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Apr 2007

日記

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by 卓 坂牛

今週は週5日毎日どこかで授業をしていた。ふー。朝一の東大での講義は今週は受講者が少し減るだろうと思ったが、幸か不幸か前回より多い。熱心な学生がいるのは感心するがせっかく来て寝てるくらいなら家で寝てれば良いのにと思わなくも無い。まあそれでもそんな輩は数名なのでよしとしよう。事務所にとんぼ返り。エクスナレジのインタビューの約束だったが、インタビューは5月にライター連れてきてきちんとやるとかで今日はさわりの取材。えーまた時間とるの?一回で終わると思ったのだが。まあ5ページ使うということなのでしょうがないか。午後一で大学のI先生が来所して打ち合わせ。I先生も忙しい方で二人で予定を見ていたら今日東京でしか時間が合わないことが分かる。朝と夕の会議の間隙を縫ってお出でくださった。4時に某工務店来所。T邸最後の金額交渉。見通しは暗くないようである。

早稲田での都市論

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by 卓 坂牛

午前中早稲田のオープンスクール「感性の問いの現在」なる講座でレクチャーを行なう。今年で3回目。今年はついに建築のネタが尽きたのでで都市について話す。題して「都市の感性」。都市を見る尺度として意味の濃淡。表と裏。視点の特別性と日常性。という観点から僕の世界中での体験をつなぎ合わせて披露した。都市は建築家は作れないので傍観者、というふりをしながら、一番最後に、でも建築を作る行為は都市へのコミットを余儀なくされると告白。そこで僕のスタンスはこうした2項対立を無効化することである。あるいはこの2項を架橋することであるということを実作をお見せして説明した。この2極は結局現代と過去、社会の趨勢と伝統、ニーズとノスタルジーというようなもののせめぎあいであり、僕はどちらに加担する気にもなれない。それがこうした態度になるのである。5-6人の学生から終わったあと熱心な質問や意見をいただいた。今どきの学生にしては熱い意見があったのが嬉しかった。

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by 卓 坂牛

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世の中ではとんでもない悲惨な事件がおこっている。コミュニケーションとは人間の過信の産物なのだろうか?昨日のルイスの話を読みながらも思う。ネオコンの旗手の話を鵜呑みにはできないが、イスラムも硬い殻に何故閉じこもるのか?それをアメリカは何故こじ開けようとするのか?ルイスに疲れて、桜井啓子『日本のムスリム社会』ちくま新書2003をぺらぺら眺める。せめて日本の中では信じるものの差が争いの種にならぬことを願う。長野はやっと桜が満開。しかしそれも束の間、突然の寒波に雨。桜散る。東京の最高気温は10度。おー寒。

一日の断片

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by 卓 坂牛

・装飾論の分析手法のアイデアが浮かんだ。ちょっと嬉しい。誰かやらないかあと期待する。メディア論も分析手法のアイデアは浮かぶが分析対象が浮かばない。・昨日でてきた工務店の見積もりがちょっと高い。どうしたものか?最後の微妙な判断が必要。クライアントと電話で相談。再交渉のための作戦を少し考えねば。・朝から途切れない仕事、仕事。ちょっと疲れた。寝る前の最後の少しの元気を振り絞ってバーナード・ルイス『イスラム世界は何故没落したか』日本評論社2003を読み始める。ネオコンの中東政策を支える歴史学者といわれるルイスによるこの本はイラク戦争の政治的マニフェストと言われるものだそうだ。だいぶ前にまとめて買ったイスラム関係の書の中の一冊である。

大橋晃朗の家具

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by 卓 坂牛

私の知り合いに大量の爬虫類や亀をペットにしている人がいる。彼の家では亀のうち数匹が巨大化し今では座布団くらいの大きさになりとても家の中には置けなくなり庭に放し飼いにしているそうである。その上運動不足にならないように彼の母親は暇を見つけてはこの亀にリードをつけて散歩するそうである。場所は南青山。青学の裏。さすがに亀にリードをつけて街を散歩する人は世の中にそうたくさんはいない。彼女がその亀を連れて街を歩くと皆が振り返る。その上その亀は呼びかけると振り向くそうでこれにはすれ違う人も目を疑うようである。さてこの亀、もちろん散歩中は歩くとしても家にいるときは石のようにじっとしているそうである。このほとんど動かない石はある一時動くということでかろうじて生き物としてのアイデンティティを持っているのだがほとんどそれは庭石。室内においたら家具のようなものである。しかしこの亀はこの家族に無言の愛嬌を振りまき、和みを与えているのである。
長い前置きになったが大橋晃朗の家具の本を読んでいて僕はこの亀の話を思い出したのである。人間と社会の中での家具の概念を追求した初期のシリーズからもっと自由に人間の身振りを表現した大橋の家具は世の中の類型化された家具とは根本的に性質を異にするものである。ではそれが何なのか?しばし考えていたらこの知り合いの亀のことを思い出してしまったのである。この亀は用をなさない石のようなものなのかもしれない。しかし石といえども何がしかの生き物の根源的な属性を愛らしくそして豊かに喚起してくれるものなのである。きっと大橋の家具にもそうした豊かな喚起力があるのではなかろうかと写真を見ながら想像するのである。

アンチモダニストコルビュジエ

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by 卓 坂牛

アレグサンダー・ツォニスの『ル・コルビュジエ機械とメタファの詩学』の残りを読みアンドレ・ヴォジャンスキーの『コルビュジエの手』白井秀和訳 中央公論美術出版2007を読んだ。あらためてコルビュジエが意識的に荒々しいコンクリートを打とうとしていたことを知る。荒々しいコンクリートはご存知の通り1954年にイギリスでブルータリズムと命名されるのだが、この命名はモダニズムで忘れ去られた質料性を浮上させた数少ない言葉として重要である。一方当の本人であるコルビュジエはこの荒々しいコンクリートを「しわ」とか「出産斑」という言葉で形容していたそうだ。建築の外皮を人間の外皮になぞらえたのは、僕が坂本一成の水無瀬の町屋のコンクリートを皮膚の病と言ったのが最初かと思っていたがコルビュジエに先を越されていた。それにしても、どちらの本にもこれでもかと言うほどコルビュジエのアンチモダニズム的な側面が描かれている。そりゃ今の時代に出す本だから勢いそうなるのだろうけれど。

原稿を考え

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by 卓 坂牛

朝からいろいろな雑用を片付け。天気もよいがコルビュジエの原稿のテーマをいろいろ考える。アイデアを拾いに今日始まった藤森照信の展覧会に行く。オペラシティギャラリーはうちから10分だから便利。ちょっとした発見もあった。帰宅してアレクサンダー・ツォーニスの『ル・コルビュジエ』を読む。写真がとてもきれいな本である。

いろいろ

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by 卓 坂牛

4月13日
今年は東大の文学部で数年おきに依頼されている特別講義を行う年。タイトルは『建築の規則』http://www.ofda.jp/t_lecture/index.html今日は初日。金曜の1コマめである。8時半スタートという小学校なみの時間を選んだのは他の仕事とのバッティングが少ないから。それから学生があまり来ないだろうから。本当はたくさんの人に聞いて欲しいのだが、学生が多いといっしょに建築見学に行けない。2004年の講義では学生を10人に絞ってガエハウスやhouse sa 連窓の家#2などを見た。さて今日ふたを開けてみると30人。この人数のままではいっしょの見学は厳しい。嬉しいやら悲しいやら。
昼行きつけのとんかつや鈴新に行くと「先日信州大学の学生さんが長野から来ましたよ」という。そういえばコラムに鈴新のことを写真入で載せたからそれを見た人なのかもしれない。事務所に戻り来週の早稲田でのレクチャー「都市の感性」のイントロ部分のパワポを作る。夕刻事務所での最近の設計終了物件や竣工物件などの報告会。みなプロジェクターの大画面に映し出し担当者が説明をする。全部で5~6件あり一人10分くらいの駆け足発表である。ofdaは合衆国のようなものだから隣の州の事件は横目で見ているが詳しくは知らない。たまに全州集まって報告会をするとなるほどといろいろ勉強になる。夜は近くのスペイン料理屋にそのまま流れて食事。総勢14人。大いに盛り上がる。

おっ!しゃれたサイン

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by 卓 坂牛

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T邸のクライアント来所、着工までのスケジュール、変更した材料の提示、50分の1の模型の説明など2時間ほど打合せ。
さて、昨日のハプニングでなんと私はコンピューターを研究室においてきてしまった。昨日帰宅してかばんを開けたらpcが入ってないではないか!このときの私のうろたえぶりと言ったらない。頭がくらくらした。左脳を長野に置いてきてしまったという感じである。何がまずいって明日の東大の授業の初回が入っているのである。ああ。そこで午後その再生を事務所のpcで行う。
夕刻小伝馬町の集合住宅を見学に行く。監修していたy氏に偶然エントランスで会ったが「僕は玄関しかやってない」と主張していた。中身は中廊下北側がフラット、南側がメゾネットの組み合わせ。メゾネットは2層使う部分と1.5層を使う部分の組み合わせだった。45㎡で25万くらいの家賃だそうだ。帰りがけある集合住宅のきれいなエントランスサインを発見。何だろう?クロームめっきのような光沢のある一辺10センチくらいのキューブにアルファベットが彫りこんである。しゃれている。

宮本常一

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by 卓 坂牛

4月13日
とんだハプニング。設計製図終了間際一人の学生が体調を崩し病院へ。帰宅のバスを取りやめて付き添う。幸い体調回復。良かった良かった。人間、何はなくとも体。子供を見ていてもそう思う。多少のことは目をつむりましょう。ただ体だけは大事にして欲しいと。
バスを逃したので次の新幹線まで中途半端な時間。駅前書店平安堂で1時間時間をつぶす本を探す。『これだけは知っておきたい大人の国語力』を買って駅のベンチで挑戦。わー分からない。普段学生に怒っていながら情けないものである。読めない漢字続出。慣用句の誤用が見抜けない。帰宅後かみさんと深夜まで挑戦。自信のある人ほどショックは大きいようである。
車中、佐野真一『旅する巨人宮本常一と渋沢敬三』文芸春秋1996を読む。この本は民俗学の大家宮本の足跡を渋沢との関係に焦点をあてて描いたドキュメントである。などと書くと宮本を良く知っているかのように聞こえるが、この名を知ったのはつい最近。大学の歴史の先生に教えていただき平安堂でフェアーをやってると聞きちょっと覗いた。イヤー知らないのは恥と言うほど凄い人であることがよく分かった。民俗学と言えば柳田しか知らない私としては少し世の中が広がった思いである。