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金曜日の夕方突如椅子から立ち上がれなくなり、インフルエンザでもないのに土日は二日間ベッドに横になっていた。今年に入って足首がおかしくなり、そして腰である。おそらくジムで張り切りすぎたからなのだろう。配偶者からは厄年なんだから気をつけろって注意されている。でもそのおかげでアマゾンプライムビデオでアメリカンドラマしこたま見られた。すごいねこのビデオ飛行機より選択肢は広い。
設計事務所の生産性
宮川務『生産性とは何か−日本経済の活力を問い直す』ちくま新書2018を読みながら「設計事務所の生産性とは何か」という問いが生まれた。それはどういう要素で決定されるのだろうか?仕事の仕方とかcadの使い方だろうか?そういうことは色々あるのだろうがそういう要素は割合として小さいと思う。生産性とは事務所の売り上げ割る人数である。そうなると生産性はほぼ受注した建物規模に比例する。スケールメリットである。そして建物規模は事務所の何に起因するか?もちろん事務所の色々な意味での能力によるのだがそれだけではない。僕は事務所のコンセプトが大きく関わっていると思っている。例えば今僕が面白いと思っている建築と哲学が交差するところの概念として「情動」「物」「共同性」「技術」を挙げてみる。こんなテーマと関係なく黙々と建築を作る事務所もあるけれど、現代的アクチュアリティを求めてこういう概念と交差する事務所も多々あるだろう。さてそうやって事務所を分類してその生産性をグラフ化すれば何をテーマとしているかで生産性に差が出るように思える。上の四つでいえば情動、物は比較的芸術性が高く、共同性、技術は社会性、工学性が問われていく。社会のニーズはすべての分野にあるといえども現代社会では工学性、社会性に傾き芸術性は昨今上昇してきているとはいえ低いだろう。そうなると生産性も結果的にそちらが高いということになろう。まあ生産性を上げるために建築を糧としているわけでもないのだがやはり食えてなんぼだから少しはそういうことも考えてもいい。
知識を測るので何が悪い
暗記詰め込み教育では育まれない新たは能力を確認するための受験制度ができるというがそこで求められる新たな能力なんてずっと昔から必要とされていることでちっとも新しくない。というのが著者の意見(中村高康『暴走する能力主義ー教育と現代社会の病理』ちくま新書2018)。僕は暗記つめこみ教育さえなされていない学生にそれ以外を求めるなんてありえないと思っている。受験勉強賛成だし、推薦AO入試はできることなら避けて通りたいと思っている。自分の娘にも受験を勧めたしおそらく本人も受験したことをポジティブに考えていると思う。
しかし、、、この本でも書いてあるが人間の能力を測る道具はないに等しいのだがそれがないとその人間の居場所が決まらないので暫定的に作られているのが試験という制度だという。しかし試験では正解があることしか問えないし世の中がグローバルになればなるほど世界中で正しい抽象的なことしか問えなくなりつつある。しかしそういう知識がある個別的な具体的な社会条件で有用であるかどうかは不明である。よって試験で与えられる貨幣のような学歴とう文化貨幣が現代社会ではかつてほど力を持たなくなってきているのも当然であろう。
しかしそれでもなお試験が必要なら(ないほうがいいと思うが)、、ちょっと極論だが純粋に知識量を測ればそれでいい気がする。知識以外の様々なその都度その都度社会構築的に変化する何かを求めて国が右往左往し多大な予算を使って制度変更するくらいなら、、、シンプルに知識を測ればいい。知識がある人の方がない人よりはるかにクリエィティブな力を発揮できると僕は考えているから。
末光さんにインタビュー
末光さんにインタビューするのに作品の雑誌コピーを助手に頼んだら数センチもある。聞くとそれでも半分くらい。読みこむのにだいぶ時間がかかったけれどおかげで末光建築の4つの形態タイポロジーを発見した。支える、掘る、覆う、被せるである。グッドデザイン賞金賞淡路島の住宅は覆う。デビュー作kokageは支えるである。
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