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by 卓 坂牛
9時から会議、10時半から会議、11時から会議、その後メールチェックして学食で昼をとり長野駅へ。特急しなので松本へ。そこで本部施設課の課長や理事のf先生たちと合流し車で伊那の農学部へ。農学部の先生へのcmp説明会。農学部は来るたびに思うが本当に美しいキャンパスである。癒される。急遽決まった説明会なのに大勢の先生方が集まられた。せっかく遠くまで来たし多くの方に聞いて欲しいと思う反面。大反論に巻き込まれたらどうしようかと心配だったが、質疑も好意的なものが多くほっとした。1時間ほどの説明会を終え、車で松本まで戻り夕刻のアズサに飛び乗り新宿へ。事務所から送られてくる様々なメールを見ながら、憂鬱になったり、喜んだり。未だに終わらぬコラージュ論を読み続ける。今日はエルズワース・ケリーのコラージュである。ケリーの転写の概念はユニークである。それは三次元的な現実を扱わず、視覚の中で2次元で現れるもののみを対象として写し取るという手法である。ルネサンス以来の絵画は3次元を2次元に変換することに様々な工夫を凝らしてきたわけだが、そうした変換を必要としない対象の選び方にケリーの発送の転換を感じた。
夜事務所に戻り、打合せ。信大の二人は黙々と模型を作っている。だいぶ形が見えてきた。頑張れ。
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by 卓 坂牛
2月17日
早朝、皆起きてくるまでその辺に転がっている洋書を飛ばし読み。遅めの朝食。そろそろ本気で早稲田で行なう講義のパワポ作りを始めないと間に合わない。下地は後期ゼミで学生といっしょに作ったもの。先ずはこの作業に何日費やせるか確認。多くて正味12日。厳しいなあ。一つを完成させるのに1.5日というところ。今日は階級論をやろう。しかし考え始めて買っていたつもりのウェンブレンの本が無いことに気付く。アマゾンに注文。目次を作り変えてとにかくシンプルで無理の無い論理構成へ変更していく。結論のあたりがやはり難しい。学生の結論はひねりをきかそうと苦労しているのだが意味不明。かといって気の利いたオチが作れるかと言うとそう簡単にはいかない。結論は後回し。最終のアサマにのる。車中再びコラージュ論。今日はジャン・アルプのコラージュ。ダダイストアルプのコラージュは「偶然の法則」で有名。著者の分類では分析的コラージュと呼ばれるもので、自分の作品を切断して再度継ぎ合わせるものである。クレーの場合は直線で切断(鋏で切断)していたが、アルプは手でちぎってそれを床にばら撒くという手法を多用したようだ。また曲線が集積したような版画を切断していくつかのつぎはぎを作っている。そこに完成した作品はあたかも最初からそうであるかのような偶然の驚きがなく、むしろ計画的な美が感じられる。
クレーやアルプの作品をみていると、建築においてもこうした分析的コラージュの手法が有効に思えてくる。今度どこかで試してみたいものである。
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by 卓 坂牛
高校時代の同級生メイリングリストがある。時たま風の便りが届く。年に一度くらいは飲み会をやっているのだからあえてメールというほどでもないのだろうが、まあ仲がいいということだろう。数日前、そんな風の便りで同級の女性が子育ても終わらぬうちから母校の地学の先生になったというめでたい話が届いた。それに皆がお祝いの言葉を送る。そして近況をひとこと加える。その中で、筑波で物理の教授をしている青木慎也の近況は画期的だった。 彼が昨年発表したParticle physicsにおける論文 Hard-core calculationsがNature誌の選ぶ自然科学分野における2007年のハイライト研究21件の一つに選ばれたとのこと。日本から選ばれたのは2件で、もう1件は今をときめく京大の山中教授の(分子生物学)のiPS細胞だそうだ。いやはやたいしたものである。先日運動部仲間と会った時、少なくとも同学年に一人、下級生に一人ノーベル賞候補がいると話題になった。それにも唖然としたが、青木もこれなら相当いい線いくのではかなろうか?頭のいい奴というのはいるものだ、青木は高校時代、授業中に異様な集中力を発揮し、授業だけでテストは殆ど満点をとるような奴だった。後はパチンコ・マージャン。「勉強はしないでできるのが粋」とする母校の校風を地で行く男だった。そういう天才に比べると、自分はとても普通の人である。
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by 卓 坂牛
朝一でクライアント打ち合わせ。御茶ノ水に行く途中、大学から電話。打ち合わせの途中、大学から電話。打ち合わせ終り、大学から電話。追っかけられ続け。来週。月曜日○○学部におけるCMPの説明依頼。同じ日に他学部で説明の依頼、一方は断る。水曜日○○学部における説明の依頼。金曜日午後○○学部における説明の依頼。もうだれかやって——。僕一人で作ったわけではないのに、説明するのはいつも僕では体がいくつあっても足りない。これからどうなってしまうのだろう。
茶室の工務店が決まった。山本さんの努力でスパッと決まった。素晴らしい。工事金額に僕自身がこれほど悩まなかったのは始めてである。事務所に戻る。赤い家のクライアントが来所。仕事になるかもしれない話を持ってきてくれた。ヴォリュームスタディをすることにした。場所は最高。青山の昔イデーがあった場所の隣。かっこいいカフェの前である。ここで仕事できたら楽しいだろうなあ。と思わせる土地である。
夕刻M1が半年かけて作り上げた社会学的建築の探求、題して「建築の条件」ゼミのパワポを眺める。うわーやはり分からないことばかり。このまま使えそうなのは写真論くらい。あとは厳しい。書いてあることが当たり前すぎて馬鹿らしいもの。逆に何を言いたいのかやっぱり全然分からないもの。そして目の付け所だけは面白いのだが、展開が余りに飛躍しすぎて意味不明なもの。少しテーマが難しすぎたかなあ?自分で考えたって難しいのだから仕方ないか?
飯を食って中国の平詳図のチェック。通り芯を少し動かしたくなる。確認申請中だが、安全側のずらしだからなんとかならないだろうか?
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by 卓 坂牛
2月14日
キャンパスマスタープランも佳境。大学の上層部への説明。各学部長、理事その他。いろいろな意見も出る。会社と違って、本当に大学というところはいい意味でも悪い意味でも民主的である。もしこれが民間会社で、全国の支店建て替やらリニューアルに際して、その計画を本社の営繕が作り社長が決裁したらそう文句をつける人間はいない。しかし大学と言う組織はそうではない。各支店長がいろいろと社長に苦言を呈することができる場所なのだ。というか場所だったのだろう。しかし大学は徐々にいい意味でも悪い意味でも民間会社化され始めているのである。当然それに際して、ものの決め方のルールも変わってくるのだろうが。
松本で会議を終えてあずさで新宿へ。車中、なかなか終わらないコラージュ論を読む。この本はさっさと読み終えないと重くてしかたない。今日の範囲はパウル・クレーのコラージュ。著者の分類ではクレーのコラージュは分析的コラージュと呼ばれ、自らの作品を鋏で切断してずらしたり反転したりして再接合するものである。僕はクレーのコラージュなど全く知らなかったし、こうした方法をコラージュと呼ぶこと自体とても新鮮に感じた。
夜9時半頃事務所に戻ると小倉君が模型作成中。これから10日間彼は事務所に泊まる。毎日7時間寝るとして17時間働ける。10日でも170時間。すごい。でも風邪引かないように。金箱さんからカルトラーバの講演翻訳本が届く。人のことは言えないが、忙しいのによくこんなことしている。respect。中国は大雪で春節の後に帰省した人々が帰れないとのこと。困った。作業が滞る。茶室は減額交渉でb社がクライアントの予算範囲内に入ってきた。これで決まるか?明日クライアント打ち合わせ。
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by 卓 坂牛
昨晩は2年生や3年生、普段研究室では会話できない学生たちといろいろ話しができて面白かった。「建築家は思い上がっている」という2年生の指摘はちょっとびっくりした。建築デザインをやろうと夢を膨らませている学生の考えることではない。でも的を射ているし、4年生のゼミにでも来ればそんな話は聞き飽きるほど耳にすることになる。ハイデッガー、多木浩二。今から読んでもいいけれど、2年生にはちょっと早い。もう少し建築家とは何ぞやということを分かってから、さておもむろにその思い上がった建築家像を叩き壊せばよいのではなかろうか?
今日は朝から会議、午後は独論の公聴会。木質バイオマスの研究だが、学会の特別委員会のテーマでもあるので勉強になった。しかし、間伐材の需要も供給も低下する中で再度このニーズを活性化させるにはどうしたらよいのだろうか?一建築家が闇雲に間伐材を使いますと高いお金払って使うことに意味を感じなくなってきた。もっと社会のシステム整備の話のように思えてきた。
終わって雑用、雑用。雑用と言ってはいけないのだろうが、仕事は梅雨空から降り注ぐ雨の如く止まることを知らず、気がつくと溢れている。
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by 卓 坂牛
2月12日
本日は修士論文発表会。僕の部屋からは装飾論の論文一名と山岳景観研究の設計一名。どういうわけか発表は最後。卒論と異なり、修士の発表時間は倍以上の12分ありそれなりに論理的な説明が可能なせいかあるところまではよく分かる。しかしあるところ以上になるとその専門性で煙に撒かれるところもある。夜は卒論、修論の打ち上げ。手伝いの後輩たちもあつまり総勢50名くらいで慰労会。今晩は冷えるとの予報だったが急に雪が強くなる。去年のブログを見ると2月15日に卒論発表会があり、打ち上げをして駅前の屋台のラーメンを食べて帰ったとあるが、今年も駅前でラーメンを食べた。雪降る中一人歩いて帰宅。寒さが心地よい。
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by 卓 坂牛
一昨日神保町で買った身体論叢書の第一巻、野村雅一・市川雅編『技術としての身体』大修館書店1999を読んだ。技術としての身体とは人間の身体の所作は決して生まれながらのものではなく、文化的に形成されたもの。すなわち技術として修得したものというという視点である。文化人類学、民族学、体育学、ダンス、等広範にわたる15編の論考が掲載されている。自分の専門に重ね合わせて最も興味を惹いた論文は野村雅一の「坐の文化と安楽な姿勢」である。そもそも椅子は座るために作られたものではないという椅子の象徴性に着目し、椅子の発祥地である西ヨーロッパにおいても椅子が生まれた当時でさえ床に座る人たちが多くいたことなどが書かれている。その論考はバルトのエッフェル塔からの引用で始まる。「物の有用性とは、実のところ物の真の意味をおおいかくしているものにほかならない」。つまり椅子の有用性は本来(そうであったかどうか僕は知らないが)権威の象徴であったその意味を覆い隠してしまったというのが著者の主張である。そしてこのように、生み出された「物の有用性」は逆に身体の所作を規定するようになるのであろう。
野村はそこまで言及していないが、もちろんここでの物には「建築物」も含まれるのであろう。建築物の真の意味はその有用性によって覆い隠されてしまう。だから僕等はなんとかしてもとの意味を剥き出しにしたいがためにこの有用性という文化的に作られたものを剥がしにかかるのだが、それがなかなか上手くいかない。でもなんとなくこう考えると自分のやっていることが少し整理できるし、それに応じた考え方や説明の仕方が見えてくるようにも思う。特に建築全般ではなく、身体の所作ということに絞ってその社会構築的側面と、慣習的な無意味さを正確にあぶりだせるのなら、もっと安楽な建物というものを考えることができるのかもしれない。
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by 卓 坂牛
朝、面白いテレビ番組があった。放置自転車はどうすればなくなるかという実験番組。放置激減の一例として自転車が置かれそうなあたりにベンチを置く方法が紹介された。これをやるとベンチに座る人が監視人の役目を果たし、停められないそうである。これは東京自由が丘の例。次に紹介されたのは駐輪場に停めると特典が付くというものである。駐輪場の駐輪券があるとラーメンの替え玉がただになったり、デパートの買い物が1割引になったりというもの。これは福岡天神の例だそうだ。どちらも大成功でまったく路上放置自転車はなくなったそうだ。なるほど勉強になる。それでは大学の放置自転車はどうしたらなくなるだろうか?キャンパスマスタープランでどこのキャンパスでも発生する共通問題である。マスタープランでは門脇の駐輪場に停めて構内へ乗り込まないことを原則としているが、そのルールをかいくぐり講義棟まで乗りつけ放置する学生が発生することが危惧される。どうしたらこう言う学生は減るだろうか??お得感を植えつけるか罪悪感を刺激するか???お買い得感は大学には馴染まないし、罪悪感はそもそも彼等には余り無いようだし、、、、
午後読書。夕刻娘と買い物。東急ハンズへ。久しぶりに東京のデパートへ足を踏み入れ、人の多さに圧倒される。それにしてもいつも思うのだがこう言うデパートと長野のように人のいないデパートが同じ時代に、世の中に存在していることが不思議で仕方ない。土地代の差だけがこの状態を正当化できるとも思いにくい。なぜ同じような商業施設があるのかというのがそもそもの疑問である。だからと言って今のところ名案はないのだが。
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by 卓 坂牛
午前中事務所で打ち合わせ。このところ、入試、卒論、修論、に追いかけられ、平日事務所にいられず。土曜日打ち合わせ。週末はなんとなく皆ゆったりしていて(僕だけの問題?)時間を気にせず考えることができて気持ちがいい。
打ち合わせ後、東京都現代美術館で川俣正を見る。ちょっと期待して言ったのだが、それほどでもなかった(内容はコラムに書きましたhttp://ofda.jp/column/)。
帰路神保町で降り古本屋をぶらつく。三省堂で身体論の3巻セットの叢書を買う。身体論は恐らく概念的な話を幾ら読んでも聞いても身につかない。もっと具体的な局面を実感として感じ取れないと理解できない。この本には身体の訓練とかコミュニケーションなど、それぞれの分野の専門家が実験や、フィールド観察に則って書いているようである。三省堂から数軒となりの、リニューアルした南洋堂へ行く。これが月造さんの仕事か。なかなか綺麗。三階の洋書売り場で素的な本を発見。Claessonと Kovistoと Runeという北欧の3人組の作品集。出版社はBirkhauser。A4より一回り小さい白い布装丁.。ロゴが黒くシンプルで2冊組。一冊はプロダクトデザインで一冊は建築作品。写真がとてもよい。衝動買い。帰宅するとナカニシヤ出版から本が届いている。自分の本がもうできたのかと思って驚いたが、さにあらず。小田部さんからの謹呈本であった。坂部恵・佐藤康邦編『カント哲学のアクチュアリティー』ナカニシヤ出版2008である。カントと聞いて先日ふと読み返した『純粋理性批判』における思想のカテゴリーを思い出した。量・質・関係・様相というこのカテゴリーが今までよく分からなかったのだが、結局これらは人間がものから直感として空間と時間の座標にかかわるものを受け取り、それを思考し規定結合するアイテムであるということが分かってきた。つまりカントに言わせれば人間は現象界の物をこの4つのアイテムで思考するということである。なるほどこれは建築設計とは質と量と関係を考えることであるという僕の論考の前提と同じである。もっと言えばカントは様相も考えざるを得ないよ、といっているわけだ。そしてそれは原広司が書いている。うーん僕が一生懸命考えていることが時代遅れなのか、カントがまだアクチュアルなのか??
昨日事務所に届いていた韓国のインテリア、建築雑誌『bob』をまだゆっくり読んでいないのだが、40ページを使ったofda全体の紹介である。インタビューでofdaはどんな組織かと聞かれて、「複雑系のサンタフェ研究所のようなもの」と格好つけて返事をしたら、最初のページになにやらそんなことが書かれていて気恥ずかしい。