずがなまめかし。それも最後には見えない。そして1時間後に床には小学生のお絵描きのような、しかしもちろんそれとは異なる軌跡が刻まれていた。
石田さんありがとう
暮れに木島さん経由で石田さんから『ぐんま建築ガイド』を頂いた。監修は前橋工科大学、発行は上毛新聞社、定価1500円、ページ数は96と多くはないけれど、データー、説明、地図がとても丁寧に作られ(書かれ)ている。また巻末には石田さん、妹島さん、星さん(前橋工科大学学長、建築史家)、渡辺真理さん、田中元子さんの座談が掲載されている。
これを見て3つのことに驚いた。一つ目はここに載っている作品は別にぐんまローカルというわけではなく、ばりばりの現代建築家のものが多い。そしてこんなところにみんな人知れず作っているということ。二つ目はぐんまくんだり(失礼)に、こんなに素敵な建築がたくさんあるんだという事実。そして最後は大学のおそらく建築学科の方が協力してこんな本作っちゃうんだということ。
石田さんありがとうございました。
パイレクス筆たて
やっと中国にレクチャータイトル二つとレクチャーサマリー二つを送った。一日遅れだけれど。サマリーはできているが細部がうまくいくものか??短時間でレクチャー作るって、短時間で原稿書くようなもので頭から湯気がでそうである。幸いオフィスはとても気持ちよく頭は冴える。いい気持ち。オフィスの引越して身の回りを整理していると良い鉛筆立てというものがないことに気づく。本当はそのへんに転がっている缶からとかをブリコラして使うのが良さそうなのだが、そういうものも落ちていないので、パイレックスの計量カップを買った。実はガラスは一番インクなどで汚れにくいものである。汚れても洗えば落ちる。それに取ってついていて持ちやすい。これは結構スグレモノ。
アンリアレイジの年賀状
もう全く降参で今年も年賀状は全く書いていない。いつからこういうことになったかというと、おそらく年末にワークショップをやるようになってからだと思う。その前までは12月の頭にはもう年賀状ができてさらにその年の作品を張ったアルバムを20冊くらい作っていた。今から考えると信じられない。年賀状を書かないことで仕事が減っているかというと毎年増えている。それは自分で仕事作っているのだから別に愚痴ではないのだが、事実として増えている。今年はついに最後の忘年会から酒も飲まずに目の前にうずたかく積もる仕事をかき分けているのだがさっぱり終わらない。この1週間が勝負だろうか?
自分は書いていないのだから人からいただく年賀状を楽しむ権利もない気もするが、それはそれ、今年の一番冴えているデザインはどれか??やはりこれでしょうか?アンリアレイジの年賀状。往復はがき風。切手のところに自社のロゴ。裏側に白の反転字で文言が書かれている。ほとんど読めず。ダビンチなみである。
Modernity and Domesticity
18日南京で話すことを考えていた。テーマはModernity and Domesticity直訳すれば近代性と家庭性とでもなる。なんのことかよくわからず、オランダの建築の先生Hilde Heynenが書いたModernity and domesticity Tensions and contradictionsを読んでみた. 内容は次のようなものである。西洋の住宅は19世紀に入り公私の区別が明確になり、家庭を守る母のための家となる。家は母が守り、男は仕事に行くという構図が作られる。しかし20世紀モダニズムの時代の建築(Modernityを内包した建築)は前衛と呼ばれ、新しい世界を戦いながら切り開くもので、それまでの母に守られた暖かい空間を破るものとなった。また女性の社会進出によって女性が母として家を守り男性が外で働くという構図が成り立たなくなってきた。つまり20世紀は二つの意味においてもはや家庭的な家(domesticityを内包した家)が成り立たなくなった。というものである。
というわけでこれは私が建築の条件で行っている男性性女性性と同じ問題系であることが分かったのでそれに沿って話をすることに決めた。しかし日本の場合はこのdomesticityを内包した建築が作られたことが無かったのではなかろうか?あるとすればモダニズムの初期であり19世紀ではないというのが西洋と少し違う。その辺りを説明しながら、縄文からはじめカワイイまでたどり着きたい。
芸者遊び
紀伊国屋創設者の田辺茂一『わが町新宿』紀伊国屋書店(1981)2013は戦前戦後の新宿を知るのに最良の本だろうし、実に面白い。その実態をもう少し客観的に綴った早稲田の建築の教授だった戸沼幸一編著『新宿学』紀伊国屋書店2013は知っていたと思っていて知らなかったことがたくさん書いてある。
びっくりしたのは、その昔は新宿よりはるかに四谷が賑わっており、田辺も荒木町に夜な夜な遊びにきており、慶應を卒業したときも荒木町の料亭で祝賀会をしたそうだ。それから芸者遊びにはまったとか。
芸者遊びといえば、母の実家は東北一大きい料亭であり祖母はその女将。小学生のころは夏休みといえばその料亭、一心亭に行って夏を過ごす。そこには専属の芸者、テルさんとセツさんがおり、僕ら兄弟の遊び相手で、パチンコ、映画、銭湯と連れて行ってくれたのである。夜になれば、三味線と皷を叩き、僕は熱燗係りで人肌に酒を温めて部屋に運んだ記憶がある。店には東北の政財界の要人が来ていた。渋沢栄一の書生でその後十和田観光電鉄をはじめ多くのホテルの社長になった杉本さんはオープンのキャデラックでやって来てよく助手席に乗せてくれたものである。祖母が他界したとき。僕と杉本さんが弔辞を読んだのを覚えている。
来年は何人?
お袋が他界してから4年ちょっと経つ。もう10年くらい経った気もする。天国で元気に暮らしているだろうか?悲しくはないが、今会えればこんな話もあんな話もしたいなとたまに思う。親父も残念ながらだんだん口数が少なくなってくるのが寂しい。もっと話せる時に話しておけばよかったと思う。今日は初めて親父を車椅子に乗っけてゆっくりと移動させた。その間に色んな話をした。今読んでいる紀伊国屋の話もとても懐かしそうに聞いていた。
いつの頃からか兄貴の家族と僕の家族と親父お袋で大晦日、元日と過ごすようになった。その後お袋が他界しても今度はお墓参りをするようになった。最初は甥っ子も入れて9人いたのが、お袋が他界し8人となり、甥っ子二人が海外に行き6人となった。来年は娘も海外に行くと5人ということか。4人にならないといい。
元旦に思う
大学時代、正月は野沢にいた。競技スキー部におり3年の時は主将をしていた。1年間の100日はスキー場におりバイト代はすべてそれに消えた。
1月は7大戦という国立大学の試合をしていた。7大とは東大、東工大、一橋、名古屋、大阪、京都、神戸のことで。現在はそれに東北と九州が加わり9大戦になっている。僕らの頃はなかなかこの試合に勝てなかった。今年の様子を見ると9校中の真ん中くらいにいるようだ。明らかに30年前よりは強い。しかし、都会の大学のスキー部の強弱はその大学のクラブの伝統やOBの指導などよりも、いかに強い北国の選手が入部するかどうかにかかっている。僕も両親が北国育ちだったので都会の子供としてはスキーがうまかったけれど、同級生の富山や北海道の人間の足元にも及ばなかった。かれらにとってスキーは長靴のようなものである。走るように滑るのである。そんなわけで1年間の100日は合宿で禁酒禁煙である(名目上は)。なので都会に降りてくると飲んで吸っていた。しかし3年の時は主将ということもあり、都会でも禁煙はしていたように記憶する。もしかすると酒も絶っていたかもしれない。その頃から自分の意思で禁酒禁煙ができるようになっている。今年は健康と、倹約を目標に掲げているので禁酒禁煙の一年にする予定。とある有名な人が言っていた。お金は節約した分だけ貯まるものである。なのでさっさと畳屋に住む夢を叶えたく節約する。できることならニューヨークにもブエノスアイレスにも小さなロフトが欲しい。可能な限り早く英語圏とスペイン語圏と東京を移動しながら住みたいものである。