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by 卓 坂牛
昨日の聖をテーマにした研究会では登壇者、コーディネーター、まとめ、と京大出身者が多い。彼らの議論は常に森田慶一から始まり、増田、前田と形而上的な言説が連なる。この語り口は日本建築界において独特である。今井謙次、辰野金吾、吉田五十八、谷口吉郎など各大学には遺伝子の始まりみたいな建築家がいるが彼らの言葉はどちかと言えば形而下的である。しかるに京大のそれは概念の世界に筋を見つける。こうした態度は今時貴重である。しかしこの議論を関東の議論と接続させるためには概念の筋をリアルに繋げることが重要である。
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by 卓 坂牛
坂倉の岐阜市民会館1967が運良く開いていて円形ホールが見られた。ちゃんディガンガールのみたいである、
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by 卓 坂牛
建築論の問題群、第5回研究会は聖と日常をテーマとした、「聖」は東京の建築家からは遠いテーマだが関西の人達は身近なテーマだそうだ。そこでそんな議論は日本の真ん中でやろうと岐阜に来た。岐阜大学でと思ったが交通の便が悪いので伊東さん設計のメディアコスモスで行った。「聖」は神だが、神を考えることは自分の生を省みること、つまり内省である。そう考えると「聖」は日常と隣り合わせなのだと僕には思える。
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by 卓 坂牛
スペインからの研修生マリアが日本で設計したいと言うのでいくつかの事務所に聞いたら会ってみたいと言うところがあった。面接したところ働けることになった。6カ月契約で1年延長可能と言うもの。外国で働き場所を探す日本の留学生の大変さを知っているので、日本は楽だなぁと驚く。本人が、一番驚いているのでは?スペインは酷い状態だし、、、
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by 卓 坂牛
芸大の授業を受けている金田研ドクターのガリ君を授業後、理科大に連れて来て研究室で彼の博士論文の骨格をプレゼンしてもらった。ポストデジタル時代のオーナメント、、というタイトルだった?と思う。
装飾のコードは社会が生み出し、そのコードはあるトポロジーを共有すれば形が異なっても感得されるという仮説のもと自らのデザインで検証しようとしている。未だ仮説に甘さはあるけど面白い。たまに他大学の研究をこうやって拝聴すると学生も先生も刺激的である。
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by 卓 坂牛
SD2019が送られてきた。千葉学さんが「運動と風景」の完成レビューを書いてくれている。タイトルは「身体性」と「他者性」である。この建物はあたかも内蔵のようであるということから始まり、その空間のトポロジーは千葉さんが日ごろ興味を持つ「身体性」と「他者性」に通じ、予測不可能な他者を許容する強度があると書いてくれた。千葉さんありがとう。
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by 卓 坂牛
安田幸一さんと日建の中村晃子さんと私で昔スイッチを開発した。照明、シャッター、空調、床暖、給湯などなど、業界を超えて統一基準を作るのは本当に大変だった。
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by 卓 坂牛
津田大介さんが専修大学で「芸術監督に聞く表現の自由とは」を講演し、山田健太と対談した。彼はY新聞から「公金を使う芸術祭で表現内容が制限されるのは当然ではないか」と問われたと言う。この国では合法の作品が検閲されることを大ジャーナリズムが認めている。交付金カットの内実は官邸主導で、その官邸は持っている資料を持ってないと嘘を言う。この国では偉い人が嘘をついてもジャーナリズムは何もしない。平和な国である。
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by 卓 坂牛
感動はsense(触、視、心地) 、think (理解、発見)、act (達成、上達、遭遇)、relate(愛、調和、一体)から生まれると言う。建築の感動は普通sense から生まれるが、これに他の3つの要素も加われば、その感動は倍増する。理解できる建築、誰かと遭遇する建築、愛を感じる建築、など。
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by 卓 坂牛
夏に福田美術館館を完成させた安田幸一さんに話しを聞きに行った。安田さんと僕は篠原一男と林昌二を師とするところまでは同じだが、かたや東海岸のチュミのところで学びかたや西海岸のムーアのもとで学び2人の建築の考え方には大きな開きが生まれた。理念は違えどできる建築の質の高さを尊敬する。加えて彼の建築には一貫したテイストがある。それは何かと聞くと構造、設備、環境が欲する線を選びとることだと言う。そこに安田さんの一貫した理念がある。
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