クレア・ビショップと言えば、ニコラ・ブリオーの『関係性の美学』(1998)を批判した「敵対と関係性の美学Antagonism and Relational Aesthetics」(2004)の著者として有名だが、そのビショップの新刊『人工地獄—現代アートと観客の政治学』フィルムアート社2016(2012)を読んでみた。このタイトル原文ではArtificial Hells Partcipatory Art and Politics of Spectator shipなので現代アートと訳されている部分は参加型アートという意味が込められている。内容も時代はボリシェヴィキ(1917)に遡り、場所はラテンアメリカにまで広がり、参加型アートの歴史を追う。参加型アートと言えば関係性の美学出版のあたりに始まったものと錯角するがそんなことはない。また「ヨーロッパと北米の参加型アートが、消費資本主義におけるスペクタクルへの批評として特徴でづけられ、また個人の受け身の姿勢を超えた集団の営為を促そうとする」のだが、南米あるいはロシア、東欧のそれはやや異なる。南米では政治的であるし、ロシア、東欧では美的体験を希求するものだった。
ビショップは冒頭の論文で敵対性という政治概念をアート解読に持ち込んだ人であり、ティラバーニャ、ギリック等を予定調和的として批判的に捉え、サンティアゴ・シエラやヒルシュ・ホルンの作品に敵対性の萌芽が見て取れるとして評価している。敵対性は意見の論理的相違というような明示的な差異ではなく、その存在が自らのアイデンティティを危うくするというような対象にあてがわれる概念である。確かにそうした他者が混在するのが現実の社会であり、そうした他者と交わるほうがよりリアルな社会参加というのも頷ける。
Finally this was selected as the best proposal of the 3rd year students’ studio in TUS.
自分の班の不甲斐なさにがっくりする一方、他の先生の班の力作にほっとした。
http://ofda.jp/sakaushi/diary/
だいぶ前に約束していた3つ先輩の構造計画の服部さんと、服部さんが創設したホッケー部の後輩で僕の同輩である魚博士の宮君。そしてやはり僕らの同窓で東部産業社長の菊池君と会食をすることとなった。そのうち服部さんが同期で東大医学部感染制御学の教授である森屋さんを電話で呼んだ。するとすぐ来てくれた。森屋さんの話しがもりあがっているところに仕事帰りの宮君、菊池君と付属小学校時代同級生だった私の配偶者がやってきた。なんともTHE FUZOKU NIGHT だった。
五十嵐太郎『日本建築入門-近代と伝統』ちくま新書2016グローバリズムはいつでもどこでもローカリズムを鮮明にする。例えばスペイン帝国の町づくりがラテンの伝統を鮮明にした。
昨晩突然キース・クローラックからメールをもらった。今東京にいるので明日のディナーをいっしょにどうという内容である。キースには2年前の3月にセントルイスの篠原シンポジウムで会って以来である。彼は僕の結婚式の2次会の司会でもある。ああ懐かしい。
四谷の陽だまりで会った。彼は今ニューヘブンのピカード・チルトンの事務所http://www.pickardchilton.comのデザインディレクターである。現在は日本の組織事務所と共同でとあるプロジェクトを進めているため3ヶ月に一度日本に来ている。彼はその昔はシーザ・ペリのところにいて大阪の美術館の仕事などをしていた。ニューヘブンに住んでおり、僕の娘がニューヨークに行くのをとても喜び、ついでに僕がニューヨークに来るだろうことを心待ちしている一人である。
彼と会うと(僕は彼が東工大に来た時のチューターだった)気持ちはすっかり大学時代に戻り、その時代に逆戻り。そんな彼がagingを話題にするので毎日走っているよ。でも足が痛くて今日はウォーキングだというと彼も今朝皇居を走ったと言っていた。これからずっとピカードのところにいるのかと聞くとわからないと。来年国際建築論会議を行う予定なので来日するようにお願いすると喜んでなんでもするよと温かい返事をもらった。サンキュー、キース。
アントニオ ネグリ、マイケル ハート、水嶋一憲 他 訳『〈帝国〉–グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』以文社2003(2000)
はグローバリズムの基本教科書なのだが、この本が書かれたのは2000年。ある調査で書名にグローバル化が増化するのは2000年からだそうである。
政治の一極化から経済を含めたグローバリズムが吹き荒れるのに10年必要だったということか。