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Jun 2007

くらくら

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by 卓 坂牛

朝一でコンペの打ち合わせ。そしてゼミ。他大学から僕の研究室に修士受験するかもしれない見学者一名。ポートフォリオを見せてもらう。なんとスタジオの指導者は柳沢潤とのこと。世の中狭い。午後製図。うーん皆頑張っているのだがもう1つ。夕刻本部へマスタープランの資料を送るのだが、なんと100メガ、メールでは無理。学内fttpサイトに乗せようと頑張るのだがやり方が分からず四苦八苦。夜某プロジェクトのスケッチ。情報収集。エクスノレッジのゲラチェック。なんと図のキャプションがまったく意味を成していない。写真と図版が整合していない。こんなゲラは初めてである????最近朝五時くらいから明るくて目が覚めるせいか寝不足である。変なゲラ見てたら頭がくらくらしてきた。今日中に帰宅せねば。

99.9%は仮説

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by 卓 坂牛

6月18日
昨晩駅前の平安堂に平積みになっていた『99.9%は仮説』竹内薫光文社新書2006を買って風呂で読んだ。大学で疲れると夜平安堂に来て手ごろな読み物を買ってその下の蕎麦やで蕎麦を食べながらその本を読み家に戻り風呂で読むというのが習慣になっている。新書を読みきるのには丁度良い。
竹内薫が高校の一級後輩だということを誰かが教えてくれた。しかし高校時代に彼の記憶はない。今では方々で名を見るなかなかの売れっ子のようである。
この本は仮説という言葉をある時代の常識あるいはエピステーメーという意味で使い、その仮説に侵された頭がおこす様々な科学の事例を教えてくれる。科学音痴の私にも楽しめた。一番おもしろかったのはピエール・デュエム(1861~1916)の言う「仮説を倒すことができるのは仮説だけである」という言葉である。一般には仮説を倒すのはデーターなのだが、データー自体がある仮説のもとに集められている(バイアスがかかっている)のでそのデーターでその仮説を倒すことは出来ないという話である。もうひとつおもしろかったのはノーベル賞をとったミリカンの実験。彼は電気素を発見した実験データー170のうち自分の仮説にのらない112のデーターは無視したそうだ。112は実験が上手くいかなかったから間違ったデーターとなったと決めたのである。もちろんそれは誰にもわからないことだが結果はその通りだった。
どちらの例も論理性のない判断が道を開くといことを示唆していておもしろい。それも科学の分野でである。科学にしてこれなのだから、そうじゃない分野では言うまでも無い。

天気のいい日曜日

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by 卓 坂牛

土曜日が松本だったので今年初めて日曜日に長野にいる。休みに長野に一人でいるというのは実に退屈である。しかし実に生産的でもある。車が無いので行くところは大学しかない。研究室の自分の部屋で本読んだり、スケッチ描いたり、メール打ったりする以外何もできない。まあ一種の軟禁状態である。

松井さんの新著

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by 卓 坂牛

年に一回土曜日の授業がある、1年生を連れての建築見学。信大の一年生は松本にいるから松本の建物を見に行くことになる。伊東さんの市民芸術館と宮本さんの美術館を見る。去年は芸術館のシアターに入れなかったが今年は公演の合間で見ることが出来た。色と言い形といい本当によく練られている。また、館の方の説明ではじめて知ったことだが、この芸術館のホワイエはシアターパークという名が付いている。どうしてかというと、もともとこの敷地は公園だったのでこの建物を公園の如く市民が自由に使用できる公共空間にしようという発想だからだそうだ。朝9時から夜10時までホテルのロビーのように自由に出入りしていいということで今日も近隣住民がロビーでくつろいでいた。
帰りがけ美術館のほうのミュージアムショップを覗いたら松井みどりの新刊『マイクロポップの時代』パルコ2007 が出ており買って読んだ。90年代を語る前著『アート:芸術が終わった後のアート』に続き21世紀を語る批評であり興味深い(カタログなのでたいした量ではないが)。前著でフィーチャーされたセルトーに加え今回はドゥルーズの『カフカ:マイナー文学のために』が批評の根底にある。今度読んでみよう。

ルネサンス音楽

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by 卓 坂牛

建築とか文学のルネサンスは近しい存在なのだが、どうも音楽のルネサンスというのは馴染みが薄い。小さいときから音楽をやっていたが音楽はバロックから始まるものだと思っていた(もちろんそんなことはあり得ないのだが)。そもそもルネサンス音楽のレコードなど僕が幼少の頃レコード屋には置いてないし、一般の楽器演奏者が弾くルネサンス音楽の楽譜など無かった。古くともヴィバルディである。そしてバッハ、古典主義のモーツァルト、ハイドン、ロマン派のヴェートーヴェン、シューベルト、なんて進む。もちろん今でこそ何かの機会にルネサンス宗教音楽を聴くことはあるのだが、(ルネサンス音楽と言ってもギリシアローマ時代の再現ではない)、何を聞いても同じように聴こえる(というのは言い過ぎか?)。先日ゼミで、ルネサンスもバロックもほとんど同じに見えると学生が言っていたが、僕も昔はそうだった。余り勉強もせずにローマに行き、なんだかどれも同じだなあと思った記憶がある。ルネサンス音楽と同じである。しかしそれも経験のせいか少なくともルネサンスとバロックの違いが明瞭になり、昨今ルネサンス建築の本を読み続けているとルネサンスの中でも微妙なニュアンスの差が明瞭に見えてくるようになった。きっとルネサンス音楽も相当量聞くとそれぞれ違う音に聴こえてくるのだろうが。

現場やら打ち合わせやら

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by 卓 坂牛

6月14日
午前中、昔の現場と今進行中の現場と回り、途中ヨドバシカメラで新しい電子辞書を購入。娘の電子辞書が急に動かなくなったため。sony製である。名刺サイズでとても軽いその上、日、独、伊、仏、中、韓と入った優れものだったので娘はポケットに入れて持ち歩いていた。是非直したいと思ったのだが、回答は直らないので2万円差し上げるというもの。その上sonyは電子辞書から撤退してしまった。仕方なくセイコーの同じサイズのを買うが、遥かに重く英語のみである。
事務所に戻り中国プロジェクト打ち合わせ、いやはや過去の記憶を蘇らせるために2年分の打ち合わせ記録を読み返す。去年の年始から何も進んでいないことがよくわかる。今度は本当に進むのだろうか??ドイツからメール。アーヘン工科大学の学生がインドからドイツに戻りやっとポートフォリオを送ってきた。堅実でまじめな設計をしているようである。インドでのワークショップの集合住宅は興味深い。来日を認めるメールを打つ。最終で長野に。車中長谷川逸子の『生活の装置』住まいの図書館出版局1999を読む。篠原研を出てから70年代はとても観念的な設計をしているのが80年代に入り生活者の受容に対する思いが強くなる様がとてもよく分かる。建築家のマニフェストをたまに読むのは自らを律する上で気持ちが洗われる。

エイドリアン

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by 卓 坂牛

夕刻、長野から青山塔の家に駆けつける。講義の都合で来られるどうかぎりぎりのところだったが何とか間に合う。ここでA+Uの津久井さんとエイドリアンと会うことになっていた。到着すると既に一行は家の中。東利恵さんに会うのは大小の窓の学会選集審査以来である。東さんもうろ覚えだったが、「どっかでお会いしていると思った」と再度確認の名刺交換。塔の家を見学するチャンスは後にも先にももう無いだろうと必死で駆けつけたかいがあった。6坪の空間は思った以上に迫力があった。最上階のロフトはとてもコージーな場所であった。そしてそのコンクリートのブルータルなテクスチャはこれまで見てきたコンクリート建築の中でも随一である。東さんの話ではこの家を使いこなした母はすごいとのこと。想像に難くない。竣工後30年たつと歴史となり、また最近月に一度は見学者が訪れるそうである。
見学後お定まりのコースではあるが表参道tod`s、を見て、そしてヒルズ。僕がここに来たのは初めてだと言ったら、津久井さんもme tooと言ったのには驚いた。その後ギャルソン、プラダを見る。夕食を食べながら、言葉と建築の話に、彼がよくあの本を訳したねと言うので、10人がかりで2年だよと答えたら、そうだろうと納得していた。しかしフランプトンを蹴っ飛ばしてあなたの本を訳し、それが1ヶ月で重版になったと言ったら喜んでいた。また欲望のオブジェの日本での評判を教えたらまた喜んでいた。また現在翻訳中のジョフリースコットの話をしたら、彼はとても興味深そうに彼のことを教えてくれた。

自由の恐怖

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by 卓 坂牛

前回の東大の講義で「重箱と平皿」という講義をした。つまりヒエラルキーの高い空間とフラットな空間の対比、言い換えると目的性の低い原っぱ空間と高い遊園地の差異とその歴史について話をした。そしてその講義のレポートのテーマとして「目的性のゆるい原っぱ的平皿空間を身の回りに発見しその是非を論ぜよ」を提示した。レポートの中にはいくつかの興味深い観点があったのだが、その1つとして、原っぱは怖いという視点があった。そしてそう言った人は二人いて異なる対象をあげていた。一人は自ら働く野外博物館をあげる。そこには遊具のある遊園地的な場所と遊具の無い文字通り原っぱのような場所があるそうだ。そして前者で遊んでいる子供たちはその行動の目的が見えている一方、後者でうろうろしている人はその目的意思が読み取れないので不気味に感じることがあるというのである。もう一人原っぱは怖いと述べた学生の対象は、ブログである。ネット上で幸か不幸かブログやらその類の場所に紛れ込んだとき、「今日○○しました」風に垂れ流される私生活情報には(垂れ流す相手の心をつかみきれず)不気味さを覚えるというのである。
なるほど。平皿の有効性を使う側から考えたことはあるものの、それを端から見ている側の心理に気をまわしたことはなかった。確かに自由な人間を見ていると恐怖を感じることはあるものだ。

講義とゼミ

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by 卓 坂牛

月曜日の午後は空間論の院生の講義。『言葉と建築』の第二部が教材。今日は記憶の章である。エイドリアンの説明にはロックの『人間知性論』など登場するので、簡単な哲学史として大陸合理論とイギリス経験論、そしてそれを調停したドイツ観念論を概説した。そんな話をするつもりはなかったのだが、ふと思いついて最初に説明した。不思議なもので、その後3時からの研究室のゼミでヴァーノン・ハイド・マイナーの『美術史の歴史』を輪読していると、まったく同じような話が登場する。学生の発表を聞いているとさきほど自分が話していることとまったく同じことが語られている。もちろん僕の概説は定説を語っているだけだから不思議なことでもなんでもないのだが。
最近講義の内容とゼミの内容が様々にオーバーラップするのではっとする。学生にとっては効果的な勉強になると思うが。

ロウ

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by 卓 坂牛

久しぶりに雨。娘は英検の試験に行き、妻は大学の同窓会に行き私は家で大学の書類を作っていたが終わったので国立新美術館に行く。この建物本当に何時来ても混んでいる。もちろん平日に来たことはないが、土日はどこかのターミナル駅のようである。やはり公募展が3つくらいと企画展が行なわれているからだろう。それは上野の都美も同じだ。なんだか騒がしい美術館である。乃木坂きたからついでに何か見ようか、買おうかとも思ったが、さっさと帰宅。コリン・ロウ&レオン・ザトコウスキ稲川直樹訳『イタリア十六世紀の建築』を読む。ロウはロンドン大学のヴァールブルグ研究所に学び、ウィットカウワーとゴンブリッチと出会っているとは知らなかった。やはりアメリカの理論派ももとを質せばロンドンとは。知らなかった。