On October 8, 2016
by 卓 坂牛
大隈教授のノーベル賞への祝辞に「serendipityにも恵まれて、、、」という言葉を見かけた。村上春樹は最初の小説が書けたのは「Epiphanyがあったからだ、、、」と言っていた。偉業を成し遂げるにはどちらも欠かせない。そして凡人は天才の運をうらやむ。しかし実はどんな普通の人にもepiphanyやserendipityはやって来ているのだと思う。ただそれらをそう感じられる感性と、それらをつかんで離さない腕力があるかどうかで生き方は変わる。epiphanyもserendipityもそうしょっちゅうやってこないのだから。
On October 7, 2016
by 卓 坂牛
今年の3 年後期の製図は少数精鋭で履修者は少ないが、休む学生も少ない。非常勤とそのテーマはq、高橋エレメント、帽田 青山のコンプレックス、横山 構造、渡瀬 、坂牛、常山、レンガねのパプリックルーフ。
On October 6, 2016
by 卓 坂牛
平野啓一郎の分人主義を知ったのは何かの本に引用されていたのを読んだ時でそれがいつだったかは思い出せない。それが新書になっているので買って読んでみた『私とは何か「個人」から「分人」へ』2012、6万部売れているというのにはびっくりした。というのもこの分人主義とは個人がいくつかの人格をもつことで人付き合いなどで苦しい人間関係を持たなくて済むという考え方だからである。そこではともすれば多重人格的な側面も現れきっとこんな考え方を肯定するのは特異なことだろうと思っていたからである。6万部のロングセラーということはこの考えを支持する人が多いということである。しかし分人主義というのは生きるのが楽になる考え方なのだろうか?僕は人格の多様性を肯定したいだけなのであるが、、、、
ところで個人という概念はin divisual(分けられないもの)という意味であり、この考え方は西洋的であり、キリストに使える人は一つの裏表ない人格だというところから個人が生まれたという説明は分かる気がする。となると日本人は多神教なのだからそれぞれの神に使える人格があるということもできるのだろう。つまり日本人の方が人分的だということである。
On October 6, 2016
by 卓 坂牛
坂本一成先生の作品集が出版された。少し前にいただいた。今日はその記念パーティー。錚々たる方がおいでになり面白いお話をされていた。石堂さんがこんな作品集はめったにない。編集者としてはやられたという感じだとおっしゃっていた。一体なぜ?と思うだろうが見ていただくとわかる。レイアウトのルールをことごとく破りバラバラにものが並んでいるからである。田中 功起 の『必然的にばらばらなものが生まれてくる』やティルマンスの展覧会を想起させたりもする。何れにしてもこんなの見たことがないのである。それはもちろん坂本先生の世界観の表れなのである。なんでも受け入れますよというあれである。伊東さんが祝辞で坂本さんは一貫性があるというようなことをおっしゃっていたがそうだと思う。敢えて言えばinclusiveな姿勢をexclusiveに貫くのが坂本流である。
On October 5, 2016
by 卓 坂牛
篠原研究室の先輩である山田さんに「いま世界の建築家が考えていること」を示す本はないかと聞かれたが答えがうかばない。調べてみたけれどなさそうである。そこでもし作るならどうするかと考えてみた。3つのアイデアがある。
① 言語圏ごとの建築思想圏を描く
② ジオポリティクスが作る建築思想圏を描く
③ 現代哲学の3つの流れから生まれる建築思想圏を描く
どれも可能だが③が興味深い。現代哲学の3つの流れは岡本裕一朗によればポスモダニズム以降、3つ生まれているという。ポストモダニズムはカントに始まる言語論的転回に支えられているがその後の3つはこの言語からの転回が図られている。
1) 自然主義的転回:言語から心への転回
2) メディア技術的転回:言語から語用そして新しいメディア技術への転回
3) 実在論的転回:言語(人)から物への転回
であるこれに即して世界の建築家の思想を3つに分類できないかと考えてみたのだがどうだろうか?
1) に属すのは、身体論、雰囲気、現象を大事にする建築家
(伊東豊雄、東工大の人たち:坂本先生、アトリエワン、、、、)
2) に属するのは、映画、ネット、ヴァーチャル、コンピューテーションを大事にする建築家
(世界のファブラボ建築家:ニールデナーリ、、、竹中さん、松川さん)
3) に属するのは、マテリアリティ、存在を大事にする建築家
(ヒスパニックの建築家:アラベナ、ソラーノ、モネオ、、、スイスの建築家:ズントー、、、早稲田の人たち:入江先生、平瀬さん、、、)
さあどうだ、これから抜け落ちる建築家はいるか??ちなみに僕は1)と3)のハイブリッドである。
On October 4, 2016
by 卓 坂牛
岡本裕一朗さんの説明では(『いま世界の哲学者が考えていること』ダイヤモンド社2016)新実在論はポストモダン(言語論的転回)以降の3つの転回の一つと位置付けられている、因みにたの二つは自然主義的転回、メディア技術的転回である。さて新実在論では一般にカント以来の人間中心主義を嫌い物自体を復活させる。だけかと思っていたのだがマルクス•ガブリエルは人間に映る物も人間がいない物も存在するという前提である。これは中庸を標榜する僕の考えにもっともしっくりくる。Why the world does not exist2015 を読んでみたい。
On October 4, 2016
by 卓 坂牛
岡本裕一朗さんの説明では(『いま世界の哲学者が考えていること』ダイヤモンド社2016)新実在論はポストモダン(言語論的転回)以降の3つの転回の一つと位置付けられている、因みにたの二つは自然主義的転回、メディア技術的転回である。さて新実在論では一般にカント以来の人間中心主義を嫌い物自体を復活させる。だけかと思っていたのだがマルクス•ガブリエルは人間に映る物も人間がいない物も存在するという前提である。これは中庸を標榜する僕の考えにもっともしっくりくる。Why the world does not exist2015 を読んでみたい。
On October 3, 2016
by 卓 坂牛
さあこの月曜から本格的18分講義の始まりである。話すことはかなり入念に推敲し論理的に端的に効率的に話す。テッドを見習い18分以上は連続して話さない。間に常に質問、ディスカッションを入れる。パワポの後にテキストを見る、授業間は授業ウェブ上でQ&Aを行い学生に優秀解答を選ばせる。話し、聞き、書くのである。このシステムを考え実行するようになり、自分はどれほど時間を無駄にしていたか反省させられる。また人のレクチャーも準備不足はすぐ分かるようになり、聞いてられない。また効率重視で早口になった。スピードはとても重要。そのために身の回りはライトに。
On October 2, 2016
by 卓 坂牛
テレビを買った。結婚してからしばらくテレビがなく、最初に買ったテレビはAQUOSが出たての頃でなん年前だか覚えてない。サイズは20インチ。先日WiMAXを解約して家のWiFiを光にしたのでついでに光テレビにした。うちのマンションはBSアンテナが立っていないので外国のニュース(BBC やEuro News)を見ようとすると光テレビしか手段がないのである。ところが光テレビのチューナーがきてみると主たる端子はHDMIであり昔のAQUOSにはそれがないのである。というわけで半ば仕方なく、新しいテレビを買うことにした。少し大きくして30インチ。しかし余計なものはいらないと思ったので大手テレビメーカーのoem製造をしているオリオンという会社の何もないテレビを買うことにした。普通30インチだと4万以上はするようだが、オリオンだと2万5千円である。綺麗に写るし不要なものがないからスッキリしているしおすすめである(地デジの録画はできませんが)。
On October 1, 2016
by 卓 坂牛
銀座でシンゴジラを見た。痛快エンターテイメントだった。でも横で配偶者は眠っていた。見終わってジャックランシエールの「政治的芸術のパラドックス」の話をしたら納得していた。政治的ステートメントは上手く入れないと表現の強度は弱まる。また日常性はどうかというとこれも下手をすると危うい。しかし問題は表現者の表現形式とメディアと受容者の受容形式の距離感である。例えば坂本先生の建築は日常性と言ってもしっかり距離感が保たれているので圧倒的に強度がある。これがあまりに近しいと受容側に何の精神の高揚も起こらない。エルメスでミッシェル・ブラジーの作品を見たが、タイトルはLiving room 2である。人間の生活と生物の関係を形にする関係性のアートの一種である。でもここにも表現形式とメディアと受容形式にはある距離感が保たれているように思えた。結構ぎりぎりではあるが。