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Dec 2007

ニューヨーク便り

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by 卓 坂牛

FM放送のどっかの局のサムライUSAとか言う番組で塩谷陽子がニューヨークのアートシーンを語っていた。彼女の話では日本の伝統芸術を含めた様々なアートがNYで加工されて彼の地のアーティストによって演奏されたり、演じられたりするのがとてもクールだとか。それを彼女は料理の比喩で語っていた。「例えば茶碗蒸しがアメリカで美味しいと皆に賞賛されたとする。そこで誰かがその椀に入っていた椎茸の香りが茶碗蒸しのエッセンスだと見抜き、その椎茸を使った新たな料理を生み出す。そしてそこに茶碗蒸しの仄かな香りが漂っていたなら、それは日本の伝統の新たな継承であり展開であり文化のあり方としてとても素敵ではないだろうか?」と言うのである。そして今NYで起こっている日本の香りのするアートシーンはそんなことだと言う。そして彼女は自分がディレクターを勤めるジャパンソサエティでそうしたアーティストのパフオーマンスを企画運営しているそうだ。
なかなか素的な話である。と言うことを彼女にメールしたらものの3分で返事が返ってきた。ニューヨークは深夜かと思っていたら9時だった。明日は日本に来るとのこと。日本にいる間に会えるかな??

笛の音

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by 卓 坂牛

さっきから部屋の外から聞こえるリコーダーの音。メトロノームのリズムに合わせ練習曲の旋律が聞こえる。途中で手が回らないのか、呼吸が続かないのか止まったり、リズムが狂う。そのうち「ブー」とヤケ気味な音が響く。また気を取り直したのかタカタカタカタカと刻んだ音が聞こえるが、スピードを上げるとつっかえるようだ。たまに吹いているそばを通ると、「どうしたら吹けるの?」と聞かれるので「3倍の速度から初めて、メトロノームのスピードを少しずつ上げたら」と言う。昔そんな風に早い曲を練習した記憶があるからなのだが。
こちらは「建築の条件」を厚みのあるものにするために関連本のスキャニングである。先ずは最近読んだ本を忘れないように、「視覚」関連の本ファッション関連のものについてスキャニング。重要だと思っていた部分を思い出すのは時間がかかる。アンダーラインしていると、今度は見つけるのは簡単だが、スキャニングしてocrが上手くいかない。これからはアンダーラインではなく、文頭に○をつけるようにしよう。

整理2

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by 卓 坂牛

いつも12月になると、自分の見の回りの整理をする。別に人に自慢できるようなことでもなく、大掃除の一環である。ただそれは単純な掃除でもなく、昨日読んだ佐藤可士和のように身の回りの物の整理に加え、頭を整理して情報の整理を行なうということでもある。それは来年はどのようなことをテーマに情報を収集し(本を読み)それをどの程度行い、どのように蓄積しようかと考えることでもある。
あまり厳密で堅苦しいことではないのだが、家、大学、事務所の本棚を整理して捨てる本、買う本を考える。ノートやカードを買ったり、コンピューターの整理をしたり、どのように情報収集するか、どのくらいのペースでまとめるかを考える。今年は机の上にある性能の悪いスキャナーを買い換えることにした。スキャナーは情報収集の重要なツールなのだが、今持っているものは立ち上がりが異様に遅いのである。ヨドバシで新しいスキャナーとプリンターとオールインワンの機種を買った。2万円である。本をスキャンしてテキストファイルにするには2番目の機種の方が素早い。しかし2番目とはいえスキャンもプリンターもついて2万円とは実に安い。大量に売るつもりの製品は値段が下がるということだろうが。更に本棚を少し拡張するためにハンズでシナベニヤを切ってもらう。

整理術

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by 卓 坂牛

佐藤可士和の『佐藤可士和の超整理術』を読んでみた。どうも広告代理店出身の人の言葉は上滑りしているようで苦手なのだが、彼の言っていることはとても基礎的である。彼はいい仕事をするには整理が必要で、それは空間整理、情報整理、思考の整理の3つだという。空間整理の基本は身の回りの整理。ものを捨てろ、鞄を持つな、机の上に物を置くな。と徹底している。情報整理は、1状況把握、2視点導入、3課題設定という3つが基本だそうだ。どれも企画をやるときの常道と思われる。企画に近道なしということだろうか。彼のヒット作は着実にこのプロセスの上で行なわれている。国立新美術館のロゴコンペで「新」をロゴにしたのもこのプロセスを丹念に繰り返した末のようである。あの美術館には10回以上行っていると思うが、「新」のロゴは網膜に焼き付いている。

ファッションと建築

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by 卓 坂牛

12月7日
後期後半課題で敷地見学。僕の設計した長野県信用組合のはす向かいの敷地。県信の西沢さんにはあらかじめ60名くらいの学生が周囲をうろうろしますからと電話をしておいたら顔を出された。立ち話をしていたら当時の理事長(現在相談役)が偶然降りてこられた。長野に来てから最初にご挨拶せねばならない人だったにもかかわらずできなかったので赤面である。建物が10年たっても新品同様で今年の景観大賞部門賞を受賞したことを喜んでいらっしゃった。ほっとする。建物内のカフェで西沢さんとコーヒーを飲む。床はぴかぴか屋上庭園の植栽はきれいに剪定されており嬉しい限り。不具合は電動の可動部に多く発生しているとのこと。ブラインドやら排煙窓やら。竣工後のこうしたご指摘は貴重な情報である。
敷地見学が終り東京へ。車中、成実弘至の『20世紀のファッション文化史』をやっと読み終えた。19世のオートクチュール創始者ワース、10年代の優雅なポワレ、戦前を制したモダニストシャネル、30年代のアーティストスキャパレッリ、戦後アメリカの大衆消費社会に並走したマッカーデル、戦後のニュールックディオール、60年代若者の代弁者マリークワント、70年代のパンク、ビビアンウエストウッド、80年代の脱構築コムデギャルソン、そして90年代のグローバルブランド時代、それに対抗するマルタン・マルジェラ。この各年代ごとの特性にはそのまま建築家をあてはめることができるような気がした。ワースには世紀末の誰か、ワースにはアールヌーボーの誰か、シャネルにはコルビュジエ、スキャパレッリには未来派の誰か、マッカーデルにはイームズ、ディオールにはサーリネン、マリークワントにはアーキグラム、ウエストウッドには?、コムデギャルソンにはりべスキンドあたりか?、グローバルブランドは日建?som?,そしてマルジェラは青木淳あたりか?
この本自体かなり建築とファッションの相関関係を意識しているが、同じ表現の潮流として両者に関係がないわけがない。
7時新宿。仕事でロンドンから出張してきた友人を囲んでちゃんこを食べる。ヨーロッパではご多分に漏れず、東京のミシュラン指定のレストラン数が話題だとか。山本益博の息のかかったところが指定されているというのが某広告代理店の中での評判だそうだ。ロンドンのテレビには毎度彼が登場していたそうである。

中国でアート

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by 卓 坂牛

ofdaの仕事にアートの側面から深くかかわったり、僕のシンポジウムの企画をしてくれたり、翻訳を一緒にやったりして、多分一生いろいろなことを一緒にやっていくだろう、若い僕の教え子から電話があった。いろいろな話をしていたのだが、話題の一つは中国のリーテム工場ができたときにそこでなんらかのアートイベントをしようというものだった。これは面白い。中国で人が呼べるものなら痛快だ。しかもあんな田舎に。更に彼の考えは、そのイベントに世界的ミュージシャンのSを呼び、全体を、かの有名なA社のレーベルからdvd+cdで出そうというものである。
彼の発想はその辺の出版社や広告代理店が考えそうな表層的な話題づくりではない、いつもとてもシリアスなのである。そんな訳でそのあたりのイベントのコンセプトとここ2~3年のミュージックシーンの変化をディスカスすることにした。楽しみである。
一昨日から一人試用のスタッフに手伝ってもらっている。今までの彼女が担当した現場では工務店が施工図を一枚も描かなかったそうで全て自分で描いてきたと言うことである。それは彼女のスケッチを一目見て分かった。ディテールの手描きスケッチがかなり早い。先ずは一安心である。ナカジの下で中国プロジェクトがこれで上手く進みアートイベントの背景として素敵な仕事になると嬉しい。来年はいい年になりますように。

試験勉強

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by 卓 坂牛

娘の期末試験に巻き込まれ中学の理科を深夜付き合って勉強するのだが、この年になって中学の理科というのは結構ためになる。特に今晩付き合ったテーマ;飽和水蒸気量と露点などは建築設備の基礎知識:結露の勉強になるものだ。日常の普通の科学、つまり新聞に載る程度の科学知識が理系の僕でも覚束なくなることがよくあるものである。そういうあたりをもう一度思い出すのに中学生の勉強はとてもよい。英語だって、数学だって、この頃の勉強は思い出しておくと日常的に役に立つ。世の中はやはりこの義務教育までの知識で分かるようにできているし、逆にこの知識がないと分からないことが結構ある。高校になると正直言ってかなり専門的だし、そんな知識は不要である。
ちょっと眠いがそんなわけで娘の勉強に付き合うのはちょっと楽しい。

大衆との共振

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by 卓 坂牛

電車の中で成実弘至のファッション文化史を読んでいて妙に腑に落ちることがあった。それはアメリカンカジュアルの創始者クレア・マッカーデルの部分を読みながらであった。マッカーデルはシャネル同様古典的な服飾を革命的に瓦解したと言われている。しかし二人には大きな差異があり、それは前者が上流階級を相手にし、後者は限りなく一般大衆の身体に結びついていた点である。そこを読みながら、僕は先日買った中野正貴の写真集、My Lost Americaを眺めていた時の気分を反芻していた。80年代のアメリカに感情移入しイカレタその気分をである。イカレタ理由は80年代自分がアメリカにいたからだろうとその時は思ったのだが、今日成実の本を読みながら理由は別だなと感じた。
少し恥かしい話だが、これはどうも僕の生い立ちの中で培われた精神性の中に原因があるように思われた。並みの家庭で育った僕は経済的には中流だが、60年代の日本の平均からすると文化的にはかなりレベルの高い親に育てられ、ある種の情操教育を受けていた。しかし一方でピュアなマルキストな父親の影響があったからだと思うが、根底に体制を嫌悪し権威をあざ笑う精神性が子供のうちから染みついてしまった。情操教育と権威批判は必ずしも矛盾するモノではないのだが、だからと言って相性の良いものではない。そもそも文化的情操教育なるものは権威のお墨付きを得てこそ達成されるものだから。
そんな矛盾が結局、自らの進む道を純粋な芸術から遠ざけ、建築などに向かわせたのかもしれない。そして、こうした精神性は高貴なハイカルチャーを志向すると同時に、そこに胡散臭さを見てしまう自分を生み出した。例えばヨーロッパの建築や文化の研ぎ澄まされた感覚を称揚しつつその中に虚構を見、アメリカの弛緩した空気に安堵を覚える自分を作り出したように思われるのである。マッカーデルの志向はそうした僕の」安堵」を思い出させた。つまりMy Lost Americaを見ながらイカレタ僕の気持ちとは「一般大衆の身体」が持つ精神性への本能的な共振だったと納得されたのである。

contemporary theory

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by 卓 坂牛

今日中に帰ろうと思ったのだが、余りに雑用が多く諦めた。雑用を終えて、一昨日届いたCharles Jencks and Karl Kropf 編 Theories and Manifestoes of Comtemporary Architecture second edition Wiley-Academy 2006 の目次に目を通した。1950年代からの主要な建築理論とマニフェストの要約が並んでいる。この中に日本の建築家が四名入っている。黒川、磯崎、槇、安藤。彼等が国際的なのは、やはり彼等の作り方が国際標準に照準を合わせているからなのであろう。世界を相手に作るのか、日本を相手に作るのか、日本のある場所を相手に作るのか?作り方の照準を定めるのは重要なことである。ところでこの本は第二版であるが一版に加えられた理論の著者はCecil Balmont, Foreign Office Architects, Daniel Libeskind, MVRDV, Lars Spuybroekhttp://nl.wikipedia.org/wiki/Lars_Spuybroek, UN Studio, West8だそうだ。どうもジェンクス色が濃い。複雑系に偏っている。例えばこの中にはミニマル系は全く取り上げられていない。

シンポジウム

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by 卓 坂牛

12月2日
京都造形芸術大学と東北芸術工科大学の合同展覧会とシンポジウムが、横浜のBank Artで行なわれ、そのシンポジウムに呼ばれて顔を出した。京都からは中村勇大さん高崎正治さん、東北からは竹内昌義さん元倉真琴さんが来られ、両校の3年生が20名くらいずつ3年の課題を持って集まっていた。両校は姉妹校ということで数年前からワークショップなどを開いているそうで、課題を集めて展覧会にしたのは今年が最初だそうである。遠いところから集まってこういうことをするのは大変だろうが、なかなか意味の濃いことのように感じた。特に僕のいる信大などは、井の中の蛙で大海を知らない。その意味で、卒業設計などではなく3年くらいのうちにこうした他大学との交流を持つことが望ましく、両校の交流を羨ましく拝見した。シンポジウムの後学生を交え中華を食しながら語らった。中村さんとは10年以上前にお会いして以来で懐かしかった。高崎さんとは初めてお会いしたが、あんな建築を作っているので怪物みたいな人かと想像していたがとても気さくな優しい方で建築家というよりか芸術家という風格の人であった。宴たけなわというところで僕は最終で長野に行くべくおいとました。なかなか楽しい日曜の午後であった。