なぜかルノワール展のミュージアムショップに内村理奈さんの著書が3冊並んでいた。どれも面白そうだったが2冊買って一冊風呂で読んだ。19世紀頃のヨーロッパのエチケットのことが色々な側面から描かれている。面白い。例えばchemise(下着)で人前に出てはいけないというが、マリアントワネットはそいうことをしてその姿の肖像画さえある。この絵は書き直させられたらしいが、革命後質素を基調とする時代に入りchemiseドレスが流行るのである。下着がいつしか表面に出てくるのは今も昔も同じということのようであるし、エチケットも時代とともに変わる。
我が家と理科大の神楽坂の間に外濠を見渡すギャラリーがある。MIZUMAアートギャラリーである。あの会田誠を世に送り出した三潴末雄が運営する。彼の著書『アートにとって価値とは何か』幻冬舎2014は彼の生い立ちそして彼の価値観が記されとても分かりやすいし納得がいく。
大学時代に学生運動に明け暮れた著者は卒業後広告業からアート世界に転身した。そこで20世紀の初期のアートが資本主義への反体制スタンスをとることでうまれるカウンターカルチャー(前衛芸術)として価値を持った。しかし市場経済がグローバル化しアートが戦う相手を失い現在アートが独自の価値を持つのが難しい。そこで著者が言うのはそうした矛盾が見えづらい現在でも西欧が世界に発信した文明に内在する人間社会との齟齬をえぐり出すのが現代アートの存在意義だという。
そうは言ってもアート自体は市場原理に従う商品であり、21世紀に成功する作家は大量生産型の工房作家、ダミアン・ハースト、ジェフ・クーン、村上隆などとなっているとこれはルネッサンスや江戸の工房型作家に回帰しているのだと分析している。著者が発見した天才会田誠などはスタンドアローン型で戦いづらいものだと嘆いている。
アートの大量生産というのはそもそも矛盾しているのだが、おそらくこれからの世界では大量生産大量情報発信というマスを相手にするアートと、オーラを纏うもう一つの一品生産型が共存する時代になるのではないだろうか??グローバルな一品生産である。
朝ジムで泳ぎ、新国立に行きルノワールを見る。最近の男性ヌードと赤いチョークのデッサンだけ面白い。2階で配偶者の書を見る。今年はいい場所に展示されている。書の世界は歳とともに磨と厚みが加わるようだ。
アクティブラーニングと反転授業が進んでいる山梨大学から二人の教授をお招きして講演会をしていただいた。きっかけは文科省の助成金でそれに応募するために2012年からまったく0の状態から反転授業(授業内容は15分程度のビデオ化して事前に見ておくことを強制し授業時間はディスカッションなどに割り当てる授業方式)を開始したそうである。その成果は目に見える物が有り効果がないということはあっても前より悪い結果を生んだ事例はないとのことであった。
素晴らしい。できることなら自分もやってみたい。得に昼間部の3年生の座学では効果的な気もする。
こんなことを言うとアナログでアホとなじられそうだが、授業は本来エンターテイメントであり、学生が寝ているような授業をしている教師はそもそも教師の資格が欠如しているのである(だから私もないかもしれないが)。だから本来ならその欠如した資質を改善するべきなのである。しかるに文科省がすすめる施策は資質の欠如を前提にそれをウェッブの力で補おうというものである。これは本末転倒なのである。
なんて偉そうなことをいったものの、やれやれ、こんな先生の授業がおもろいはずないよなという教師の顔はゴロゴロ浮かぶ(自戒の念をこめて)。
最近研究室にコンクリート模型が増加中。じゃんじゃん模型スタディするのは止めないけれど、このオブジェクトはスタイロでもいいんじゃない?と思ったりもする。特に写真に撮るなら。
数日前作品集の色校正があがってきたのだが白黒ページのコントラストがあまりに低く使い物にならない状態だった。こちらのレーザーで出すと問題なかったのでなんとかならないかと依頼すると3種類の違う方法で印刷してくれた。コンピューター上で白黒に直したものを二種類。印刷機上の操作で直したもの一種類。3つにはかなりの差があって二つはやはり使い物にならない。二つ目はなんとか見られるがまだ前回の作品集ほどのコントラストが出ていない。印刷機がここ数年で変わったそうだが、新しくなったのにアウトプットがダメになるのはどうして???プリンターは生き物ということか?先日のワークショップのブックレットが10冊くらい多めに届いたのはその10冊が試し刷りだったと聞いた。微妙な色の差をそこでデザイナがー修正してくれていたそうで、印刷機との格闘は不可避ということのようである。
大学の教員業績のデーター入力が来週まで。毎年この面倒臭い作業が新台の頃からあるのだが、これのおかげで自分の業績が整理されるのはそれはそれでありがたいことでもある。著書、論文、招待講演、ワークショップ、地域連携活動など細かく分類して入力し、招待講演などはエビデンスが必要なのでネットに転がっている自分のレクチャーのフライヤーを全部プリントアウトした。去年度は全部で9回学外講演をしてそのうち8回が海外。スペイン1回、アルゼンチン2回、中国2回、オーストリア3回である。レクチャーのタイトルを見ると自分の考えの変化も分かるし、主催者の求めているもの(世界の潮流)も見えて来る。
今日の朝日朝刊で柄谷行人が憲法9条について語る。安倍がいくら頑張っても9条は変わらないこれは無意識に根ざした日本人の「文化」なのだという。彼はこのことをフロイトの超自我を引用しながら語るが僕にもそう思える。
授業終わると10 時、昨日9時半、今週はあと2日10時コース。これが金町だからしんどい。今日はベネチアビエンナーレに参加していた助教の常山さんから瓶入りBELLINIとトリュフ入りオリリーブをお土産でいただいた。サンクス アロット!!少し元気が出た。早く帰ってサラダ食べよう。
帰国翌日のワークショップ打ち合わせ、ゼミ、講義が終わると9時を過ぎる。ちょっとしんどい。不在中の様子を助手の佐河君に聞きながら帰路につく。研究計画書問題やら、ゼミ来ない問題やら自らの始末をつけられない学生がいるのには閉口である。
ウィーンでも(世界には)社会人学生が多くいてそういう学生への配慮はしなければと思う。しかしそれでも無制限に彼らは自由というわけにはいかない。かの国にはとんでもない時間をかけて卒業する人もいるのだが、そこに研究室制度はなく教員が学生をファミリーのように面倒を見るSystemはない。日本でもそういう自由を欲す学生は研究室に所属せずに卒業するような道があってもいいのかもしれない。しかしそういう学生は当然のことながら研究室に所属することで得られる何かと同等な教育的負荷がかかるような試験などを課さないといけない。それはおそらくそう簡単にパスするものではない。しかしそういうSystemの方がお互いハッピーなのではないかという気もする。