Archive

Jun 2007

塔の家

On
by 卓 坂牛

東孝光+節子+利恵『「塔の家」白書』住まいの図書館出版局1988を読んだ。東一家の建築に対するおおらかさを感じる。あまり細かいことにこだわらず、決めず、使いながらさらに作りこんでいこうという姿勢と仕上げの大雑把さはとても共感してしまう。しかし日本のローンのシステムは使いながら直すのにお金貸すようになっていないからそうしたことができないと嘆いている。それもそうだ。

現場

On
by 卓 坂牛

6月8日
T邸の捨てコン上墨確認に現場へ行く。久しぶりの現場は心躍る。それにしても今年の入梅は少し遅い。来週はまだ晴れの日が続きそうである。現場の進行を考えれば天気が続くにこしたことはない。まあ暑いというのも辛いものだが、さっさと上棟して屋根さえかかればその下は快適だろう。

暑い

On
by 卓 坂牛

夏のような天気。リーテムで打ち合わせ、中国プロジェクトを本格的にスタートさせるために今月中に行なうべき点を確認。始まるまでが大変だが始まると早いだろう。まったく予想できないことがおこりそうで怖いのだが、あまり考え過ぎると進めない。岡田温司『もうひとつのルネサンス』を読み始める。

設計のスピード

On
by 卓 坂牛

設計のやり方は人によってもちろん異なる。一つ一つの案をそれぞれかなり具体的につめるタイプの人、案一つ一つは抽象的な段階で止めておく人。後者のタイプは確信できるものになっていない段階で具体的につめてしまうとそれで出来た気になってしまうことを恐れるのである。学生にもそういう個人差があるようだが、僕は学生のうちは前者のやり方で、一つ一つ具体的につめてダメなら次を考えるという方法をとるべきだと思っている。抽象的なスケッチで良し悪しを判断できるほど経験をつんでいないのだから。
今日製図第五(四年)課題の中間講評会を聞きながらそんなことを感じた。皆、手が動かない。一日一案作るぐらいのスピードが無いと設計者にはなれないと思うのだが。

山田守

On
by 卓 坂牛

先日東海大学の岩岡さんから山田守作品集なるものをいただいた。その中に青木淳の言葉がある。青木さんは山田守のデザインをこう言う。ディテールや空間の完成度を求めていない。それは普通のものである。標準仕様である。こう言うのは一般的にデザインとは呼ばない。デザインとはディテールから全体形までをも含めて建築家の意思のもとにある完成度を創ることであり、そうした観点からこれはデザインではないと断定する。一方で山田には不思議な雰囲気が漂っている。その全体形には独特の山田流がみなぎっている。しかしそれは全体形を含めたある別種の空気だとする。因みにこの論考のタイトルは「もうひとつの『デザイン』のあり方」である。つまり山田のデザインは細部から全体にわたる完成度を求める一般に言うところのデザインではなく、形にならぬ空気を作るようなもうひとつのデザインだと言うのである。うんうんそうかなあと思いつつもやはりちょっと無理があるか?雰囲気とはいえどもそれは山田流の未完成の形に頼っているからである。
しかし気分としては青木さんの言いたいことは分かる。確かに現代の建築が求めていることのひとつを山田が無意識に体現していたのかもしれない。山田のデザインした代々木の東海大にしばらく通った身にはある不思議な空気が感じられた。

フォーティー来日

On
by 卓 坂牛

今村さんもブログで書いていらっしゃいますが、われわれが翻訳をした『言葉と建築』の著者エィドリアンフォーティーが来日し下記のとおり東京で講義をすることとなりました。僕は残念ながらその日も次の日も大学で仕事があり参加できませんが、もしこの本に少しでも関心のある方は足を運ぶことをお勧めします。
テーマ:アーキテクチュラル・インパーフェクション
日時:6月15日(金)18:00~
会場:東京大学工学部1号館15番教室
当日先着順・定員150名
フォーティーのこの本は今更宣伝するのもなんですが、極端に言えば建築が社会構築的な産物であることを言葉と言う視点から分析した本であります。こうした分析が日本では今まで無かったといっていいでしょうし、これからもなかなか登場しないと思われます。しかし建築は明らかにこうした側面を持っており、そのことに建築家は気づかなければならないであろうし、それを自らの実践の下地とせねばならないであろうことは僕が言うまでもないと感じます。

ルネサンスの現代的意味

On
by 卓 坂牛

6月3日
ブルクハルトの名著『イタリア・ルネサンスの文化』を車中で読む。文化にこだわる本なので、美術が出てくるとそれは美術史にお任せしようとなるし、科学が出てくるとそれは科学史にお任せしようとなる。しかしそうした美術や科学が沸き起こる文化的基盤については徹底して論述しているというのがこの本の1つの特徴である。ルネサンスという概念を最初に正確に規定した本というだけありその内容はとても丁寧である。目次の大項目だけ見てもそれは見えてくる。Ⅰ芸術作品としての国家、Ⅱ個人の発展、Ⅲ古代の復活、Ⅳ世界と人間の発見、Ⅴ社交と祝祭、Ⅵ風俗と宗教。この中でもⅣ世界と人間の発見こそ本書の最も有名な章と言われている。そしてその内容の中でもなかなか面白いのはこの時代は階級制度は有名無実となり、世の中はフラットに変化し、教養と体力こそが人を図る価値だったという点である。さらに世界を発見するとともに風景美を発見したのも、風景画に先立ちこの時代だったというのも興味深い。神から開放され人間は神さえも人間にとってのものとしていくうえで俗化したというのもルネサンス絵画を読み解く重要な示唆であろう。
さて読み終えてふと現代のことを考えるとコルビュジエを近代のルネサンス建築家と呼んだ南條史夫氏の言葉が蘇る。近代の神たる機械と合理主義の呪縛の海に身を投じ、そこから這い上がるコルビュジエが現代を暗示していたというその言葉である。21世紀が期せずして、作るから使う、機械から人、建築から環境(風景)へとそのベクトルの向きを転じているその状況はまさにルネサンスと二重写しに見えてくる。

論文

On
by 卓 坂牛

先日香山先生からお手紙をいただいた。博士論文を送付したことへの御礼の手紙である。社交辞令だとしてもお褒めの言葉をもらうのは悪い気がしない。香山先生の評は、サブタイトルにあった。僕の論文サブタイトルは、「多様性と置換性を内包した設計原理としての設計指標の提案」というものであるが、この多様性と置換性、さらにこの置換性を導くための建築固有の原理としての暫定性を指摘していることが秀逸であると書かれている。ありがたいことである。
ところで、実は以前に桐敷先生からもお褒めの言葉をいただいた。よく丹念に様々な文献にあたっていることをお褒めいただいた。先日坂本先生はむしろもっと書きたいことだけ書いたら?とおっしゃっていた。そりゃそうかもしれないが、建築論としての全体性が必要なのではと反論したくなった。しかし論文なるもの、もっと個人的でも許されるなら、そのほうがはるかに楽である。

地鎮祭

On
by 卓 坂牛

信州大学は本日開学記念日でお休みである。東大の講義を朝一で終えてからT邸の地鎮祭に向かう。久しぶりである。http://www.ofda.jp/sakaushi/construction/type/01house/02/index.html今日の神主さんのイントネーションはちょっと変わっている。祝詞の声が響く中、お供え物のするめがぷーんと香る。昨晩大雨だったが今日は一点快晴で暑い。午後事務所で原稿校正、雑用。夜久しぶりに事務所スタッフとちょっと一杯。

東京で講評会

On
by 卓 坂牛

5月31日
午後東工大の3年生の製図課題の講評会にゲストで行く。少し早めに坂本先生を訪ねる。私の論文について様々なご意見をいただく。その後、坂本先生のドイツのプロジェクト、大学のプロジェクトを拝見。3時半から講評会。安田先生、八木先生、金箱さん、の担当で課題は表参道の企業美術館である。既に選ばれた17人が発表。私以外に山口さんがゲスト。途中坂本先生、塚本先生が参加。クリティークだけで6人いるのだから豪華である。レベルはかなり高い。図面も模型もかなり出来ている。ただちょっと企業の美術館という割にはそのソフトの構成がない。そこが問題。終わってから奥山先生に僕の研究室の学生の論文にアドバイスをもらう。建築メディア論の内容の深め方について話を聞く。