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Mar 2007

またミッドタウン

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by 卓 坂牛

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今日締め切りの大学に提出しなければいけない書類作りが昼に終わった。アーよかった。高木徹の『戦争広告代理店』に次ぐ力作『大仏破壊』を読んでいた。ふと昨日訪れた東京ミッドタウンに散歩に行きたくなった。かみさんを誘いふらり出かける。近くのスタバでサンドイッチを買いタクシーに乗る。そんな混んでいるでもなく。なんでもない芝の広場を見ながらサンドイッチを頬張る。ああ気持ちいい。と思っていたらまた来たテレビのインタビュー。最近よくつかまる。前回はTBS。今日はフジテレビ。「今日はどちらから?」「家からです」「ここミッドタウンはどうですか?」「六本木ヒルズよりいいですね」「どこがですか?」「庭がいいですね。桜も」「東京の桜の名所になりますか?」「ええたぶん」。この何も無い芝が好きである。サンドイッチ食べてちょっと中に入り帰宅。

オープニング+退社

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by 卓 坂牛

朝一のバスで帰宅。事務所に法政大学の学生が来てレモンの展覧会のインタビューを受ける。25年前の卒制を思い出してのあれこれを語る。もうそんな昔のことは忘れてしまったのだが、、、、。その後打ち合わせ。5時に東京ミッドタウンで神成、吉野、日建の同期と会う。神成は日建のチーフとしてこのプロジェクトを設計から現場まで見た人であり、この仕事をもって日建をやめる。そのお祝い会が今日になってしまいそれが偶然オープニングと重なった。建物を案内してもらう。somや、青木さんや、隈さんや、坂倉など様々なアーキテクトがからみ日建がまとめたようである。しかしデザイン監修としてはいりこんだこれらのデザイナーの面影はあまり残っていないようである。そんな中で確固たるデザインを残していったのは安藤忠雄だけだと神成は説明してくれた。確かに安藤デザインはしっかりと存在を示していた。いろいろ聞くと本当に安藤さんという人は凄い人のようである。その後西村が加わり神成の退社を祝う。9年前に僕の退社を祝ってくれたメンバーである。あの時神成もすぐやめると言っていたのが早9年である。

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by 卓 坂牛

朝方研究室で雑用を片付ける。昼会議のため他の先生と車で松本へ。途中姨捨でそばを食う。高台にあるインターから見る姨捨の景色はすばらしい。かすんだ空気に春を感じる。会議には他学部の先生が多数いる。言語学の先生や医学部の先生は視点が異なり発言が面白い。これも総合大学の楽しさか?長野に帰る車中、坂本先生から電話。論文届いたのこと。久しぶりに読んでみたい論文だと言われほっとする。長野もだいぶ暖かくなってきた。やっと長野にも春が来た。

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by 卓 坂牛

3月28日
午後急遽入所希望者の面接をした。最初もらったメールにはこれから2級建築士をとりたいと書いてありなぜだろうと思っていたのだが、出身が多摩美術大学の情報デザインというところで建築士の試験資格には関与しない学科だからとのこと。将来は独立して建築事務所を開きたいのですかと聞くともっと広い分野でデザインを考えたいということを言っていた。なるほどそうなのだろう。聞くと面白い先生がごろごろいる。久保田晃弘、港千尋、伊藤俊治、などなどこちらが授業受けたいくらいである。
夕刻バスで長野に。車中高木徹の『戦争広告代理店』を読む。この本は先日読んだ池内さんの本に書評が載っていたもの。ボスニア紛争の話。こんなことはよく考えればありそうなことなのだがびっくりした。戦争におけるPRの実態である。PRとはpublic relationのことであり適訳はないそうだ。
内容のあらましはボスニア対セルビアの戦いにおいてボスニアはアメリカの支援を受けるためにアメリカのPR会社を使い世論をボスニア支援に誘導したというものである。その世論誘導のためのPR会社の手練手管はなんとも巧妙でありさもありなんというところである。世界はこうやって動く部分が多々あるという虚構のような事実である。

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by 卓 坂牛

夕刻日建に行きその後九段下から秋葉原に行く。3年くらい前にアメリカイギリスと駐在して帰ってきた友Aに会う。それが開口一番夏からまたロンドンと言う。この年になって海外となると子供の学校とか両親の健康とかいろいろ考えなければならない問題が多いようだ。別の友人Bはふぐ屋を経営しているが長女は就職、次男は大学生となり下宿。5人家族が3人になる。もう店は貸して悠々自適に暮らそうかと言う。この歳でそりゃないだろう。C銀行の友人Dが同期のE君を連れてきた。このE君さっさとC銀行を辞めて世界的な証券会社に転職し、2転3転してこの春C銀行に戻ったそうだ。僕もよく古巣から戻って来いと言われるがそんなものは冗談としか受け止めていなかったが、世の中では本当に起こっているようだ。

イスラム

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by 卓 坂牛

先日読んだ池内恵さんに感化されてイスラムに関する書を5~6冊アマゾンに頼んでいたのだが、それらが今日届いた。その中に阿刀田高の『コーランを知っていますか』がある。阿刀田氏はコーラン以外にも『新約聖書を知っていますか』『旧約聖書をしっていますか』『ギリシア神話を知っていますか』というよな著書もある。皆文庫本になっているのでついでに頼んでみた。面白そうである。コーランを読み始めた。どうも宗教の信者たるもの一神教か多神教かというところに決定的な差があるようである。イスラム教徒はキリスト教徒とは結婚できても仏教徒(仏教が多神教かどうは議論の分かれるところだそうだが)とは結婚できないと言う話があるようだ。それは一神教か多神教かということによるそうだ。
確かにその差は大きいだろうなあ。やはり一神教は原理的だろうし、多神教は価値観の多様性がありそうな、、、、?なんて早合点してはいけないのだろうが。

コル

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by 卓 坂牛

3月25日
昨日の五一c批判には間違いがあった。五一cが2DKという言葉を生んだかのごとく書いたが、かの本を読んでいると正にそうした誤解を生んで困っていると書いてあった。すいません。
さて近代計画概念を考えるついでに最近(2001)出版されたアレクサンダー・ツォーニスの単独によるコルジュジエの本『ル・コルミュジエ 機械とメタファーの詩学』鹿島出版会2007を読む。この手のコルビュジェ本はたくさん読んでいる気になっているが読んでみるとまたいろいろな発見があるものである。たとえばコルビュジエの思想がニーチェのそれになぞらえて語られることはあるが、コルビュジエ自身がニーチェやルソーを「下線や書き込みを入れながら」読んでいたという事実などはそうした発見の一つである。

nLDK

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by 卓 坂牛

五一cが現在のnLDKの元祖だと言う誤認に対する反論として書かれたのが昨日紹介した鈴木成文『私の建築計画学戦後史』である。その反論の主旨はこうだ。五一Cは2DKでありそのDKは小さなもので夕食となったら隣接する寝室を合体させ大部屋とし使用する。つまり寝室の一つは兼用部屋なのである。一方nLDKの発想はこの兼用部屋を無くし、publicとprivateを完全に分離するためにpublic部分を大きくするというものなのだという。そう聞くとなるほどそうかと言う気もするが、五一CをnLDKの元祖と見たくなる発想の一つはDとかKとかDKとか機能を記号化するその習慣のことなのかもしれない。しかし五一Cが○○DKというような言い方の嚆矢なのかどうかはこの本を読んでもよく分からないのだが。

成文先生

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by 卓 坂牛

昨日は坂牛研2回目の卒業生、修了生による謝恩会。嬉しいなあ。この日だけは教師冥利に尽きるときかも。できてありがとうと言われるそのときのために汗水たらす建築家と同じである。今朝は朝から某市のプロポーザル審査で8時に迎えが来た。10時から15時まで7社のヒアリングを行い1社を投票で選ぶ。公開である。票が割れるかと思ったが、1回の投票で決まった。帰宅のバスで鈴木成文『五一白書 私の建築計画学戦後史』住まいの図書館出版局2006を読む。そもそも計画学というものが大嫌いだった私が計画学に興味を持つようになったのにはいくつかの理由がある。一つは成文先生が高校の先輩であり、ある飲み会に延々と付き合ってくれたから。まあこれは下らん理由なのだが、二つ目は、僕の研究室の院生が成文先生の計画学から順応型と規定型とうい概念を引用しそれを使って現代住宅を分析しているのを知ったから。つまり成文先生の計画学の中に現代住宅を解くキーワードが潜んでいることを知ったからである。だから計画学に興味が湧いたというよりは成文先生に興味を抱いたと言うほうが正しい。
そんなわけで先日あまり行かない建築本の売り場を通り過ぎたときにこの本が目に留まった。読んでみると実に面白い。彼の自伝のようなもの。あの温和な成文先生の人となりがプランに浮き出てくるその昔の状況が鮮やかに描かれている。父親が仏文学者だそうだが、彼もその風貌とキャラクターは建築学者というよりは文学者というほうがあっている。そしてその文章もやさしく惹きつける。

おめでとう

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by 卓 坂牛

卒業生修了生に贈る言葉
先日読んだ大前研一の本にこう書いてある。社会での活躍と学歴には相関関係が無いと。昨今は入社のエントリーに大学名を書かせない会社も登場してきており、所属より人を見るということも徹底してきてはいる。しかしそうは言っても僕の感触では高い偏差値の大学を出た人は総合的に見て仕事が上手にできる確立が高い。その一番の差はどこにあるのか?
二つあると思う。まず一つは粘り強さ。決して諦めないことと徹底した探究心である。そして二つ目はその粘り強さで得た知識や知恵に裏付けられた自信である。
実は粘り強さはこの自信を生むための経過に過ぎないから、結果的にもっとも重要なことは自信なのである。社会とは若気の至りではあっても自らの主張を通し自己実現していく場である。路傍の石のように暮らすのが性に合っている人もいるかもしれないが、大多数のひとは何かをやり遂げる達成感を得ることが生きがいとなっていくものだ。そうした主張を通していくときに最も重要モノは自信だと僕は思っている。もちろんスカな自信など世の中は相手にしない。いやそれ以前に自分自身がそんな自信を持てるわけも無い。そのためにはその主張が自らの中で徹底して考え抜かれたという充実が不可欠なのである。さてしかしではその粘り強く探求するその限界をどこに設定するのかというのが次なる問題である。
大学という閉鎖的な社会で暮らし(特に信大は他大学との交流が少ないので)た学生はそのグループのレベルにいる。そして君たちはそのレベルとは様々な意味で異なるレベルの人間とこれから接していくことになる。そしてそうした場で君たちは必死でがんばっても打ちのめされる時が必ずやあるだろう。そしてそれが実に重要である。その打ちのめされたときに、自分の粘り強さを考えて欲しい。今まで考えていた自分の粘りや探究心の限界がまだ限界ではなかったことをそこで学ぶのである。新たな粘りの限界をそこで設定していって欲しい。
よく言われることだが、褒められたり、賞を取ったりという経験はあっという間に忘れてしまう。それにそのことが本当にすばらしいことなのかはよく分からない。たまたま上司の気まぐれで褒められたのかもしれないし、たまたま審査員と波長があって賞を取れたのかもしれない。しかし、本当に間違っていて怒られたことや本当に力不足で賞を取れなかったことは実に学ぶことが多い。そしてずっと記憶のそこに沈殿している。そうした沈殿量を次のばねにできる人が本当に伸びていく。長い人生において持続的な粘りを自信につなげること。これが君たちに贈る言葉である。