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Apr 2007

農学部再視察

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by 卓 坂牛

車2台で伊那の農学部キャンパス再視察。今日は天気もよく、まるでピクニックのようである。前回来たときはまだ図面だった新しい建物ができていた(ちょっとファサードがそっけない建てもとなっている)。この学部は日建のランドスケープ室長のm氏の出身学部であり、ちょっと前まではその恩師であるランドスケープの先生もいらっしゃったようである。そのせいか、それなりにきれいなキャンパスである。まるでゴルフ場のような入り口と別荘地のような建物配置である。真夏のような陽を浴びて気分はリゾートとなりリゾートキャンパスなるアイデアも囁かれた。
往復4時間の旅。東京から加えると今日は6時間近く交通機関に揺られていた。午後大学に戻り、雑用を終えたらもう9時である。

引越し

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by 卓 坂牛

今日は実にいい天気である。親戚の引越しがありちょっと拝見しに行った。そこに娘もやってきて妻を含め4人で夕食と相成った。ダンボールがところ狭しと並ぶ中に置かれた小さなテーブルの上で近くのファーストフードで買ってきたチキンのフライとポテトを皆でつまんだ。なかなか美味しいではないか。夕食後娘と私はさっさと退散。久しぶりに娘と二人の会話が楽しい。連休も捨てたものではない。しかし明日がまた早い。起きられるかやや不安を背負いながら就寝。

歳#2

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by 卓 坂牛

4月28日
今日はかみさんの誕生日である。僕より3日若い。しかし先日オフクロから聞いた話だと僕は一ヶ月早く生まれてきたようで普通に生まれていればかみさんの方が一ヶ月先輩ということになる。そういう話は聞く耳持たぬという顔のかみさんに「おめでとう年女」と言ったら黙殺された。
一日原稿を書き食後ビールを一本飲んで風呂に入ってベッドで高階秀爾『芸術のパトロンたち』岩波新書1997を読む。1401年フィレンツェ大聖堂に付属する洗礼堂入口のブロンズ扉のコンペがあった。高階によればこのドアは都市国家フィレンツェの国家としてのシンボルを決める国家事業だという。東京タワーがコンペに出るようなもの。と言えば言いすぎだろうがそれに近い。それに対して二人の人間が残る。フィリッポ・ブルネレスキとロレンツォ・ギベルティである。結局ギベルティ案が採用されるのだが、このコンペで目を見張るのは残った二人の年齢である。当時ブルネレスキ24歳、ギベルティ20歳である。参加者全員がこのくらいの歳だったわけではなく、並み居るベテランを抑え彼らが最終審査まで残ったようである。いかに当時のフィレンツェ市民が新たな芸術の風を取り入れたかったのかが伝わるし、それによってルネッサンス芸術が始まるのだろう。しかしそれにしても国家のシンボルをデザインするデザイナーにならんとしたブルネレスキの歳が私の半分。二回り下。親と子である。愕然とする、、、、、、、というのは自惚れか?

デザインとは

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by 卓 坂牛

4月27日
ofdaから斉藤君が卒業することになった。伊藤君の仕事を3年半で4つ完成させた。これはアトリエ事務所の一担当者としてはかなり恵まれた仕事量である。rcの集合住宅、木造3階建て住宅、rc+鉄骨2階建て住宅、rcビルのリニューアル、建物の種類から、構造から、規模から、ヴァラエティに富んだ仕事である。がんばれ斉藤。
本日山田忠彰・小田部胤久『デザインのオントロギー』ナカニシヤ出版2007が届く。小田部氏の論考は興味深い。美学的思考にのけるデザインとモダンデザインの概念の乖離を古典の捉えなおしによって埋めていこうとするものである。そして論考の結論としてのデザインの定義はこうである。「デザインの力それは存在するところのもの=形あるものをいまだ存在しないもの=いまだ形をとっていないものの痕跡として将来からの、そして将来への断片として捉え返し、このようにして存在するところのもの=形あるものを変容させるところにある」かなり乱暴に言い換えると、デザインとは過去のハビトゥスの影響下で過去から引き継がなければならないものである一方、過去においては横に置かれていたようなものの中に未来の可能性を感じそれを引き伸ばしていく作業であるということである。

概念

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by 卓 坂牛

夕刻奥山と鹿島出版会の川嶋さんが来所。某本の出版の企画打ち合わせ。とてもいい本が出来そうである。きっと売れる。打ち合わせ後、奥山と食事。川嶋さんは別の打ち合わせで神保町に行かれた。奥山と話をしていると昨今の大学生気質が良く分かる。東工大も母校ながら余り勉強していないと感ずる。読書量が少ない。いい気になって建築を感覚だけで作っているような感じだ。地道に勉強しないといつか駄目になる。その差はすぐに出るだろう。感覚力を支えるのは概念。長続きするものは思考に支えられるのである。

構成の規則

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by 卓 坂牛

昼食後研究室で事務所との連絡に追われていると学生が入ってきた。気にせずメール画面に集中していると何やら一人ではなさそうな気配。どどっとたくさん入ってきた。何事か?来週のゼミはやめてくれというような談判でにでも来たかと思ったら birthday を祝いに来てくれたのであった。cakeは僕が最も好きなフルーツの盛り合わせタルト。いやいや忘れたい誕生日だが嬉しかった。ありがとう。
午後の製図を終わらせ、研究室で雑用を終わらせ帰宅。バスの中でツォニス&ルフェーブル『古典主義建築ーオーダーの詩学』鹿島出版会1997を読む。古典主義建築の構成の規則をタクシスとジェネラとシンメトリーの3点に絞ったツォニスの分析はとても明快である。この中でタクシスは「グリッド」と「3分割」という2つの類型に大別される。そしてこの3分割とはギリシアの芸術においては詩でも、音楽でも構成の基本だったと書いてある。うーんそうかもしれない。2分割だとバランスとりにくいが、3分割はとりやすいからだろう。つまりそこにはシンメトリーが働いているわけだ。

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by 卓 坂牛

最近、近いものがよく見えない。縮版図面の寸法が見えない。先日友人とどのあたりから見えなくなるか競争をした。僕のほうが少し近くが見えるのでほっとした。しかしいつの日か眼鏡をぶら下げることとなろう。見たくない光景である。
三年間禁酒していたので酒に起因する病気の恐怖は無いつもりである。メタボリックも免れていると思うのだが、メタボリックは酒が原因とは限らない。甘党の僕にとって他人事ではない。やはり人間ドッグは受けるべきだろうか?申込書を前にしてしばし悩む。
酒をやめたことを免罪符に食生活がひどいとかみさんに注意された。そこで体質改善をめざし食生活を改め、ついでに、去年一時ジョギングをした。しかし本当に一時で終わってしまった。走るエネルギーをとっておかないと止まりそうだったからである。今年こそは少し運動をと思い、先週30分ジョギングをしたら3日間人並みの生活が出来なかった。
よく考えてみると明日は誕生日である。ブログに書いておいてなんだが、歳のことは忘れたい。しかし思い出させるような事態に日々遭遇する。

時間がない一日は何も書けない

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by 卓 坂牛

3月23日
ワッ本当に時間がない一日。そういう場合次の日の朝時間が取れるものだが、そこも会議。そして24日の夕食を食べて少し一息。なんともはや。

渋沢敬三との縁

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by 卓 坂牛

4月22日
『旅する巨人宮本常一と渋沢敬三』を読み終えた。久しぶりに「偉い人」に遭遇した感動が心に残った。渋沢敬三は日本の資本主義のドン渋沢栄一を祖父に持ち、生物学を志すも、父が廃嫡となり渋沢家を継ぐこととなった学問を愛する経済人である。彼は第一銀行の頭取から日銀の頭取を経て大蔵大臣になるも自ら愛した民族学の場を自営し、仕事の傍ら学問をこよなく愛した人物だった。そんな彼は戦争中、日銀総裁の身分でいながらひそかに職を失っていた大内兵衛に2千円という大金を渡し、ドイツのインフレーションについての報告書を書かせ、大内は無署名でその報告書を提出したそうだ。また彼は周囲の大反対を押し切って日銀調査部顧問として向坂逸郎を迎えた。マルクス経済学者の巨頭二人を日銀が活用するのは前代未聞。彼らの経済学者としての才能ゆえではあるが、渋沢の度量の大きさが伝わる話である。さてこの渋沢については私事だがもっとびっくりする話に出会った。渋沢の秘書兼執事として代々使えていた人間に杉本行雄という人がいる。彼は戦後青森の渋沢農場の原木伐採によって得た資金を元にして東北一の観光王との異名をとった人物である。最近のカーサブルータスの東北で泊まりたい宿にも載っていた古牧温泉のオーナーでもある。この東北の大金持ちは私の祖母が営んでいた東北の料亭の顧客であった。そして私が幼少のころ夏休みに過ごすこの料亭に頻繁に訪れその当時とんでもなく珍しいキャデラックに乗せてくれたおじさんだったのである。祖母の死に際してこのおじさんと私が弔辞を読んだ記憶がある。そのおじさんが渋沢家に仕えていた人物だったとは今の今まで知らなかった。そんな私が渋沢の卒業した学校で学んだというのもまた何かの縁を感じずにはいられない。

家族

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by 卓 坂牛

4月22日
今日はA0の勉強会。ジェフリー・スコットの『ヒューマニズムの建築』の訳読み合わせである。二班に分れてわれわれはアカデミックの伝統という章を読んでいる。本日読み終えた。ウィトルウィウスの権威がルネサンス以降低下するあたりの話が面白い。図版の無い本だから時として何を言いたいのか読み取るのが難しい。夜は久しぶりに家族で食事。食後、親から郵便が届く。忙しさを癒す家族の存在を大事にせよとの言葉が最後に書かれていた。いやその通り。