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Nov 2007

均斉のルール

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by 卓 坂牛

今年に入ってからかみさんが書道の創作を再開した。子供が生まれてから最近までは教えることだけに専念していたのだが子供も成長し、時間にゆとりができたことも手伝い展覧会に向けての創作活動を始めたわけである。それ以来我が家の居間は創作場となり床には大きな黒い毛氈が敷かれ、テラスに面した大きなガラスには横40センチ高さ2メートルくらいの紙が5~6枚常にぶら下がっている。そこに大字が4文字から5文字書かれている。4文字か5文字かというのは素人が見ていると大した差を感じないのだが玄人に言わせるとぜんぜん違うものなのだそうだ。5文字を「作品」にするのには余程の力量が必要だと言う。「へー」と思う。その理由は皆目見当がつかない。紙の大きさに対する字のバランスの安定感みたいなことなのだろうか。はたまた墨の持ちみたいなことなのだろうか??
8本建つべきギリシア神殿の列柱が同じ平面形と立面のままで6本にすることは古典主義のルールとしては多分ありえない。厳密な比例で作られているはずであるから。しかし例えばパリのパンテオンなどを見ると柱は6本で柱間はいように長い。でも名建築と言われる全体感を持っている(と言われている)。ここではルール自体が変わって新たな正しさが生まれているのである。つまり書道だってこの紙に5文字書くという新たなルールが作られればそれは美しさや均整の問題ではなく新たな正しさが生まれるということなのではなかろうか、、、墨の匂いの充満する我が家で夜な夜な書を見ながら建築を思うこの頃である。

よく考える

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by 卓 坂牛

一日事務所から出ずに、原稿修正したり、中国の話したり、茶室の話したり、少し形をいじくることから離れていたのだが、また頭がそのモードに戻ってきた。形も文字も同じだな。一生懸命考えないといいものは出てこないし、諦めるとそれだけのことで終わってしまう。

視覚

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by 卓 坂牛

なるほどアルパースという人はジョナサン・クレーリーと並んで視覚の発掘者なのだそうだ。それまでの近代的視覚の定説はマクルーハンの活字文化論でありパノフスキーの遠近法、そしてマンフォードのバロック都市、西洋近代哲学の本質を「見ることに」に見るローティーなどである。そうだよなあ、マーティンジェイがあげた近代の3つの視覚が遠近法とバロックとオランダ17世紀美術の視覚と書いているのを読んだときはちょっとビックリした。この初めて登場してくるオランダ美術が驚きだった。このオランダ美術的視覚を発掘したのがアルパースだったのである。丸善から届いた『視覚と近代』大林信治・山中浩二著、名古屋大学出版会2000を読むとこのあたりの視覚の系譜が丁寧に説明されている。そもそも考えてみれば僕の20年以上前の卒論は遠近法とアクソメがテーマでありその意味で視覚だったのである。最近まで視覚なんてこの二つだと思っていたが浅はかである。しかし再びこのテーマに再会したのはなんとも嬉しい。少し掘り下げてみたいところである。

手探り

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by 卓 坂牛

東京駅に大丸がオープンした。オープン初日で大混雑のようである。地下街も新しくなったとのこと。連続する八重洲地下街も相乗効果だろうか?大丸が入るタワーともう一本タワーができたようだ。どちらも多分に日建が設計したようである。透明感の高いガラス張りだが少々マンネリ化しているような気がする。本屋により視覚関係の本を三冊と昨日話題になった権力の住宅史を探るため日本住宅史それから新時代のマーケティングの本を購入宅配に頼む。丸善は1万以上で宅配ただにしてくれるので楽である。事務所に戻り作品シートのチェックをした後中国工場の開口部のエスキスをチェックうする。模型も100分の1ナカジも中国の施工力に疑心暗鬼で恐る恐るのデザインになってきているので当初のデザインに引き戻すべく二人でエレベーションを修正。とにかくこのプランとエレベを修正して今日中に中国に送らなければならない。イヤ本当に手探りである。

新しいゼミ

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by 卓 坂牛

11月7日
新しいゼミ「建築の条件」を今日から始めた。これは建築の社会構築的側面を浮き彫りにしようというこころみである。8つのテーマを決めて7人の修士一年生が一つのテーマを毎回パワポにまとめて発表するというものである。8つのテーマとは1)男性的(◎)であること⇔女性性 2) 永遠的(◎)であること⇔消費性(エロチシズム・セクシュアリティ) 3)写真的(◎)であること(フォトジェニック) ⇔体感性 4)階級的(◎)であること(格差の表現) ⇔匿名性 5)グローバル(◎)であること(世界標準) ⇔地域性 6)主体的(美的)(◎)であること(商品化建築家)⇔他者依存性 7)道徳的(◎)であること(正しいことの強さ)⇔悪党性 8)アート的であること(建築の可能性) ⇔初源性 なる8つである。今日の発表を聞いていると、テーマを対義語でまとめる「建築の規則」方式なのだが、どうも対義語になっていないものが多い。例えば今日やった階級的であることの反対が匿名性というのは確かにおかしい、、、ゼミ終了後皆で食事。

ラスムッセン

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by 卓 坂牛

11月4日
午前中でとりあえず作業中のパワポが完成したので東現美に散歩。space for your futur展を覗く。石上純也の作品はなんとも言えず良かった。大きいものに弱いなあ。帰宅してゆっくり風呂につかりながら読み残していた有吉さんのフェルメールを読みきり、さて出勤。車中明日のゼミにと思いラスムッセンの『経験としての建築』美術出版社1966という古い本を読む。この本は原書の初版は1957年。僕が生まれる前である。建築を形態や様式で分析するのではなく、現象的に捉えようとしたものとしては、一連のノベルグ=シュルツのものが有名だが、多分それに先行するのではないだろうか。ラスムッセンはあのウッツォンの先生であり、ラスムッセンにしてウッツォンありということがよくわかる(確かこの本もテクトニックカルチャーでフランプトンがウッツォンの実存的側面を評価していたことに関連して参考文献としてのっていたから購入した記憶がある)。

秋晴れ

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by 卓 坂牛

秋晴れである。週末の講演会の材料集め。古い話だが横断道路の換気塔のことを少し話そうと思いエスキースでたくさんつくった粘土の模型写真を探したが見つからない。あるとき日建時代の資料やら写真やら思い切ってたくさん捨ててしまった。しかしああいうものはキチンと保存しておかなければいけないとつくづく思う。天気も良いので作業は一時中断。娘の学校の文化祭を見に行く。学校は早稲田大学文学部の隣近所。今日は早稲田も文化祭なのでこのあたりはとてもにぎやかである。娘のブロックフレーテの合奏を聴き帰宅。夜また講演会の材料集め。捨てたと思っていた写真をスライドで発見。フィルムスキャンを10枚ほどする。パワポが約30枚。こんなものだろう。だが内容がまだスムーズではない。タイトルは「建築における技術と美の統合」相手は機械の専門家。「住宅は住むための機械である」から話を始めようかなあ??

アサマ通勤

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by 卓 坂牛

2コマめの講義にあわせてアサマに飛び乗る。車中山本学治の『現代建築と技術』を読んだ。この本よく見れば初版が昭和38年である。その中で彼は建築家の仕事は機能的特性と技術的特性そして視覚的特性を結びつける一貫性こそ建築的統一であると述べている。やはりここでもウィトルウィウス以来の用・強・美ということである。しかしこう言う総合的視点の持ち主は現代のアカデミックな世界の中にはいないなあと改めてこの人の偉大さを思う。午前中の講義を終えて午後は製図。住宅設計は3回目のエスキス。終わったら7時ころになってしまった。1時間も延長。ぶらぶら駅に。運良く7時半の電車があった。駅弁を食べながら読みかけだった中島純一の『流行の心理』金子書房2003を読む。その中にアメリカの社会学者ボガーダスの流行分類表がのっていた。そこには建築も対象として取り上げられていたのがビックリである。

十和田市美術館

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by 卓 坂牛

十和田市美術館のオープニングパンフレットが郵送されてきた。と言っても開館は来年の4月26日。だいぶ先である。十和田市は母の実家のあるところ。とても鄙びた田舎である。こんなかっこいい美術館ができても人は行くのだろうか????しかし少なからず嬉しい。親戚もたくさんいるしどんな感想を持つのか聞いてみたいところである。

古谷さん優勝

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by 卓 坂牛

現場から事務所。打ち合わせの後原稿書いていたら夜である。ふと小布施町のホームページを見たら古谷さんがコンペに当選したことが速報されていた。そうだったかあ。
昨日の長野市の建築家の方の言葉を思い出す。松本へ行く道すがらキャンパス計画を手伝ってくれている彼女は「私は古谷さんがいいなあ」と言っていたのである。どうしてと聞くと、「伊東さんのは小布施とは何の関係もないし伊東ワールドができるだけ」というのである。古谷さんのだってそれほど小布施ぽいわけではないでしょう?と聞くと「今の形は確かにそうだけど町民と一緒に作っていこうと言う意識が感じられる」と言うのである。うーん。
これからのコンペはエゴがまかり通ることはないということであろうか。審査員の一人に町民代表がいたそうだが、そういう方の発言力が更に増すのであろうか?建築家はある意味でトランスレーターであろうと思っているがそれにも限度がある。少なくとも生きたトランスレーターである。電子辞書のようにならないように気をつけなければ。