世代論
東京大学建築学専攻編『もがく建築家、理論を考える』東京大学出版会2017に登場する建築家は四世代に分類されている。第一世代はイクスターナルな変革の言葉で社会を巻き込む(丹下)、第二世代はインターナルな掘り下げの言葉で建築の質に向かい空間論、様式論(香山、磯崎)を説く。第三世代は一人ひとりが革命的イクスターナルな言葉を持つ(安藤、伊藤)。第四世代はイクスターナルでもインターナルでもなく、社会に向かうでもなく、うちを掘り下げるのでもない、全てを相対化するような視点で建築を語る。曰く建築は建築ではないもの(環境)の一部になればいいとか、建築家は消えた方がいいとか、前世代からの反動が激しいがそれは時代である。
問題は理論が違うとできているものがそれほど違うのかというあたりにある。丹下前川、磯崎槇、安藤伊藤、隈妹島、これら4グループはグループごとの差異はもちろんある。しかしそれと同じくらいグループ内の差異も大きい。つまり理論が生む差異同様に個性が差異を生むとも言えるのである。
うーん。「じゃあ一体理論ってなんぼのものよ、、、と言ってはいけない」。理論が導く建築の様々な理性の上に感性が重層的に重なって建築なのである。理性がある程度のところまで建築を引っ張っていっているのである(と思いたい)。最近、建築論、意匠論、制作論、呼び方はなんでもいいのだが、その意味と意義を再度はっきりとさせたいと思っているところなのである。 Read more
『建築の条件』書評その1
コメダ珈琲店の居心地の良さにはまっています。木の温かみのあるカウンターは絶妙な高さと適度な奥行き、ゆったり感のある椅子はカウンターとフィット。客の居心地をよく考えていて読書に最適です。デザイナーがいるのでしょうか、建築(デザイン)のあるべき姿を感じます。
「社会が建築を作る」と考える筆者は、建築に影響を与える具体的な要素をあげて建築の創られぶりを探索します。その要素は、男女性、視覚性、主体性、倫理性、消費性、階級性、グローバリゼーション、アート、ソーシャルの9つです。
ちなみに本書の副題「建築なきあとの–」とは、そうした建築外部からの要請に従わざるを得ず、純粋に建築を創れなくなったことを指しています。
さて、その要素の中で中心的な問題は主体性でしょう。建築家の個性と直感により思う存分に創るならば主体性100パーセントですが、モダニズムの時代はそうした思い入れは許されませんでした。現代では、むしろ他者性を混在させることが重要視されています。そして、それはポストモダン的な自己の絶対性の揺らぎと絡んでいるというのです。
さらに、男女性と絡むのはジェンダー理論であり、現在の倫理性とはエコロジーです。視覚性においては、人間の五感の中での視覚の優越が語られるわけですが、一方で現在では体感が重視されるように、視覚的な輪郭への無関心が建築家の中にあるとのことです。
白眉は階級性を論じた部分でしょうか。上流階級のファッションを人々に開いたのがココ・シャネル、音楽を貴族の趣味から大衆のものに変えたフランツ・リスト、絵画の権威性に異を唱えたポップアートとの関わりで、近代の建築が語られます。王や宗教の権威を象徴する記念碑的な存在であった建築は、消費社会とも関わって商品化され、庶民の生活を支えるものになります。
このように、建築分野以外の思想や文化・社会の流れと絡んで建築の姿を論ずる点が本書の面白さでした。
建築が専門の筆者ですから、それ以外の分野の歴史を説明する部分では、自分の言葉では語らずに膨大な引用をしています。書き方としては不器用で読みにくいのですが、それも誠実さのあらわれと考えましょう。
新国立競技場のザハ・ハディド案は主体性丸出しの視覚重視、対する隈研吾案も伊東豊雄案も環境倫理重視。デザイナーズホテルやデザイナーズマンションは、消費性を背景に、公共建築から階級性を超えて商業建築に乗り出したもの。コメダ珈琲もその流れの一つでしょうか。
本書は特別新しいことは述べていないものの、さまざまな視点をうまく整理しており、建築を見直すきっかけとして素人の建築好きである私には格好の参考書でした。