コンペにゼミ、午後の製図は締め切り間際なので休講。昨日の赤川氏の『構築主義を再構築する』を読み黄表紙の序の理論を考える。読み終えて再度院生といっしょに考えを整理する。言説分析とは実体分析でないという意味では構築主義的分析である。そしてそれは写真分析も同様である。しかし写真と言説ではその意味内容が明示的であるか否かに大きな差がある。それゆえ構築主義につきものである分析結果の因果関係を社会に潜在する権力に見いだそうとする時、その確証はつかみにくい。いきおい写真分析は表現の差異を明確にするあたりで終わらざるをえない。そしてその分析対象間の差異は当然ではあるが、視覚的な側面にしか見出せない。そして視覚的差異と言うものは言葉の差異に比較して意味の厚みが無い分だけ見づらいものである。ボーっとしていると見出せない。結局写真分析のポイントはその差異を見出す切り口の作り方にかかっているであろうことが言説分析と比較することで明確になったような気がする。
学生と話終え頭はイタリアへ。ボッティチェリの本をぺらぺらめくる。修士1年の夏iaesteの計らいでスイスでバイトをすべくイタリアへ旅立った時のことを思い出す。それは製図の講評会の次の日。講評会の打ち上げで朝まで飲んで家に帰りそのまま数十キロのキスリングを背負い友人の車に乗って成田に行った。飛行機は一路ローマへ。初めての外国ローマでは原付に跳ね飛ばされ散々なめにあい、フィレンツェの先輩の家に行った。1週間くらいそこにお世話になりながら、ただぶらぶらしウフィッツィにさえ行かず毎日ワインを飲んでは街を歩いていたのを思い出す。何でだろう?僕はツーリストではないという妙な自意識があり、生活者の目で都市を体験したいと言うだいそれた考えを持っていた。時間が無尽蔵にあると思っていた頃の若気の至りである。
キャンパス計画の打ち合わせを1時間で中座。学会の打ち合わせ。昼に博士課程への入学希望者から資料が届く。調書をチェックして書類を書いていたら昼食を食べ損ねた。そのまま院生の講義。終了後遅めの昼食をとり教員会議。終わってゼミまで少し時間がある。少し考え事。なんだか今日は気分が晴れない。なぜか考えていたのだが、昨日見た提出されたばかりの3年4年の図面が原因のような気がしてきた。何故なのだかよく分からないのだが、力がアップしっていない。明らかにプレゼンテーション力不足なのである。つまり必要図面を満たしましたというものばかり。「僕の図面を見て欲しい」という熱意を感じるものが余りに少ない。この無個性化は何なんだろうか?みなgenericになりたいのだろうか?何もコールハースに迎合しなくてもいいのに。。一般に、実際に作ることができない学生たちはあり余るエネルギーをもてあまし、それが図面表現にはみ出しほとばしるものなのだが、、、、
そんな憂鬱な気分をつい引きずってしまう。ゼミは明るい気持ちになろうとするのだが、マーク・ポスターの『情報様式論』を読みながら、これだけ多元的な時代、もっと個人のエネルギーが発露してもいいではないか、もっと自由に勝手に自分らしさを出したらいいではないかと思ってしまう。
昨日は松本キャンパス、今日は上田(繊維学部)キャンパスで信大ガイダンスである。宣伝が行き届いていないのか、高校の文化祭が同日にあるからか、上田がやや不便なのか分からないが、昨日より更に来場者は少ない。ちょっと残念である。
昨晩から読み始めた赤川学『構築主義を再構築する』勁草書房2006は予想通り今欲しい知識が並んでいる。因みにこの著者は去年まで信州大学にいたようである。さてこの本は言説分析の可能性を構築主義にからめて語るものである。言説分析は社会学の分野で生き残れるかどうかの瀬戸際だそうだ。しかし著者は自ら言説分析学者としてその正当性を主張する。言説分析に対する素朴な問いは、「言葉はそうだろうが実体はどうなの?」というものだそうだ、しかし実体なるものの存在は疑いないものなのか?むしろ実体というものはその分析手法の数だけ存在しておりアンケート調査、統計調査、等それぞれがそれぞれの実体を露にしているのであり、言説分析もそれ相応の実体を浮き彫りにするはずだと主張している。
さて私も昨年学生とともに建築における言説分析と写真分析を行なった。こうした分析の正当性を社会学の中に見出せないかと思っていた矢先にこの本を見つけた。社会学に疎いわれわれにとって本書はわれわれのナイーブな疑問に多くの示唆を与えてくれる(もちろんこの本の主張に批判的な説もあるのだが)。さてこの本の中で1つとても示唆に富むフーコーの言葉がある。それは言説とは「ひとつの時代において、ひとが(文法の諸規則および論理の諸規則にもとづいて)正しく言うことができることがらと、実際に言われたことがらとの差異によって構成される」というものである。この定義は言説においてそうであると同等に、別の対象にも当てはまらないだろうか?例えば写真である。社会分析においては写真もその実体に直接触れないという意味では言説と類似した対象のように思うからである。写真に即してフーコーの言葉を言いかれれば、「写真空間(言説に対応する写真にあてた便宜的な言葉だが)とは1つの時代において、ひとが(写真機およびフィルムの性能に対応して)撮影可能な写真と実際に撮影された写真との差異によって構成される」ということになる。まあ写真分析においては当たり前のことかもしれないが、こうして言葉にすることでその分析の行く末は多少明快になるように思われる。
7月7日
例年七夕の日は雨ということになっているが空梅雨の今年は曇り。朝一の中央線のあずさに乗り松本に。長野新幹線に乗りなれている僕にとっては中央線の景色はより魅力的。山あいの風景に奥行きがあるからだろうか。車中昨日衝動買いした田中森一の『反転』を読む。なかなか引き込まれる。気がつくと松本。午後から信大ガイダンスなる高校の先生、学生を相手にした大学紹介を行なう。いくつかの高校の文化祭と日時が重なったせいか盛況というほどではない。終了後電車で長野へ。駅前の蕎麦やで夕食をとり家で『反転』の続きを読む。原稿用紙800枚というなかなかの力作だが珍しく一ページ目から最後のページまで飛ばさず読んでしまった。いかにも幻冬社が作りそうなワイドショーネタではあるが、事実の持つ迫力に押された。社会の裏と表は誰かが繋いでおり、そういう繋ぎの黒幕と深く関係を持つのが公安や検察なのである。元公安調査庁長官が詐欺を働くなどという事件の発生理由(その真偽は定かではないが)はまさにここにあるということか。
昨晩は早く切り上げたつもりだが少々アルコールの残った頭に早朝の講義はつらい。言うべきことをだいぶしゃべり損ねた。講義後本郷のキャンパス内にトラフのデザインしたラウンジのインスタレーションを探す。医学部教育棟のエントランスホールに発見。小さいが気の利いたデザインである。その後角窓の家の1年目検査に向かう。途中渋谷で食事をしブックファーストによる。元東京特捜検事、現在弁護士、そして実刑判決を受けた被告人田中森一の『反転』を衝動買い。
検査で半年振りに訪れた角窓の家はとてもきれいに使われていて嬉しかった。また半分地下に埋めていることもありこの暑い日もそこそこ快適である。テラスの上部から豪雨のときに雨が垂れるとのこと。水掛をして調べるとfrp防水の立ち上がりとサッシュの接点に原因がある。以前もここに問題があったのだがfrpの端部は気をつけないといけない。
朝現場、いろいろ問題はあるのだが、こういう工務店も世の中にはあるのだろうと感じる。近代的な図面の支配する仕事の仕方ではなく、もっと義理人情での仕事のやり方である。プロセスはどうあれいいものができればそれでもいい。何が何でも自分のやり方にしなければいけなというわけでもない。
夕刻大成総研の社長と日建の某取締役と食事をする。大成総研の社長とはその昔散々一緒に仕事をさせていただいた。懐かしい。日建の某幹部もその昔飲んだくれた先輩でありその二人との会食は積もる話が様々ある。もう少し飲みたかったが明日は朝一で講義もあるし早々に帰らせていただいた。失礼しましたお休みなさい。
親米の構造を吉見さんは大きく二つの視点から分析して見せた。1つは大正期の浅草オペラ、昭和初期のモダンガールに象徴される日本の都市文化に浸潤してきたアメリカである。そして平成に至って僕らは程度の差こそあれアメリカ文化無しでは生きていけない状況にある。そんなことは無いといっている人ほどアメリカに侵されている自分に気付いていない。そして二つ目は天皇をアメリカの傀儡に据えるというアメリカの対戦中の戦略的分析であり、その成果である。これは全く気にも留めたことが無かったがあの駐日大使ライシャワーが戦時中そうした分析を行なっていた当の本人だったのである。しかし戦勝国が敗戦国の元首を利用するなど誰でも考えそうなことである。問題はその後である。どうしてそう簡単にことが進んだか?まだ読み終わっていないのでその話はまた後日。
コンペ打ち合わせ、ゼミ、午後、製図エスキスの合間を縫って市の景観審議会に出席。終了後大学にとんぼ返り。残りのエスキス。図書館から新建築の復刻版を買いますかという嬉しい提案。是非ともお願いしたいところ。夕食後週末に開かれる高校教員対象のガイダンス資料整理。その後夏休みのスケジュール作成。会議、入試、学会、キャンパス計画、コンペ、設計、現場、上海、イタリア、京都出張。その合間を縫ってやはりゼミもやらないわけには行かないだろうなあ。このまま夏休みで2ヶ月放置しておくと、10月に苦しむのは結局自分だろうし。そうこう悩んでいるうちに気がつくと12時。蒸し暑い。
月初めの月曜日は会議漬。大学教師になって疲れることのベスト1がこの会議、その2は書類漬けである。午後は講義にゼミ。ゼミは皆に発言させたく僕はしゃべらないことにした。しかし皆の発言は理解可能ではあれややピンボケ気味だ。少し議論をリードしなければダメだろうか?食後頭の痛い書類読み。一体全体大学の事務というのはメールが発達したのをいいことに気が遠くなるような分量の書類を様々なファイルで送りつけてくる。パワポ、エクセル、ワードつまりどこかで使われた説明資料がそのまま転送されてくるわけだ。これには本当に参る。結局こちらも見逃してはいけないからとりあえず印刷する。しかし読むべき場所はわずかだったりする。それもとりあえず眼を通してみて分かる。少し整理してから送ってくれてもいいとは思うのだが。これはメール爆弾だね。書類整理後、吉見俊哉『親米と反米』岩波新書2007を読む。何故日本はこれほどまでに親米なのか?前から疑問なこの謎に吉見さんは答えてくれるのか?
7月1日
少し梅雨らしくなってきた。涼しくていいが湿気が多いのはつらい。昨日読み始めた『知性の眼』に美術に見られる大理石という章がある。ルネサンスの時代に大理石がどれほど豪華さを演出する材料であったかが史実をもとに記されている。石は奢侈を表す材料だなんて思っているのは日本人だけだと言ってマイケルグレイブスが日本人をあざ笑ったと言う話を聞いたことがあった。実際仕事をしていると予算はなくとも玄関だけは石でやって欲しいというクライアントは多くグレイブスは正しいなんて思っていたが、なんのなんの大理石が豪華さの記号であると思っているのは日本だけではないということが分かった。夕刻久しぶりにバスで長野に。車中、渡辺裕の『考える耳』春秋社2007を読む。渡辺先生が毎日新聞に連載したコラムをまとめたもの。確かどこかの書評に柄谷行人がこの本を取り上げていた。音楽を社会の中での意味づけにおいて読み解こうと言う連載で興味深い。