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May 2006

崇高の強度

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by 卓 坂牛

3年生の製図のエスキスを終えて帰宅(東京へ)。娘は修学旅行のようなものにでかけ、かみさんは友人と都内某ホテルに遊びに行った。誰もいない我が家に帰るのは調度一年前の今頃の様である。
昨晩ベッドの中で読んでいた『崇高とは何か』の訳者(梅木達郎)の解説が面白かった。というか凄く納得がいった。一般に崇高という概念はカントを基礎に、例えばリオタール等の理解は、人間の有限性で把捉しきれないものとしての「大きさ」や「力」なのだが、梅木氏はジャン=リュック・ナンシーをきっかけに、カントをもう少し詳細に読むことで、崇高を単に人間の有限性を超えた無限の中に見るのではなく有限と無限の境界上における往還運動と見るのである。有限がちらつくからこそ無限が意識されるというものである。この手の感覚の捉え方は僕の「建築のモノサシ」の主眼とするところである。僕の建築のモノサシも2項対立を言うのではなく、どちらかに偏る表現には強度が現われず、常に対立項の影が見え隠れするところにこそ表現の強度が現われるというもの。だからこの解釈がカントの正しい読解かどうかはべつとしてとても納得いくのである。

スーパースタジオ

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by 卓 坂牛

昨日は朝一で東京、最終で長野であった。事務所でたっぷり打ち合わせ。雑務。このwarp感覚は結構好きである。
日大の芸術学部にスーパースタジオがやって来て伊東豊雄さんとセッションするという。それにあたり文章を書いて欲しいとの依頼が来る。スーパースタジオとは懐かしい。僕らの世代においてはいわずと知れた磯崎さんの『建築の解体』に登場するスーパーグループである。『建築の解体』はサブタイトルに1968年の建築状況とあるように、ボン、フィレンツェへ飛び火した5月革命の建築的回答であった。
先日ニューヨークの友人に今一番「ホット?cool」な本を送ってと頼んだら、60年代の本を送ってきたのだが、昨今この時期への眼差しが熱い。

アー参った

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by 卓 坂牛

長野も28度。なんと授業中クーラーを入れた。夜のゼミでも思わずクーラー。この時間になるとやっと少し涼しい。窓をあけると風が心地よい。今日は地獄の火曜日。目一杯詰まったスケジュールに加えて、とある面倒臭い作業のしこりで、精神的に忙殺されてどうも集中を欠く。必死でそれを避けるために静かに、静かに、妙に神妙な一日だった。本当に疲れる暑い一日であった。

小旅行

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by 卓 坂牛

連休明けの会議、予想以上に時間がかかる。午後県内某市での打ち合わせ。電車で1時間。まるで小旅行。天気がよく景色がいい。風光明媚を絵に描いたような車窓からの眺めである。夕方研究室に戻る。明日のゼミの本を読む。グリーンバーグ批評選集。結構重い。

gw最後

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by 卓 坂牛

gw最終日は天気も悪く、家でじっとしていた(いや、今日に限らず現場に行く時以外はじっとしていたのだが)。そこで犬と戯れたり、娘とじゃれたり、かみさんと無駄話したりして過ごした。その間にリオタールとバルトを飛ばし読みした。リオタールはA0の星野君が書いた論文に触発されて読み返した。崇高論関係をよく読んでみた。しかしどうして彼はあれほどニューマンに拘るのかよく分からない。本物見てないのによく言うよと自分でも思うのだが、この手の作品はモダニズム期アメリカにいろいろあるようにも思うのだが、、、、、どこに言ったら本物見られるのだろうか?知っている人がいたら教えてください。
バルトは『映像の修辞学』。クラウスの指標論Ⅱの骨格となっているのがこれなので読み返した。コードなきメッセージは本当言うとまだ正確には理解できていないような気がする。
夜長野に向かう。車中 岡田暁生『西洋音楽史』と森田慶一『建築論』を読む。西洋音楽史はなんと言っても西洋芸術音楽の定義が面白い。それは知的エリート階級によって支えられ、主としてイタリア・フランス・ドイツを中心に発達し、紙に書かれ設計される、音楽文化となっている。つまり紙に書かれて設計されない、民謡とかジャズをはずし、800年以前のローマ時代をはずし、紙に書かれても読めない人たちははずすのである。明快。
森田さんの建築論は始めて読むが、なんとその骨格はヴィトルヴィウス「用」「強」「美」でした。
長野もすっかり暖かくなっている。やっと春だろうか?

3列スライド本棚

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by 卓 坂牛

僕の部屋の本棚は3列のスライド型である。2列のスライド型はよくあるが、3列は少ない。幅3メートルくらいのところに3列あると結構はいる。しかし入るだけに床加重がかなりになる。トン/メートルの線加重で鉄筋コンクリートの建物でも注意しないと床がたわむ。そこでこの本棚を設置するにあたっては、構造の専門化にも聞いてokをもらった。
さてそんな本棚にしたせいか、どうも自分で持っている本を自分で把握しきれていない。3列目の本は常に裏だから目につきにくいのである。最近このスライド本棚をスライドして本を探すと、買ったばかりの本に出会って愕然とする。
ロラン・バルト『モードの体系』(単行本)、樋口忠彦『日本の景観』(文庫版)、リオタール『非人間的なもの』、カリネスク『モダン五つの顔』。
事務所に来てくれたら差し上げます。

かまって欲しい?

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by 卓 坂牛

fmラジオを付けたら三谷幸喜がモンマルトルに行きたいと言っている。ゴッホとゴーギャンに興味があるようで、彼等が同居していた話をしている。ゴッホが耳を切ったのは、ゴーギャンにかまって欲しかったからだとか。本当かどうか?まるで我家の犬のようだ。さすがに犬だからそういう自虐的行為に走ることはできないのだが、ちょっと無視したり遊んでやらないと、かまって欲しくて変な場所に糞をする。かまって欲しいと生物は何かする。娘やかみさんも同じで、かまって欲しいと何かする。むくれたり、わめいたり。自分だってかまって欲しいと何かする。「おーい」とか「わーい」とか「コーヒー」とか。

二つのモダン

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by 卓 坂牛

昨日記した稲葉振一郎さんの『モダンのクールダウン』に紹介されていたカリネスクの『モダンの五つの顔』を読んでみた。
「二つの鋭く対立しあうまったく別個のモダンの存在・・・・科学的進歩主義、産業革命、資本主義によってもたらされた圧倒的な経済的社会的変化の産物と美的概念としてのモダン・・・・の関係は敵対的なものとなった」と記され、その前者とは市民革命によるブルジョア文化であり後者はそれに敵対する反ブルジョアを標榜するアヴァンギャルドなのである。建築の場合まさにこの遅れてやってくるモダニズムがコルビュジエでありブルジョア文化を体現したのがルドゥー以降の建築家となる。カウフマンの『ルドゥーからコルビュジエ』がその二つのモダンを架橋していることになる。そう考えるとカウフマンはそこに決定的な溝を描いてはいない。むしろカントに棹差し、自律的な建築への歴史が記されていたように記憶する。昨日の日記にその差はどれほどか?と疑問を呈したが、その謎はそう簡単に明かされるものでもなさそうである。

近代とモダニズム

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by 卓 坂牛

二人の時代認識
先日読んでいたオギュスタン・ベルクの『日本の風景・西欧の景観』では、近代の始まりをルネサンスにみて、そこで発明された透視図法に対して、20世紀モダニズム絵画におけるキュビズムは多視点的な見方を作り透視図を否定したものとされている。近代の主体と同時的に発生したこの透視図の否定をベルクはポストモダニズムの先取りと表現していた。呼び方はどうであろうと、近代とモダニズムとを明らかに違うものとして見る視点がここにある。一方今読み始めた稲葉振一郎『モダニズムのクールダウン』でも近代に対してモダニズムは一種の異議申し立てであり大きな物語の普及であり、ポストモダニズムも異議申し立てであり大きな物語の腐朽だというのである。ここにも近代とモダニズムを一枚岩として見ない見方が提示されているのである。
近代とモダニズムのずれというのはなんとなく頭の中ではちょっと違う何かだけどとりあえず同じグループだったのだが、こうして違うグループとして言葉にされると。少し驚きなのだが、果たしてその差はどの程度のことなのだろうか?

10年前より新しいこと

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by 卓 坂牛

火曜日は9時から昼までゼミ、昼食後18時まで製図、18時半から院生ゼミ、今まで(22時半)。13時間長距離マラソンである。ふー。
昨日長野に向かう新幹線の中で読んでいた本のあとがきにこう書いてあった。
「ブラームスはブルッフのヴァイオリン協奏曲(1番か2番は不明)を聴いて、こう言ったそうだ。『こんなのでいいなら、私は10年前に書いている』。筆者も本書を読み返してみて、自分自身に向かってそういいたくなった・・・・・・・」
昨日ある原稿を出版社に出してきた。出版社が事務所のそばなので散歩がてらもって行った。原稿でも建築でもそうなのだが、これでできたと思うたびにその日の夜、次の日の朝、とてつもなく憂鬱な気分になる。「こんなのでよければ10年前に考えていた、作っていた、やっていた、」そう考えて滅入るのである。
オリジナリティの望めない現代社会において、創作物の独創性など微差の集積でしかない。ここ数十年間。これは見たことも無いなどというものに出会ったことはない。40年以上も生きていればしょうがないことである。そして自分の創作物を思い起こし、その僅かな差を確認し少し安堵するだけである。