狭い社会を広げる
人間の生きる世界は広いけれど、各自が関係を持つ社会は狭い。あなたの家族、親の所得で決まる学校の友と近所の人。仕事の種類で決まる取引相手。仕事によってはそれを評価する人達。そうした生きる圏域は親からもらい子へと再生産される。ブルデューやアルセチュールはそんなことを言っていた。それで、僕らのような仕事はこの評価する人に褒められたり叩かれたりして一喜一憂する。僕の作ったものをよく言ってくれる人はいるけど全くダメと言う人もいる。論文もそう。博士論文は恩師には最初の3章は要らないなと言われた。かたや違う大学のK先生にはとても評価していただいた。一方『建築の条件』は逆にK先生には相手にされなかった。社会が建築を作るなんてあり得ないと言われた。まあマルクス経済学の論文を古典経済学者に見せるようなものである。評価と言うのはA面B面があるので一つの評価に一喜一憂しても意味はない。生きる世界を少しずつでも広げるとB面の評価者に出会うものである。
桜を見る会問題
内田樹さんの書いた「桜を見る会再論」という文章が長文ですが、面白過ぎるのでコピペしましたご容赦。
もうこの話をするのにも飽き飽きしている。「桜を見る会」についての話である。
どうして「飽き飽き」しているかというと、ふつうの人間の受忍限度を超えて、この話が続いているからである。
続く理由は簡単で、ふつうは申し開きのできない証拠をつきつけられて「申し訳ありませんでした。私がやりました」として「犯人」が白状して、火曜サスペンス劇場が終わるところで、ぜんぜんドラマが終わらないからである。
でも、「私がやりました」と言わないというのは、ある意味では「合理的な」ふるまいなのである。
昔、東京地検に勤めていた友人から、推理ドラマはあれは嘘っぱちだという話を聴いたことがある。検察官に供述の矛盾を衝かれて、顔面蒼白となって、「もはやこれまで」と自白するのは「自分が知性的な人間である」ということにおのれの存在根拠を置いている人間だけだというのである。
「そんな人間は実はめったにいないんだよ。そんなのはね、ウチダみたいな『自分は頭がいい』と思っているやつだけなんだよ。そういうのは、落すの簡単なんだ。供述のわずかな矛盾を指摘しただけで、がたがたっと崩れちゃうから。」
なるほど。
だから、ヤクザなんかは供述の矛盾をいくら指摘しても、平気で、「オレ、そんなこと言いましたっけ。あ、それ間違いですから、消しといてください。今日話したのがほんとの話です」と済ませてしまうのだそうである。
彼らは供述の矛盾や変遷は、それだけでは有罪性の根拠とならないことをよく知っている。
だから、誰も信じないようなでたらめを言い続ける。「そんなことあり得ないだろう!」と怒っても、「世の中、そういうことがあるからびっくりですよね」と平気で言う。
自分は矛盾とか、因果とか、蓋然性とか、そういうことはぜんぜん気にならない人間なんです。「ふつうに考えて」という想定ができないんです。「論理的に言って」ということがわからないんです。
そう言い続けると検察官に「敗けない」ということを彼らは知っているのである。
自分の知性が健全に機能していないということを「切り札」にしている人間を「理詰め」で落とすことはできない。
「桜を見る会」の国会審議でわれわれが見せられているのは、「ヤクザと検察官」の戦いのひとつの変奏である。
官僚たちも政治家たちも、平然と自分の知性がふつうに機能していないことを認めている。
「桜を見る会」の招待者名簿にしても、ホテルニューオータニの「前夜祭」領収書にしても、それを「はい」と提示すれば、首相の潔白が満天下に明らかになる文書を、なぜか官僚たちも安倍講演会の人たちも、全員があっという間に捨ててしまった。それが「桜を見る会」と「前夜祭」の合法性を何よりも雄弁に証明できる書類である以上、仮に廃棄期限が来ても、官僚でも後援会員でも少しでも論理的に思考できる能力があるなら、「もしものことがあったら困るから、一応とっとこう」と思うはずである。
そう思った人間がなんと一人もいないのである。
つまり世にも例外的に頭の悪い人たちだけで内閣府や安倍後援会は組織されていたというきわめて蓋然性の低い主張によって、首相は「不正が証明できない以上、私は潔白だ」という言い続けているのである。
こういうドタバタがもう3ヶ月も続いている。
もう終わりにしたいと思う人は自民党内にもいるらしく、先日は参院自民党に示達された「招待者名簿は公開請求の対象であるので取り扱いに注意」という内部書類が共産党議員によって委員会で暴露されてしまった。
だが、これほど「申し開きのできない証拠」を突きつけられても、首相の「申し開き」は続いている。
首相は数日前に、招待者について「幅広く募っているという認識」ではあったが、「募集しているという認識ではなかった」という没論理的な答弁をしたが、今回は招待者名簿について「公開の対象とは書いてるけど、公開されるとは書いてない」という小学生のような答弁をしてみせた。
「開示請求があった場合に公開しなければならない」という注意なのだから、要するに「人選には配慮すること。開示請求があったときに『捨てました』というような無様なことがないようにちゃんと管理すること」というお達しである。自民党総裁としては自民党が示達した注意を二つながらまるまる無視して招待者を選定した上に、書類をさくさくとシュレッダーにかけた内閣府の役人については殺してやりたい「気分」になっていいはずだが、そんな気配もない。
首相は「自分は論理的に思考しないので、『論理的にあり得ない』ことがあっても別にそれが不思議だと思わない。言葉の語義はわかるけれども、それが含意しているコノテーションはわからない」という「おのれの知性が普通の人よりも不調である」という主張によって有罪性を免れようとしている。
裁判において弁護人が被告の「心神耗弱」で無罪を勝ち取ろうとするのと同じである。
この「愚者戦略」はこれまでのところ成功している。
それは社会制度は世界どこでも「ふつうの人はわりと論理的にものを考える」ということを基準に設計されているからである。だから、その基準にはずれる人間については対処するマニュアルがないのである。
これから後も首相は有罪を免れるために、あらゆる「申し開きのできない証拠」に対して、「論理的に思考できないふり、日本語がわからないふり」をしてみせるだろう。
この成功体験が広く日本中にゆきわたった場合に、いずれ「論理的な人間」は「論理的でない人間」よりも自由度が少なく、免責事項も少ないから、生き方として「損だ」と思う人たちが出て来るだろう。
いや、もうそういう人間が過半数に達しているから、「こういうこと」になっているのかも知れない。
味覚
甲府プロジェクトのオーナーはとにかく食にこだわる人である。その彼が坂牛は舌音痴だと言うのでそれは正しいと申し上げた。建築関係の人はだいたいそうだ、いや広く美術関係者皆そうだと言う。そうでもないと思うが彼の顔の広さからするとその蓋然性は高い。しかし僕が舌音痴なのは建築とは関係ない。躾のせいである。なんでも出されたものは美味しいと言って残さず食べることを申し渡されていたからこうなった。だから配偶者の作るものは、いや誰が作っても、研究室で宴会やって出てくるものでも、なんでも美味しいと条件反射するようにプログラミングされているのである。おそらく僕くらいの歳の人は皆そうではないだろうか。しかしもう人生も後半だからそろそろリセットしてもいいのだろう。そもそも味覚が壊れていたらリセットする意味はないのだが。
中性脂肪に告ぐ
JIAの編集会議のある日は朝が早い。それで夕方は甲府で不調になったプロジェクトの作戦会議。ああでもないこうでもないと言っていたら8時半になった。クライアントがじゃあご飯でも食べようというのだが終電は9時16分。間に合わないと思いつつ麻婆豆腐と台湾ラーメンと餃子としそ餃子と塩焼きそばとチャーハンを頼んで3人で全部食べ尽くした。僕はもうフラフラなのにクライアントは元気で驚く。と言うと朝ジムなんか行くから行けないのだと怒られた。車で送っていただき甲府駅に着いたのは9時10分。最終に飛び乗り、名コピーを読むと最初に「中性脂肪に告ぐ」が出てきてどきっとする。さっきの食事はちょっと油っこかった。
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