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by 卓 坂牛
エンリックの地の家のレクチャーには横河健さん、岩岡さんをはじめ芸大、東工大、東大の学生も集まり盛況でした。その後3日間のショートワークショップスタート。テーマは地の家の増築。さあどうなるか?
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by 卓 坂牛
エンリックによると僕の芸大の授業は留学生の間で評判らしい。それはそうかもしれない。このクラスには留学生が6人もいるのでかなりの部分英語でしているからわかりやすいのだろう。理科大ではまだこういう状況になっていないけれど留学生が増えて要望があればいつでもやるつもりである。しかし芸大でも結局日本人学生から日本語の説明も欲しいと言われて半英半日である。しかし英語で教えているという評判がたつか、あるいは公式に表明しないと留学生は増えない。それはこちらから海外に留学生送り出すときそこのところが結構重要なポイントだから逆も同じである。オーフス大学に留学したO君が昔言っていたが英語で授業する意思のない先生は契約更新しなかったそうである。日本の大学もいつかそうなるかもしれない。
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by 卓 坂牛
清家清私の家(1954)はコンテナが後に屋上に設置された。しかしこのコンテナは私の家に接していない。家の間口幅分橋のように浮いている。そしてその下の屋根は戦後余っていたアルミで葺かれている。奥行き方向に一枚もので瓦棒葺きである。アルミなので持ちがいい。今ではあまり使えない屋根材である。庇が1メートルくらい出ているのであの大開口の建具は60年以上経った今も動く。居間中央の屋根を支えるかに見えるトラスは設計時には無く計算上も不要だったが現場て加えたそうである。しかし子供達にとってはかっこうの遊び道具となった。なぞの地下室も増築である。この家で唯一プライバシーのある場所である。その意味でこの家のオリジナルは欧米のドメスティシティを大胆に破壊し、過激な生活提案を50平米強でやってのけた記念碑と言える。ここに6人住むことを想像できるだろうか?登録文化財に指定されているがそれはこの意味においてであると考えたくなる。
私の家は数カ所の増築を除けばオリジナルのままで生きながらえている。ずっとこのままでいて欲しい。
八木先生夫妻に久しぶりにお会いできて嬉しかった。
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by 卓 坂牛
3年後期の製図合評会。いろいろ工夫し、先生も連日の指導に足を運び、なんとかここまで来ました。
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by 卓 坂牛
1915年竣工の豊多摩刑務所は日本建築の自律的一歩を記した建築家の一人である後藤慶二の数少ない作品の一つである。唯一残された正門は哀れな姿。中学の先輩でもある後藤の足跡を残して欲しい。
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by 卓 坂牛
県の土木事務所にSDレビューに出したFuji Public の法的な打ち合わせに行ったら、担当の方が私が7年前に設計した建物の工事をされたゼネコンの係長さん(彼がいなければできなかった)。転職したのだそうだ。とても複雑な建物の解釈をきちんと聞いてくれた。ありがとうございます。
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by 卓 坂牛
だいぶ前のことだが私の設計した建物が皇室の行幸先となった。見学をしたあとに軽い昼食もとられるということで比較的近くにあるペニンシュラホテルからケータリングを頼むことにした。料理長も来られたとか。新しいホテル(三菱地所設計2007)だからなのか親切な対応をしてくれたと聞く。
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by 卓 坂牛
製氷工場の隣の氷室をギャラリーにする。氷室をつなぐ氷の洞穴みたいなものを作ってトップライトの光でキラキラと水が流れるようなイメージを作りたくて模型はできたが本物はどうやって作るか?地元にプラスティック業者さんがいるらしく、、、、相談しよう。
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