東大美学で建築を教えていたのが今から10年以上前。その頃の学生とその後3つの本の翻訳をした。当時の東大での授業は濃厚でその後その講義録が『建築の規則』となった。また授業の中に4つの見学があり、連窓の家、ガエハウス、ハウスSA、岩岡自邸の四つを見学して毎回5千字のレポートを書かせそれをその建物のオーナーに評価してもらうという今から考えるととても贅沢な内容だった。そしてそのレポートがさすが文学部という読ませるものだった。その中で岩岡さんが最優秀に選んだのが桑原くんのもので彼はその後大学院に残り我が家で書道を学び結婚して一児の父となり、4月から無事我が家の近くの大学で教職に就くことになった。そんなわけで久しぶりに我が家にやってきた。
当時の教え子は彼のように大学の先生となったり、新建築の表紙を飾る建築家となったり、ロンドンでアーティストになったり、様々な活躍をしているようで嬉しい限りである。
坂牛研のキックオフミーティングを例年より20日早く行った。今年の新しいこと。
・ ゼミをやめて、学習プログラムをいろいろ作り学生が好きなプログラムを取れるようにした。
・ ウィーン、中国、から研究生が来て、英語がネイティブのインドのラトゥールがいるので英語プログラムも創設した。
・ 研究室のしつらえ大きく変えた。きれいになった。
・ 輪読も建築輪読と建築外輪読の部屋を作り選べるようにした。
・ 1時間設計の月初めは2.5時間設計とした。
・ 造形課題もやることにした。
・ 学習プログラムの遅刻早退を欠席として3回欠席するとその後の参加をみ認めないこととした。
ウィーンからの留学生アナは東京とウィーンの比較都市論をやる予定だったが東京のリサーチに専念しろとウィーンの先生に言われたそうである。2時間ほど彼女のリサーチについて議論した。
彼女は日本の大学システムに感動していた。研究室があり自分の机があり、先生と毎週会って自分の進捗を議論できる場があることが信じられず、こんな環境があるならもっと早く日本くればよかったと言っていた。日本の研究室のシステムは良くも悪しくも日本独自でもしかするとこのことはもっと世界に宣伝するべきかもしれない。
未だ出たわけではないけれど、昨日は私の出版担当のリクシルの隈さんが僕の原稿に対する意見を滔々と語ってくれた。隈さんは美術出版で編集されていた方なので、美術と建築の違いを語ってくれた。
「美術は美術家の考えていることが比較的ストレートに出るものだが、建築は様々な知の融合、混合がやっと形となって現れるのであり、当たり前だが坂牛さんが書いているような建築の条件に全ての建築家は絡め取られているはずなのだろう。そうした社会知のリゾームは実は学生にとっては単に建築を学ぶということだけではなく、建築以外の知を得る、つまり読む、本の読み方を教える本でもあると思う。こういう本はきっとずっと何度も何度も読みたくなる本出し、読んで勉強して欲しい本なのです」
なんという賛辞だろう。きっとダウンサイドもありでもそのことはおっしゃらなかったのだろう。でも僕が意図していることを素直に全て認めてくれたことに驚くとともに感激した。
これもきっとここまでこの本を鍛えてくれた飯尾さんの本に対する情熱があったからなのだと思う。この本は2014年に構想されたのだがよく調べてみると3回書き直し最後の書き直しがこれから始まる。最初の原稿を読みながら飯尾さんは「単なる売れる本を作るのは簡単です。そうではなくて、残る本を作りましょう」と言っていた。なので厳しく、赤をいれてくれるのである。その赤には大きく2種類あって、一つはいわゆる赤である。もう一つはもっと大きな読む人のターゲットであり、あるいは文章のあり方、客観的であるべき部分と主観的に語る部分の比率とか。あるいは章立てをもう1章増やそうなど。実際この本は書き始めは7章だったのが、現在9章あるのである。
飯尾さんの本への倫理観は実は学兄小田部氏からも聞いたことがあるし、同輩の稲葉からも聞いたことがある、本は出せばいいというものではないのだろう。装丁は須山悠理さんがしてくれるとのこと。多少理屈っぽく見えるだろう本のイメージを少し開いたものにするデザインをお願いしてくれたとのこと。写真が使われるのか、タイポグラフィだけで行くのかわからないが楽しみである。発売は5月半ばである。
リクシル出版の隈さんが打ち合わせの時に最近出された香山先生の本を持ってきてくれた。この本を持ってきてくれたのには理由があって、単に隈さんが担当した本だからということではない。この香山さんの本はまさに建築家の総合的な知性が詰まった本なのだという。そして嬉しいことに私が書いている本もその意味で単なる知識の倉庫というようなものではなく建築家の総合知が見られるものなので、その意味で香山先生の本と私のこれから出す本は似たものだと感ずるというのである。それは身にあまる光栄というものだが確かに建築家の創造作業が総合知の結実したものだというのは良くも悪しくも、あるいは意識的無意識的を問わずその通りだと思う。
香山先生の本は長島さんが選んだ香山先生撮影のスライドを香山先生が解説するというスタイルをとっているのだがこの文章がいい。ニューヨークの写真の文章ではこの街を作ったのは誰か問い、風が街を作ったのだと答えている。風の作る街ニューヨークというのはなんとも直線道路をすり抜ける海風を思い起こす体が奮い立つような文章である。
本日2部4年生の坂牛研究室入研希望者のポートフォリを見せていただいた。これらを見て少々ショックを受けた。ポートフォリをは設計する人の名刺のようなものである。製図の作品の縮小コピーをクリアーファイルに入れてポートフォリをというのはやめたほうがいい。それは明らかに世の中の常識を知らないidiotのやることである。君達の常識を疑われる。さてそうは言えども、かろうじて体裁を少し繕ったポートフォリをのようなものがあったけれど中身は何の変哲もないただの作品コピーと何の変わりもない。こんなの誰も注目しないと思う。これに自分を全部込めるとしたらこんなもんじゃないだろう。もっと言いたいことがあるだろう。それをここに表現できていないということは残念ながらもう終わっているということである。
ネパールは政治的にも文化的にもインドの影響は計り知れず、食事はカレーがやはりとても美味しい。朝も昼も夜も日本料理屋に行かない限り、カレーの香りがする。香辛料やさんに行けば100種類くらいのスパイスが売っている。きっと体にいいのだろう。日本に帰るとそんなスパイシーな食事とは打って変わってライトなものに変わる。生野菜は大好きだからいくらでも食べるがくわえて最近は高野豆腐や大根の煮込みなどかなり和風。うまい。