7月30日
九州プロジェクト最初のプレゼン。施主の趣向を計りかねることと、設計期間がないことから案を5つ持っていくことにした。どこかでミートしてくれないと設計が伸びる。しかし5つも案があるとクライアントも迷い、各案のいいところを足して総合して欲しいというようないいとこどりの要望が出てくる危険もある。一か八かというところ。しかしそれは杞憂だった。ある一案を気に入ってくれてそれに修正要望をいただくこととなった。ほっとした。同時にどっと疲れがでた。夕刻某社でエコタウンの研究会。この会社はサステイナブルシティの研究所をつくり、ドイツ、中国から優秀な研究者を招聘した。その研究会で中核施設のコンセプト、デザインを進めていくこととなる。今時のサステイナブル建築についてやや懐疑的な私。しかし21世紀は少しまじめにこの点を考えてみるのもいいかもしれない。手弁当だがいつか仕事にもなるかもしれない。
今週月曜日我々の設計したリーテム東京工場を天皇陛下が視察のため訪れた。大変好評だったようで設計者としても嬉しい限りであるhttp://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/080728/imp0807281220001-n1.htm
最近建築士法の改正(悪)に伴い、大学院の2年を実務にカウントするか否かが議論を呼んでいる。国交省は実務に関連する授業を査定して認めた単位が30単位あれば2年実務にカウントしようと考えている。ところがこの認定基準がまだ定かではない。一方で来年の大学院入学者からこの制度を適用しようとしており、各大学どう対処するか右往左往している。この方向性を探るべく、あっちこっちの知り合いの先生に各大学の方向性についてヒアリングする。大きな国立大学、地方の国立大学、私立大学、美大系私立大学などなど。まあそれぞれ考えていることはさまざまであることが分かった。こんなに思惑が異なるというのは単に方針の差ではなく流布している国交省の方針があやふやであることに起因しているとしか考えられない。基準を明確にしてから再来年くらいから施行するのが筋というものではなかろうか?人騒がせである。
夕刻k-projectの見積りが届く。案の定1割オーバー。ただし内容をよく見ていくとまあなんとかクライアント予算には近いところに落とせそうな気がする。今回時間がないのでかなりコストに注意して設計してきた。それもあってこう言ってはなんだが1割オーバーというのは建築家人生においてオーバーの比率は最も小さい。見積書を見終わった頃やっと明日のプレゼンの模型が全部完成。最初のプレゼンで持って行く模型が5つというのは別に多い方ではないのだが、それぞれの完成度の高さから言うとこれもまれなケースである。こちらも時間が全然無いのでどの方向になろうともすんなり進めるようにかなり慎重。
午後学会の委員会に出席して夕刻戻る。この委員会、「木質バイオマスの有効利用」というタイトルでおよそ私の専門分野とはかけ離れている。しかし成り行きで参加している。それでも他の先生の発言を聞いているといろいろ勉強させられる。どこで使えるか分からないけれど知っておいて損は無い。ところでこの委員会に出席している先生の殆どがe-mobileのコンピューターを前にしている。皆様々な話題ごとにネットで検索しながらその情報を披露している。更には貴重な情報をその場でメールで飛ばしている。更に隣のs先生はちょっと空いた時間に外国の洋書をクレジットカードで購入したり出張のホテルの予約まで。なんと時間の有効利用。やはりe-mobileは必携だろうか?委員会が終り同じ委員会に出ているI先生が急いでいる。これから福岡に飛ぶという。昨日は同じ学会の支部大会で金沢におり、一昨日は帯広にいたという。なんと忙しい。僕などいい方だな。夕刻事務所に戻りメールと電話。夜友人達と暑気払い。バンカー、医者、弁護士、ゼネコン、新聞、ヘッドハンター。異業種の表話、裏話が飛び交う。この暑さだが皆元気そうである。
6時半起床。ホテルの朝食をとり、駅前からバスに乗り9時前に金沢工大に到着。昨日始まった建築学会の北陸支部大会。今日は9時から研究発表会。計画系Ⅲ室の最初のセッションの司会を行なう。二つ目のセッションに僕の部屋の学生二人の発表がある。それを聞いて大学を後にしてバスに乗る。昼食をとり駅へ向かう。もっとゆっくりしたいところだが、貧乏性である。特に目的も無くぶらぶらできない。1時15分のはくたかにのる。在来特急から新幹線に乗り継ぐと割引があるので多少高いがグリーンにのる。グリーンは横3列片側一列なので実にゆったりしている。車中堂目卓生『アダム・スミス』中公新書2008を読む。国富論で有名なアダムスミス。彼の議論は博士論文でも少し引用した。そんなわけでもう少し知りたい人物。自由を尊重する見えざる手で有名な人物だが、彼にはもう一つ重要な著書がありそれが道徳感情論というものだそうだ。リベラリズムに潜むべき道徳とは何か?今知っておくべきことのような気がする。7時近く事務所に到着。皆頑張っている。水曜日プレゼンであることを伝えていたので、それに即した進捗であった。図面はだいたい出来ているようである。
昼のアサマで軽井沢。学生時代に見た篠原先生の土間の家、そしてその傍の奥山さんの新作、続いてアトリエワンの新作を駆け足で見るhttp://ofda.jp/column/もう少し緩いスケジュールにしておけばよかったがそうも行かない。5時40分のアサマで高崎に行って上越新幹線に乗り換えて越後湯沢。そこから特急白鷹に乗り換え金沢へ。車中ジョシュア・メイロウィッツ『場所感の喪失』を読み終える。この本、電子メディアが場所感を喪失させたということが書いてあると思っていたがそれはどうもメインではない。そもそもネット社会のことが書いてあると思ったこの本だが主はテレビと本の差である。その差は本がコミュニケーション的、言説的、デジタル的、なのに対しテレビは表示的、現示的、アナログ的と言う。この対比で行くと、実はテレビの次ぎのウェッブの特徴はテレビ的というより、本的なのである。つまりメイロウィッツの視点だとウェッブの特徴が鮮明に見えてこないということとなる。そう思うと急にこの本の魅力が薄れそうなのだが、やはりマクルーハンと、ゴフマンを相補的に扱いながらつづるその語り口は新鮮な側面もある。
猛暑は続く。毎年こんなに暑かっただろうか?あまりの暑さに昼食に出るのをためらっているうちに3時。もちろんいっこうに涼しくなる気配はない。坂本先生と電話で話す。新建築の論考について。形式性とスケールと現実。これまで極めて観念的だった坂本先生の理念の中に、スケールというとても実体的な概念が(堂々と)入ってきたように思うと述べた。するとそれに呼応してかどうかは定かではないが、少し新たな地平を獲得できたような手ごたえを感じているとおっしゃていた。たまっていた雑用を片付け、大学の書類を作成しメール、学会の論文査読を行いメール、ネットで明日の出張の切符を手配。軽井沢、高崎、越後湯沢、金沢。空いた時間に来週のエコタウン研究会の予習をかねて、東京大学cSUR-SSD研究会編『世界のSSD100―都市持続再生のツボ』彰国社2008を読む。世界の地域開発(復興)の事例が電話帳のような写真の束となり、いくつかに分類されている。川を生かすとか、ブラウンフィールド再生とか、新しい郊外とか。多分切り口は既成概念の域を出ていないのだろうが、全てが事例なので見ていて楽しいし、説得力がある。エコタウンの参考に読んでいたのだが、八潮の街づくりについて考えさせられる。今信大チームは音に注目して、txや工場から出る、どちらかと言うとそれらの負の側面:騒音ををどう防ぐかを考えている。しかし再生や開発は負の価値よりやはり正の価値を正面に出す方が常道なのかもしれない。当たり前だが水、農地、太陽、これらは普遍的な正の価値(もちろん負の価値の転換も必要なのだが)。夜11時頃、3人束になってかかっている来週行なうプレゼン進捗をチェック。今週末の作業を確認して解散。最近の仕事は、担当はいるものの、締め切り近くなるととにかく全員体制である。
午前中事務所外でミーティング。午後プロジェクトの進行状況チェック。模型が並ぶ。敷地条件が厳しくないので解法はいろいろ登場する。前回3つに絞ったのだが、いろいろ増えて5つとなる。
夕刻東工大の篠野研究室のゼミに呼ばれる。ゼミ本は拙著『建築の規則』。最初僕の作品をスライドでお見せし、その後、m1が作ったレジメに沿って発表と議論。レジメが明快。先ずは全体の骨格を図式で書いているところが気に入った。またレジメをぐだぐだと読まないところがいい。内容を簡潔に要約して言う訓練がなされている。うちのゼミだと何度言ってもレジメの読み上げになってしまうのだが。
しかし議論はもっぱら篠野先生の独壇場。僕が学部の時の助手だからもう頭は上がらない。相変わらず意匠論の言葉の貧困と想像力の欠如を歴史論文と比較して指摘される。歴史は資料をもとにある一つの結論へ落とし込む時に筆者のロマンが注ぎ込まれるのだろうが、意匠論でそんなことをしたらただの戯言ではないか。意匠論を論文にまとめる難しさも分かってほしいのだが、、、、マニフェストはまた別に書きますよ。
篠野研究室は東工大長津田キャンパスにある。緑に囲まれた山奥。学部時代に一度だけ来た記憶がある。10時半頃おいとましたのに帰宅したのは12時を回っていた。
朝某ミーティング、午後九州プロジェクトの打合せ。打合せというよりはその場でスタディというところである。アクティビティの流れはある程度できてきたのだが、、、、
昨日坂本先生と電話で話をした時に、水無瀬の増築が新建築7月号に載っていると聞いた。そういえばその号は読まずに本棚に突っ込んでいた。水無瀬の母屋は相対的に強い垂直的な形式性を持ち、ハナレは緩く水平的な形式性を持つ。そしてそれらが中庭を介して接続する。と説明されている。この説明は本物を見た時に感じたことでもある。また、この号には久しぶりに坂本先生の論考「構成形式と現実の緊張関係によるスケールから生まれる詩的インパクト 」が掲載されている。この論考は読んで即座に理解される。建築家とはある種の形式を設定し、設計を始めるのだが、その形式性は変化無く持続できるものではない。様々現実的な条件(法律、コスト、敷地など)によって崩されていくものである。そしてこうした現実との衝突によって形式はよりリアルなものへと生まれ変わると述べる。あるいは形式が形式主義に陥らないためにもこうした現実化の過程が必要だと説く。この論考の主旨は明快である。しかしあまりに判明なこの趣旨が一体どれほどの内容を持つことなのか、何を本当に問い質したいのか、実はまだ本当の理解に到達できてはいないかもしれない。今度お会いした時によく聞いてみたいところである。
7月22日
今日は製図第3の講評会。ゲストにみかんぐみの曽我部氏をお迎えした。12時半から2時半まで55名全員の発表を聞き16名を選んだ。3時頃曽我部さんが到着。1時間レクチャーをしていただく。熊本の保育園。伊那の小学校。そのほかアート作品。これだけ笑わしてくれる建築レクチャーは始めてである。レクチャーの後選ばれた16人の再プレゼン。その中から3人の先生が一名ずつ優秀賞を選んだ。その後曽我部さんを囲み学生と打ち上げ。先週からの3連ちゃんのゲストパーティがやっと終わった。学生はこれから試験期間である。ラーメンを食べて帰宅。
朝事務所で模型を作る。なんだかこの「ダサい」感じはいいんだか悪いんだかよく分からない。もちろん正解ではないのだが、少しヒントがありそうな気がしている。来週からバイトがやっと来るということなのでわんさか模型を作ってもらおう。そのためにはスケッチもわんさか作らねばならないのだが。午後打合せ。スタッフの意見もあっち行ったり、こっち行ったり。まだまだスケッチの量が少ない。久々の自由な敷地なので打つ手が多すぎる。放っておくとフォルマリズムに流れていく。生活感が希薄なのである程度仕方ないとしてもそれだけでは意味が無い。見る風景、見られる風景。この緩やかな勾配との馴染み方。
休み無く出ずっぱりで少々ばててきた。帰宅後夕食まで大の字で倒れる。夕食後、ジョシュア・メイロウイッツ安川一他訳『場所感の喪失』新曜社2003を読む。A0勉強会に来る社会学者のm君に教えてもらった本である。イントロを読んでいるとゴッフマンの相互行為論とマクルーハンのメディア論を相補的に扱いながら現代のコミュニケーションを考えようというものらしい。ここからはこの本の内容についての想像だが、、、電子メディアにおける情報の発信や対応は特定少数より不特定多数に向けることの方がデフォルトな場合が多い。ブログもいい例である。これを特定の人だけに開示するのは結構面倒である。リアルな社会では不特定多数に情報を発信する(例えば駅まで演説する)方が個人に何かを伝える(手紙を書く)より物理的にも精神的にも大変なのだが、電子メディア上ではその差は殆ど無い。個人と言うものは常にその個人の居る場所との関連性が強く意識されるものだが、不特定多数ではまさに特定できない。相手がどこに居るのか皆目検討がつかない。そこに電子メディアコミュニケーションにおける場所感の喪失が起こる。イントロを読みながら内容をこう予想してみた。