磯崎新が(確か)岸田日出刀に駆け出しのころの作品を見せたときに「作為」的と言われたとどこかに書いていたように記憶している。もちろん作為の反対は自然である。おそらく建築家はこの二つを極とするスケールのどこかに位置されるだろう。もちろん磯崎と共に篠原も作為の極北に位置する。その弟子たちの多くは作為的であり自分も比較的そっち側だと思っている。一方自然の建築家も多くいるが現在その極北にいるのが堀部さんである。序文の最後の言葉が印象的である。「知識ではなく、概念ではなく、建築を自分の気持ちで考えた言葉で綴りました」そして43作品を8つに分けてそれぞれに付した言葉が「本来の建築の役割を考える」「記憶の継承」「ずっと昔からあったかのように」「庭から生まれる建築多様性」「静けさと光」「『生と死』が共存する空間」「人と建築と場所のつながり」である。普通の人が普通に建築に臨む自然な言葉たちである。人の作品集をあまり見ないが自然の建築家の作品集は古典を読むような清々しさがある。
アートナイトなので六本木は人の渦。なので今晩森美建築の日本展はオールナイト。その展覧会のキュレーター前田尚武さんと倉方俊輔さんにインタビュー。「建築は建築家のものではない」とか「日本建築は西欧建築ては全然違う」などなど。面白いおふたりの話しが聞けた。ふたりの絶妙なコンビネーションで生まれた今までにない、ちょっと新しい建築展覧会。建築学生必見ある。
山崎正和『リズムの哲学ノート』中央公論新社2018の晦渋な文章を追いながら一つ理解が深まったと思う章があった。それはベルグソンについての考察である。ベルクソンの純粋持続はベルグソン自身の著作も解説書もどれもよくわからなかったのだが、本書の批判的解読は理解の糸口を見せてくれた。
人間は本能的に外界を視覚的に、聴覚的に、臭覚的に、触覚的に分節するものだと思う。あるいはそう訓練されているのだと思う。和音がなったらドミソと分解するように学校で習ったし、建築見ても柱と柱頭とコーニスとペデイメントを分けようとする。しかるに純粋持続とはそうした分節を排除して知覚に直接的に訪れる直感であり、切れ目ないパイプオルガンの永遠に鳴り響く和音を感じ取るようなものだという。しかしそういう知覚はベルグソンが嫌う量的変化はもとより質的変化も原理的に感じ取れないことから原理的に矛盾しているというのが山崎の意見である。さて矛盾しているかどうかはおいておいて、はたして我々は純粋持続的な知覚を得ることができるのかそしてその知覚は人間を豊かにするのかというのが次の問いであり、たとえば建築の創作において純粋持続を感じ取れる場なりものなり空間があるのだろうか?それはつまり分節のを感じさせないモノである。それはいわゆるリズム感のあるものではなく一拍が10分くらいの音楽のようなものなのであろう。なんかとてつもなくノペーッとしたものである。
早稲田社会教育センターという名前のビルが早稲田にあって設計は北川原温。2009年。ファサードのレリーフはステンレスとコルテン鋼で稲穂のイメージ。
茨城町の田んぼ美しい。会議が終わり田んぼに魅入る。
春から週3でゼミしてる。月、金は大学。木は僕の居るところ。今日はofda。東京駅でサンドイッチ食べて水戸へ。廃校小学校の活用共同研究3年やったけど慎重派の町長は石橋をたたいても渡らない。今日は渡りましょう!と地元区長さんたちを鼓舞する会。
今朝は伊東豊雄の産婦人科医院。東京マザーズクリニック(2011)。黄緑は母体にいいのかも。
グダグダになった安倍政権の支持率が下がりきらないで政権に居座れているのは何故か?著者はこう見る。戦後レジュームをアメリカ従属と見て、それが国体と言えるレベルにありそのアメリカに媚びへつらう安倍は国体を維持する人間である。安倍個人を許容できなくても国体の上に透けて見える安倍を国民は許容すると言うわけである。なるほどな。
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