建築の分かりやすさ
建築家のデザインの分かりやすさにはいくつかの種類がある。例えばその1は外形のゲシュタルトが明確で強い場合。後期ル・コルビュジエやニーマイヤー、現在ならカルトラーバなどがそうである。2つめは素材性に基づいた強い空間性を持つ場合。安藤c忠雄、ディエステ、パウロ・メンデス・ダ・ロシャなどがそのグループである。そしてそのどちらでもないが、主張したいポイントを明確かつ徹底してその部分を強調する表現がなされる場合がある。このタイプ建築家は実はそんなにいない。私の知る限りアトリエワンと長谷川豪がそうである。彼らの建築はゲシュタルトでも空間でも素材でもない。物と物、外と内、人と社会などの関係性を10倍に強調するように作り上げる。その結果視覚的な異変にすぐ気付くがその意味はにわかなにはよくわからない。最初の2グループが10秒でわかるとすると最後のグループは2分かかる。
長谷川豪の『考えること、建築すること、生きること』lisil出版2011というハイデッガーのようなタイトルの本を読んでみたのはこれを読むとあのわかりやすさに変化があるのかと思ったからなのだが予想通り読んでも変わらないことがわかった。それは言葉が無意味だという意味では決してない。僕が予想した通りのことが書いてあったということである。逆にいうと普通の建築なら言葉にしないと理解されないようなことが実作の中に全て語られているとも言えるわけでこれはとてつもなくすごいことだと思う。本書に記されている通り、何を問うかを吟味してそれに対してとんでもない量のスタディをして表現を洗練させているから可能になっていることなのだと思う。しかし一方で彼の語る言葉は彼の建築概念のメタ化をしていないということでもある。形而下的な言葉で全てを考察しているのだろうと思う。でもだからこそ問いと吟味に間違いがないのである。目標に対して正確にアプローチしているのだと思う。今時こんな建築家はそういないと思う。
ドバイで考える
ドバイでレイオーバーしている。南米に行く時に発生するこの時間は辛いと思っていたが、ものを考えるには最高の時間かもしれない。哲学的にゆったりと思考できる貴重な時間を残りの人生を考えることに注いでみたい。僕はいま58で後どのくらい生きるか分からないが親父の生命力を見ていると90くらいまで生きる可能性がある。となると大学を65で辞めてからまだ25年も残存期間があるわけである。そうなると大学にいる残り7年間は次の人生の準備期間として大変貴重であることに気づく。
僕はこの時間を使って今まで積み上げてきたものを「成熟」させ多くを学生に培ったものを伝え自らを向上させようと思っていたのだが、その考えにおける自らの「成熟」という考えを捨てることに決めた。捨てるといってもいままで培った知識と知恵を全て放棄するということではない。もとより脳の記憶媒体にこびりついた60年近い学習の残滓をクリアすることなどできない。だからここでやろうとしていることはそうした記憶をもとにいままで積み上げ構成し、つなぎ合わせてきたスパッゲティのような思考の回路を一度綺麗に掃除するということである。なぜそんな気になったのかというと「別の登山ルートを登ってきたら違う風景も見えただろう」なんて考えているからではない。そんなことは当たり前だし、それは人生を全取っ替えするようなものでナンセンスである。そうではなくて、人生も定年を迎えるような人たちの間でよく呟かれるような「人生のあるいは人間の成熟」というような言葉にまったくリアリティを感じないからである。というのも成熟と停滞は紙一重であり、僕には残念ながら成熟と呼ばれる様々な事象や事項の多くが停滞にしか見えないのである。本当に成熟している人は止まっていない。それは熟しているのではなく生成している。ことが濃密になっているのではなく新たに生まれ変わっているのだと思う。私が尊敬する建築家も書道家もそうである。逆に言うと成熟という言葉の本当の意味はそういうことも含んでいるのかもしれない。そういう意味で成熟というのであればそれはそれでいいのだが。
そのために行うことはいままで当たり前に行ってきた考え方の習慣を変えることである。これは結構大変なことだと思う。というのもそれは何かを判断するのに時間を要するからである。いままでほぼ自動的に行われていた思考プログラムを逐一作り変えるからである。果たしてそんなことに意味はあるのか?この忙しい毎日のなかできるのか?とも思うかもしれないが僕はそうしないと人はおそらく止まるのだと思う。老害と言われる人々の多くが負っている病の原因はそこにある。この無駄に見えるオーバーホールを1年くらいやるとだいぶ回路が入れ替わるのだろうと思っている。というわけでこれから1年くらいは優柔不断でのろまの私がいるだろうがお許しいただきたい。
アート、サイエンス、クラフト
山口周『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるか?』光文社新書2017によると、世界のトップ企業が社員を美術や哲学を学ばせているという。MBAなどで論理的定量的なビジネススキルを学ばせることの限界を感じているという。一体なぜ?
その理由は論理思考では答えの出ない問いに対応できる知が求められるから。また論理思考ででる答えは皆同じになるので企業の特異性が出せないから。のようである。
先日読んだ西田哲学がロゴスよりピュシスを重んじるという発想にかなり近いし昨今美学が感性の思考を重んじているのと共通する。
MBA教育批判を展開するヘンリー・ミンツバーグの論によれば経営とは「アート」(直感)と「サイエンス」(定量的根拠づけ)と「クラフト」(経験的根拠付け)の混ざりあったものだが、これが対等に並ぶと現在の価値観ではアートが下位に置かれてしまうなのでアートをCEOとしてプランを作り、そのもとでクラフトがCOOとしてオペレーションし、サイエンスがCFOとしてチェックするというのが理想形なのだという。なるほどそうかもしれない。古巣もO君がPLANを作り、Y君がDO(実行)して、N君がCHECKすれば強い企業に育つということかも。
前期ヴァーティカルレビュー
少なくなった2年生から3人も来なかった4年生まで含めて前期ヴァーティカルレビューを行った。非常勤の広谷さん、高橋堅さん、渡瀬さん、帽田さん、塩田さん、山本さん、蜂屋さん、浅見さん、と常勤栢木さん、常山さん、稲山さん、私と12人で講評しました。そして投票の結果最優秀は今ころブラジルあたりにいる鳥海、二番は諏訪くん、3番は2年生の山本君。おめでとう。
今日は朝から試験監督、午後試験採点、そして講評会と超ハードでした。早く寝よう。明日午前中にパックして午後のインタビューに備えねば。
動的平衡理論と建築
動的平衡理論を建築に応用したいという学生がいるので一緒になって勉強している。福岡伸一の著書はかなり読んでいるが彼の動的平衡理論が西田哲学と共通する部分があるとは知らず、またもとより西田哲学も知らないのでこれを読めば両方わかるだろうという期待で池田善昭、福岡伸一『福岡伸一、西田哲学を読むー生命をめぐる思索の旅』明石書店2017を読んでみる。ロゴス(論理)ではなくピュシス(自然)を重んじるということあたりがまず基本として西田哲学にはあり、そして福岡理論と通底する言葉として「個物的多と全体的一との矛盾的自己同一」という西田の用語が分かりやすい。この言葉は福岡的に言いなおすと「生命は多細胞の個々の細胞と細胞の集合として作る全体としての一つの個体とが矛盾的に自己同一したものである」と言い直されるのだが、これは建築的に言い直すことが可能で「社会の生命感は都市を形成する個々の建築と建築の集合として作る全体としての一つの都市が矛盾的に自己同一したものである」と言える。昨日、日建同期の皆にも言ったのだが、都市は巨大スケールとミクロスケールの共存にこそ生命感が現れるのである。それはまさにこの西田哲学の言い換えであろう。つまり巨大で近未来的な構造と小さくて古ぼけた過去の遺物のようなものが矛盾的に自己同一するところに都市の生命感があるということなのである。さらに福岡理論を注入するなら、この個々の建築を一つの細胞と見るなら、その「外」と「内」の間の「と」に意味をみいだすことになる。言えば建築を包む何かそれは壁とは限らず、見えない領域線かもしれない。そうした線のあっちとこっちの間に起こる情報や空気や熱線や人や物や光や音や匂いや視線などのやりとりの合計として建築が定義されるということなのではないか、やりとり100の境界線とやりとり1の境界線のあいだのグラデーションを定義していく中で建築が作れるはずでありこれは「フレームとしての建築」のベースにある思想でもある。面白い。
You must be logged in to post a comment.