人間の能力を神から奪還してその能力を査定したのがカントである。理性なるものがどんだけの能力をもつものかをカントは記している。しかるに人間はその理性を駆使しながらいつも間違いを繰り返し、あるいはとんでもない科学的成果をあげたりもする。そうした幅のある人間理性だが『理性の起源ー賢すぎる、愚かすぎる、それが人間だ』河出ブッックス2017の著者網谷祐一は理性は進化しているという仮説をたてる。進化しているというのは人間が生き延びる上で理性はそれに合わせて変化しているということである。理性が正しさを突き止める人間の能力とするとしても毎日の判断にかけられる時間には限界があり一つの判断に多大な時間をかけていると人間生活は成立しない。よってヒューリスティックな理性が生まれる。しかしヒューリスティックだから間違いも起こる。一方で時間のある人(科学者)などにおいては熟慮的理性が培われる。また理性による真への接近とは別に人間らしさというのは想像力から培われ、これはまた生き延びる力とは異なるものだったりする。
こういう本を読むと、建築的理性とは何なのだろうかと考えてしまう。設計者は最大限にかけられる時間を使って熟慮的理性を駆使するのだが、やはりクライアントに指定された限られた時間の中で思考する上ではヒューリスティックにならざるを得ない判断も多々あるわけである。その判断に間違いが起こっていないのかと問われるとそれはわからない。幸い意匠的判断は結果に白黒の真偽が現れにくいので顕在化しないものだが、エンジニア的な部分はそうはいかない。また世の中の多々ある理性とは一体どうなのか?政治的な理性や経済的理性など、もし理性が進化するのなら、ダメな理性は排除されるはずなのだが、社会は一向に前へ進む気配がない。例えば都政をみても私が物心ついた50年前美濃部亮吉だった。50年で政治的理性は進化しているのだろうか?ダメな理性は排除されているのだろうか?50年では進化しないということなのか?
渡辺裕の『感性文化論』の中で、嫌われものの首都高も出来た時は結構未来イメージを持って喜ばしく思われていたと当時の新聞などから検証している。確かに赤坂のこの首都高など都会のダイナミズムが現れているところもあるとは思う。
既に港区に転入したのだが、港区赤坂の投票所に行ったらあなたは未だ新宿区民なので四谷に行ってくださいと言われた。地下鉄に乗るのも悔しくて、さらに30分走って投票所へ。もちろん候補者も異なるので困った。
三谷直澄『哲学してもいいですか?ー文学部不要論へのささやかな反論』ナカ二シヤ出版2017 の著者三谷さんはおそらく僕が信大を離れる頃信大に来られた先生だろう。信大には文系にいい先生が沢山いる。三谷先生のこの本は文科省の実用大学主義の中で消滅の危機にある文学部の必要性を語っている。特に哲学について。著者は現状の大学性を「厄介ごとを回避するスマートさ」を無条件に肯定し、「僕いい子にしているから大丈夫ですよね」と素直だが弱々しいと捉える。しかしその弱々しさは問題のあふれる現代を乗り越える助けにはならない。「困ったことになったけれど道を探す」強靭な精神が必要なのであるという著者の主張に僕は全面的に賛成である。
僕の大学を見ていてもそういう傾向は顕著に見える。幾つかのタイプがあるのだが、
1)乳離れしていないタイプ
ー親が半分悪い。親がそれに気づいていないのがさらにまずい。
2)この程度でいいだろうと思っているタイプ
ー絶対成功しない。常に2流で終わる。
3)いい点を取ればそれでいいと思っているタイプ
ーいつかそれでは通用しないことに気づく。気づいて直せば救われる。
4)面倒臭いことをやらないタイプ
ー人に尊敬されない。されないと無視され制裁される。
自らを振り返る機会がないとこういうことは治らないのである。そしてそれは親でも友達でも無理で自分で気づくしかなく、自分で気づくには本を読んで先人の知恵をしるしかないのである。だから哲学が必要なのである。
るふ中野信子『サイコパス』文春文庫2016が売れている。いくつかの理由で生まれてきた良心の無い反社会的人間を指す用語のようである(psychopath)。サイコパスには殺人犯もいれば偉人もいる。織田信長も毛沢東もそうだと言われている。つまりサイコパスはトップに君臨することもあればはみ出しもので集団に寄生することもある。寄生したサイコパスは制裁を受ける。サイコパスがサイコパスを制裁するという構図が生まれる。トランプと金正恩はそういう構図の中で見ることができる。
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