大学
オックスフォードの大学のシステムはカレッジ(日本の旧制高校のようなコミュニティ)+ファカルティー(教育+研究)+ユニバーシティ(大学としての総体)の総合でありそれを数百年継続していると言う。日本には残念ながら古き良き旧制高校がなくなりファカルティーしか残っていないと言われる。正確には研究室というコミュニティが残っているが旧制高校のような知を磨き合う雰囲気はやや弱いし教養教育は追いつかない。最近必死に大学院でも教養教育を始めたがこれは大学入る前にやるべきことである。高校1年生から受験勉強に合わせて文理を分離する教育は本当まずい。
日本の政財界一体となった科学偏重信仰は目的遂行型人間を作り続けている。文系の知が育む価値創造型の思考が今こそ必要で理工学部にはそうした複眼性が必要なのである。しかしその時間がないのはどうしたものか?建築では構造、設備、歴史意匠をくまなく学ぶホーリスティック(holistic)な教育を正しいとされてきたが、私はそれが本当に正しいのだろうかと最近思う。日本の学生は広く浅く学ぶことを強いられていてそれは深く学び、思考することを難しくしている著者はいう。大学はどちらであるべきか?この部分をきちんと議論せずに、やれ教養を4単位取れとか、カリキュラムだけをこねくり回しても何も変わらない気がする。
続ウィルス
丸善ウィルスコーナーにあったもう一冊のウィルス本を読むと著者はウィルスは生き物であると主張する。著者曰く生には二種類ありDNA情報からなる生と脳情報からなる生である。ウィルスは前者の生を体現するもので、それは生き物の本流であるという。この生は宿を探して彷徨い宿を見つけると乗っ取って自らをコピーして宿を壊すのだが、宿がないことには自らをコピーできないので宿を壊滅するのは本望ではないそうである。だからコロナも今はどうしていいかわからず暴れているが、いずれある状態で落ち着く(と願いたい)。
ウィルスの歴史を紐解くとスペイン風邪の犠牲者は第一次世界大戦の犠牲者1500万人をはるかに上回り最低5000万多く見積もると1億あったと書いてある。そんなことにならないことを願いたい。
ウィルス
丸善行ったら、ウィルスコーナーがあった。理科大の先生が書いた本が、生物赤点だった僕でも読めそうな楽しい本で、思わず買ってカフェで読んだ。ウィルスは正二十面体で結晶化する無機物のようでいながらDNAを持っていたりする。普通は動物と共存しているが、人がそんな動物を荒らすと人にくっつく。人の特定部位の細胞はこのウイルスを好んで食べかちゃう。するとその細胞内でウィルスは自らをとんでもないスピードでコピーしてばらまく。というウィルスはくしゃみや咳でツバに包まれて他人の鼻腔に入り込むらしい。相手をしると俄然世界は変わって見える。空気はウィルスだらけに見えてきた。しかしなんでコロナやインフルは空気感染しないのだろうか。
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