Archive

Nov 2007

能天気

On
by 卓 坂牛

11月29日
午前ゼミ、午後ゼミ。ゼミの前夜は徹夜が多いようで居眠りが目につく、今日はコンペの締め切りらしく輪をかけて目を閉じている奴が多い。ゼミ中なのか仮眠中なのかよく分からない。ゼミこそが唯一思考を戦わせる場なのに、そうしないのは自ら向上できるチャンスを放棄しているようなもの。かわいそうに。昔のことを言うのは野暮だが、先生と会話できる時間は、もしあれば(殆ど無かったものだ)徹底して利用したものだ。夕刻大学の委員会に出席。これから委員会の仕事も増えていく。少し憂鬱。夜雑務。9時からのレートショーを見る。

On
by 卓 坂牛

朝のアサマで大学へ。車中クレーリーの『観察者の系譜』を読み、気付かされることが多々ある。例えば色彩に関すること。クレーリーはこの問題に関して、ことのほかゲーテとショーペンハウアーの意義を訴える。その理由は二つあり一つは彼等がニュートンによって形成された色の光学的(客観的)価値を、生理学的(主体的)領野においても価値づけたこと。そしてもう一点はロックやカントによって比較的に2次的な価値として扱われていた色の問題を、大規模に転倒したという事実である。前者は特に驚くほどの内容ではないのだが、後者は少し考えさせられる。もちろんゲーテの色彩論がそれ相応の意義あるものであることは知ってはいたいたものの、カントに対抗するほどのものとは思っていなかったからである。なるほど、近代の美=カントなどと早合点してはいけないのである。やはりモダンは一枚岩ではない。そんな当たり前のことを再認識させられた。
午後大学のキャンパス計画ミーティング。4時間近くかかった。やっと全体像が見えてきた。ほぼ一年くらいかかったのだがあと少し(だといいのだが)。夕食後成実弘至の『20世紀ファッションの文化史』河合出書房2007を読む。第一章がチャールズ・フレデリック・ワースの話である。彼の意義はオートクチュールを確立したこと。それまで洋服は富裕層が先ず生地をを買いそれをドレスメーカーに持ち込みデザインの注文をして作らせていた。そこではデザインのイニシアティブは発注者側あった。一方ワースは、自らのデザインをモデルに着せてアトリエに並ばせた。発注者には洋服の制作技術に加えてそのデザインを売ったのである。ここでは受注者側にデザインのイニシアティブがある。これがオートクチュールの確立であり技術に加え創造を商品としたのである。建築も常にこうありたい、、、、、

80年代のアメリカは僕の原点でもあるのかな?

On
by 卓 坂牛

フーフー。朝一で伊藤君のオープンハウスに顔を出し、事務所に戻り午後の茶室打ち合わせのアクソメを描く。久しぶりにクライアントに見せる絵を描いた。マーカーで色付けし、できてすぐに出かける。打ち合わせが終り、イケアに行きたく豊洲にあると信じて行ったのだが無かった。しょげて帰ろうとも思ったが新たに出現した「ららぽーと」を覗く。ここはまさにアメリカである。ロサンゼルスを髣髴とさせる。そしてこの巨大ショッピングモールに人がいない。この不気味さ。事務所に戻る。10+1の校正やら、中国の追加インタビューやら届いている。本が手元にないので帰宅後校正の続き。深夜やっと終了。丸善から届いている本の宅急便を開ける。『Tokyo Nobody』や『東京窓景』で有名な中野正貴の原点といわれる『My Lost America』(写真集)をめくる。新聞書評でこの写真集は中野の若き日(80年代)の写真であり、あとがきで中野はこの写真集の写真を撮った80年代に比べ現代のニューヨークで写真をとる気にはなれないと語っていることが紹介されていた。僕はこの手のノスタルジックな言葉を信じないことにしてており、信じない自分を確かめるべくこの写真集を眺めているのだが、そんな自分の姿勢とは裏腹に80年代のアメリカ、つまり僕も過ごした80年代のアメリカにすっかり感情移入してイカレテいた。なんたることだ。

紋切り型

On
by 卓 坂牛

13年間朝日新聞の天声人語を執筆していた辰濃和夫の『文章のみがき方』という岩波新書が毎日新聞の書評に載っていた。書評は読まなかったが本は早速買って読んだ。その中に自分の気に入った文章を書き抜くという教えがあった。著者は鶴見俊輔のこんな言葉を引用している。「(私は)毎日、文章を書いて暮らしを立てているわけですが、なにか、泥沼のなかで殴りあいをしているという感じです。紋切り型の言葉と格闘してしばしば負け、あるときには組み伏せることができ、あるときには逃げる、・・・・」辰濃はこう続ける「紋切り型の言葉を使わないということは紋切り型の発想を戒める、ということでもありこれはいい文章を書くための基本中の基本だといっていでしょう」。この部分を読みながら「文章のみがき方」は、「建築のみがき方」かもしれないなと感じた。つまり建築も紋切り型との格闘だということなのだ。定石どおりの表現は人に何かを伝える力が弱い。だからよい建築をつくるためには(自分も含めてなのだが)紋切り型の建築言語を使わないということが必須なのである。そしてそのためにはよい文章を書き抜くように、よい建築を描くか写すかとにかく記憶に納めなければならないと改めて感じたのである。しかし建築と文章は同じではない、文章は生まれたときからそれを身近に感じて身につけていくものであり、紋切り型が何かは自然と染み付くものである。一方建築は先ずはこの紋切り型が何かを知るところから始め、そしてそれを使わずに作る努力が必要なのである。えてしてこの紋切り型ができたところで一人前だと錯覚するものである。もちろん紋切り型さえできないことにくらべれば未だましのだが。

模様替え

On
by 卓 坂牛

引越した義姉にアルフレックススの椅子とテーブルとチェエストをあげたので寝室が広くなった。そこで寝室の模様替えを決行。ベッドを移動し、掃除機をかけ、額だの軸だの箱に入っている作品を移動し、チェストの中に入っていた昔のsdを梱包して研究室に宅急便した。結構重いものである。寝室の半分がオープンになった。ここをかみさんの制作場にしよう(納得するだろうか?)。作業が終わるころ親父から電話。オフクロとも話す。まずまず元気そうである。大晦日、元旦と恒例になってきた焼き鳥、ふぐを食べに行くことを約す。午後はアレキサンダー・ツォニスが35歳の時に書いた『建築の知の構造』彰国社1980を読んだ。建築史を合理化前後に大別し、さらに合理化という概念を構造的効率を基準とするものと、機能的効率のそれに分類している。この視点は見事である。さらっと読んでからジョナサン・クレーリー、遠藤知巳訳『観察者の系譜』以文社2005を読み始める。内容は透視図法、カメラオブスキュラ、そして写真機の順に視覚的発明がされていくのだが、後者二つの間には視覚の断絶があるというものらしい。それだけ聞くと簡単な事なのだが、そこに行く経路がなかなか見えてこない。新幹線の中で続きを読もう。外は少し寒そうだが、ぶらぶら行くか。丸善で少し本を眺め、新しくできた大丸を覗いて行こう。

いい天気

On
by 卓 坂牛

いい天気である。朝一で上野にムンクを見に行く。http://ofda.jp/column/上野は天気がいいせいで人である。開館時間に西洋美術館に滑り込んだがすいすいとは見られない。帰宅して昼食をとり午後一にナカジと事務所で打ち合わせ。10畳くらいのビルの内装だがそれなりに難しい。その後新宿で買い物。今日もかみさんは引越しの手伝いなので、夕食は娘と二人。食後は読書。

持続性

On
by 卓 坂牛

午前中先日竣工した住宅の引渡し。午後勉強会。今日は井上君と二人で静かに行なう。二人でやるのは実に静かで快適であることが分かった。集中できるから進捗も良いし、気が散らないから疲れもたまらない。夕刻帰宅。かみさんが姉の引越しの手伝いに行ったので夜は娘と二人で夕食をとる。食後、以前読んでいた『視覚と近代』の中の尾崎信一郎の「視覚性の政治学ーモダニズム美術の視覚をめぐって」を読んだ。モダニズムの特質である視覚性は触覚性との対比において対象との距離を保つことで一望性があり、それゆえに瞬間的な知覚であることが特徴であるという。そしてマイケル・フリードはポロックを視覚的であるという言うが尾崎はそれに反論し、ポロックの特色は一望性よりも細部へ視線を引き込み、そして瞬間的な把握を拒む物だと言う。この時間性がクラウスによってビートとかパルスという概念に発展されているのだが、この見るのに時間がかかる=持続性という考え方は改めて面白いと感じた。引き込んで離さないというものの魅力は確かにあると思われる。それは建築で言えば単に表面の複雑性ではなく奥行きなのだと思う。

いい夫婦

On
by 卓 坂牛

大学の行事を終え、会議・会議も終え、雪の散らつく街を自転車で疾走し2分差で電車を逃す。次の電車は20分後。駅のカレーを食べて電車に乗り込みスコットの本を読む。途中うとうとしながら東京。事務所に着いたら先日撮影いただいた上田さんの写真のポジが届いていた。ありがたい。今回はデジカメでも撮ってもらいdvdもある。ファイルがかなり重く事務所のコンピューターでも一枚一枚の開きが遅い。プリントアウトするのを選びスタッフに指示。ドイツからまたインターンのアプリケーションが届いている。今度は半年。うーんどうしようか?ポートフォリオがいま一つ。今日はいい夫婦の結婚記念日なので荒木町の花屋(この花屋はお店のママに花をプレゼントするたのもの?飲み屋街の入り口にあり夜遅くまでやっている)で切花を買い帰宅。アマゾンから洋書が二冊届いている。function of the ornamentとdigital tectonics。前者は装飾とファサードエンジニアリングの関係を巧みなドローイングで説明している。日本の建物がたくさん載っている。後者は様々な論客を集めてコンピュータナイズされた形状の意味を論じている。ちょっと読むのは大変そうであるが面白そうなものだけつまみ食いしよう。

蒸気噴出

On
by 卓 坂牛

朝研究室の扉を開けると不吉な雨だれの音。ここは最上階ではないし、雨は降っていないから雨水ではないのだが天井から水が垂れている。ファックスはビショビショ、そばのパソコンにも跳ねている。去年も同じことが起こったのだが、またか。施設課に電話。「蒸気配管から漏ってますよ」雑巾を機械にかぶせ物の移動。いろいろとやることが山ほどある日に限ってこういうことがおこる。マーフィーの法則にこう言うのがある。”Anything that can go wrong will go wrong.”悪くなる可能性のあることは悪くなる。もう全くその通り。もうおんぼろ校舎の老朽化事故には腹は立てない。と理性では分かっているのだが、そういうときに限ってまた面倒臭いメールが舞い込む。またマーフィーだ。ああ午後からゼミだと言うのに。大学を駆け回り手短に打ち合わせして。息せき切ってゼミ。ゼミの途中に明日の行事の段取りなどして、そしてまた次のゼミ。そしてやっと蒸気が止まったので配管取替え本格工事。こんな時間に修理している人も可哀想に思えてくる。まあ事故のおかげで部屋の掃除ができたとありがたく思おう。

本の整理

On
by 卓 坂牛

朝早く起き、書斎の本の整理。本は溢れる。何かを捨てねばもう入らない。大学に送ることもある。しかし、原則重要な本は身の回りにおいておきたい。ばらばらにしておくとどこに何があったか分からなくなってしまう。そうなると後は捨てるか売るかである。整理を重ねて二つの全集に目をつける現代美術の18巻の全集と開口健の全集。前者は写真はいいのだが装丁がプア。後者はその昔早稲田の古本屋で見つけたもの。12巻くらいあるだろうかサイズがA5くらいのかわいいものである。半分くらい読んだろうか?残りは興味が減って読まなくなっていた。さあ売りに出すぞと思っていたらかみさんが「私が欲しい」と言う。それなら自分の本棚に入れてくれと頼む。すると自分の本棚の古い雑誌を捨てにかかった。これ幸いとそこに移動。そのおかげでトコロテン式に書斎の床と机の上に山となっていた本がやっと片付いた。しかしこんなことをしていてもいつかはどうにもならなくなるのは目に見えている。ああ憂鬱だ。