JIAマガジン6月15日号の編集後記を送って間も無く校了である。今月の建築が生まれる時は2度目のJIA大賞を受賞した小堀哲夫さんの受賞作NICCA INOVATION CENTERのファサードデザインが生まれた時のスケッチである。小堀さんはこのスケッチを正月休みのバリ島で書いたそうであるある。建築家はいつでもプロジェクトのことを考えているということである。
今年はAチームもBチームも楽しくやりました(つまり勝てませんでした)。このところフットサル大会は晴れが多く皆大いに焼けました。楽しかったです。恒例の栢木研との合同記念写真。
畑中三応子『ファッションフードあります』ちくま文庫(2013)2018にファッションフードとは純粋に味覚を楽しむ美食行為としてではなく、流行の洋服屋音楽、アートや漫画などのポップカルチャーと同じ次元で消費される食べ物であるとして70年代ノンノ、アンアンによって牽引されたと書いてある。それを読んでああ建築もカーサブルータスによって「ファッション建築」というポップカルチャーと同じ次元で消費される建築が作られたなと思った。坂牛研究室には貴重な創刊号から全カーサブルータスがあるが(実は数冊誰かが持って行って返してくれいないが)その創刊号は1991年1月10日である。しかし実はその7年前1984年にブルータスの増刊号としてCASA burutus 居住空間学が出版されている。そしてその内容の濃さに驚かされるしその参考文献は建築学科の学生の輪読本にしたいものばかりである。さらにその責任編集者は都築響一であった。彼が建築をファッションにしてくれたというわけである。
現在翻訳中のマークウィグリーの『白い壁』では20世紀初頭に建築がファッションになるかならないかの瀬戸際の攻防戦を伝えてくれる。そしてギーディオン率いる強面の歴史家たちがファッションの世界に浸かっていた建築を無視し隠蔽したのである。しかし結局1世紀たたぬうちに建築はやっぱりファッションであることを隠しきれなくなったというわけである。
先日新建築の楠瀬さんが我が家を撮影してくれた。僕は基本的にカメラマンに注文しない。同席しないことも多い。カメラマンの発見を楽しみにしているので。撮影数日後編集長の西牧さんが担当の辻さんと紙面構成を持って来た。その1ページが書斎脇にシャツのぶら下がった写真で驚いた。いつの間に撮ったのかとスタッフに聞いたら彼がシャツをワードローブから出してぶら下げたとのこと。ブルータスかkinfolkか?それを見て以来気に入って明日着る服をぶら下げることにした。小学生みたいである。
『考える力の鍛え方』の著者上田正仁先生が『伝える力の鍛え方』という本をお書きになり、その中で学生のプレゼンが伝わらないと嘆き、結論を先に言え、余計なことを言うなと書いている。今日とある学生のゼミの発表を聞きながら思わずこの本を見せてその内容を伝えた。彼に限らず家庭でもそうなのだが前置きが長くて終わりを聞く頃には最初に言っていたことを忘れてしまうことがある。上田先生によるとその限度は20秒だそうだ。だから一つの用件は20秒以内でお願いしたい。
今アメリカ人の教育者が書いた博士論文を読んでいて気づくことがあった。その論文は現代建築教育において必須のトピックをあげているのだが、それらが僕らが建築論キーワード集を作ろうとして行ったアンケートに現れたトピックとかなり重なるのである。それらは、時間、被覆、物質、構造、近似、生活、エコロジー、都市で、足りないのは、社会、集合知、AIなどくらい。アメリカではコンピューテーションは食傷気味、社会性は日本が今過剰反応しているだけかもしれない。いずれにしてもこういう論文読むと日本が相対化される。
翻訳会の後ぶらぶら神楽坂を歩いて帰る。日曜日は神楽坂の駅まで歩行者天国で人がたくさんいるから楽しい。東西線の神楽坂駅の新しい出口ができたがそのデザインは相当評判が悪い。なんであんな色の格子がはまっているのだろうか?誰かが赤城神社の鳥居の色を真似したんだろうという。まさか似ても似つかぬと思ったが写真に撮るとちょっと似ている。
藤村ゼミでは自律かつ他律が話題になり、昨日の古澤邸研究会で古澤さんは自律と他律が止揚して生まれる自律を作りたいと言っていた。さてそれは可能か?止揚したらそれは高次の概念になるのではなかろうか?
僕に内面化された言葉「流れと淀み」で言えば「流れ」は他律的で「淀み」は流れに一石投じることで生まれるから自律的な操作で生まれる現象である。またその概念がある具体的条件に落としこまれた時生まれた「運動と風景」というコンセプトでは「運動」する主体は自邸では私であり配偶者、子供の家では子供だから他律的な要素である一方「風景」は建築の中に距離を作る操作だからこれは建築的自律的操作である。さて「流れと淀み」「運動と風景」は止揚するとどうなるのだろうか?恐らくそれは概念的に言えば流動体としての全体性であり具体的に自邸に即して言えば「家」あるいは「ドメスティシティ」なのだろう。それはもはや自律他律を超えたもののような気がする。
長谷川逸子さんのギャラリーで行われている建築家の自邸を見学してレクチャーして議論するというイベントのパネリストとして呼ばれた。議論の題材は古澤邸。クリティークは青木淳さん。躯体と生活が等価に見えたと言った。長谷川さんは上原通りの家を超えたと言った。僕は町と連続する新しいドメスティシティを作ったと言った。
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