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by 卓 坂牛
このところコンペや竣工物件やらで自宅の部屋が散らかり放題。朝からその整理に追われ、そして午後からの勉強会の下読み。午後A0勉強会。ヒューマニスト・ヴァリューという章なのだが、建築はラインとマスとスペースが重要な要素だと言う。今日はそのスペースの主張なのだが、これを読んでいるとヒューマニスト・ヴァリューというよりは19世紀末モダニズム一般の主張と変わらない気がする。勉強会終了後シアターコクーンに勅使河原三郎を見に行く。http://ofda.jp/column/今月3つのダンスを見たが、完成度と言う点では一番だったように感じた。ただ、3つのダンスはそれぞれ劇場も異なり席も違う。クラウドゲイトの時はオーチャードホールで2階のバルコニー席。ダンサーの動きの迫力は伝わらない。レニバッソの時は横浜の赤レンガ倉庫のホール前から4列目。これはかなり近い。ただレニバッソの踊りはメディアとの一体性が重要であり、肉体感はさほど重要ではないようにも思われる。一方今日はシアターコクーン。ホールの大きさはオーチャードより小さく、赤レンガより大きい。今日も前から4列目。勅使河原の苦痛にゆがむ表情まで鮮明に見えた。見えたものと見るべきものがジャストフィットしていたと思う。まあそれを差し引いても今日のダンスは見ごたえあり。
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今日は高校サッカー部対湘南高校定期戦の超ob戦に出る予定にしていた。しかし朝から雨。昼にあがってきたのだがこれだとグラウンドがかなり悪そうである。サッカーはやめにした。日建の新しい建物の内覧会がありそちらにいった。大手町の経団連ビルと日経新聞の2本の超高層である。両方とも70,000㎡程度だが階数は31階と23階。20メートルほど日経のほうが高い。2時から始まった内覧会だが2棟見るとゆうに3時間かかる。終わったら5時だった。随所に見られる日建っぽいディテールを見ると時間がワープしてその昔の思考方法や設計の気分を思い出す。それは多くお会いした旧友以上に懐かしい。次期経団連会長がどなたになるのか知らないが、その部屋も特別に見せてもらえた。天井高3.5メートルの眺めの良い部屋。特別に贅沢には見えないが心地よさそうである。
帰宅後読みかけの『60歳から家を建てる』を読む。老後の住まい方の例がいくつかあげられる。マンション暮らし、田舎暮らし、子供たちと同居、すなわち2世帯住宅もその一つ。著者はこの2世帯住宅を500件以上も設計したという。著者の設計歴は40年ちょっとだが、年に10件以上も設計している計算である。そういう人もいるんだ!!!夕食後、風呂で石田衣良『フォーティー40』講談社2006を読む。小説なんて読むのは久しぶり。人生の半分を過ぎた人間が様々に挫折して残りの半分をどう生きるかという話。今年50になる私としては10年前を顧みて、10年後を受け入れるための40と60。
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by 卓 坂牛
午前中大学に行き書類作り。今日の長野は5月の陽気。桜が咲きそうなほど暖かい。午後は今年度最後の学科会議。会議後、非常勤講師の川上恵一先生から頂いた『住み継ぐ家の物語 設計職人の仕事とその家族たち』オフィスエム2009を眺める。民家保存再生の実作がきれいな写真で紹介されている。藤森さんとの対談が入っている。楽しそうな本である。夕刻のアサマで東京。丸善に寄る。天野彰『60歳から家を建てる』新潮選書2007という本に目がとまる。僕も65歳になったら自宅を建てたいという淡い希望(希望で終わりそうだが)を抱いているので同じようなことを考える人の気持ちがちょっと気になる。
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久しぶりに竣工写真撮影に立ち会った。今回はアングルや光の量にこだわりがあり、自分で指示したかった。こちらで先にデジカメでとってこんな感じとカメラマンの上田さんに見せ相談しながら決めていく。僕自身200枚以上撮った。8時から1時まで一気に撮り昼食後いつものことだが時間が空いたので渋谷で買い物。5時から再開で夕景撮影。終了後、某代理店の方と築地で飯を食う。上海万博がらみのコンセプトワークの相談である。がらみというのは相談対象自体は万博施設ではなく、それに合わせて発生する上海市内の開発だから。計画自体が世界中の建築家によって進行中でそれを束ねる軸となるコンセプトが不在とのこと。それを一緒に考えてほしいというのだが。なかなか良いと思ったのは、スクラップアンドビルトではなく、リノヴェーションであるというところ。それもかなり大規模なものである。川のあっち側は未来都市みたいに超高層が林立していて川のこっち側はぐっとレトロというのも上海ならではの都市風景かもしれない。
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研究室にノート(パソコン)をおいてきてしまって、朝一でメールをチェックしに事務所へ。そこから丸の内線東横線を乗り継ぎ馬車道へ向かう。東横線の高架からは多摩川、川崎の広い空が見渡せるが一面黄色くぼやけている。黄砂である。これを見て恐怖におののく人も多いのだろう。新しくなった「みかんぐみ」オフィスへ。実に広くて明るい。大事務所である。八潮先生チームと学生と市役所の方を交え来年度の作業方針を議論。住宅の設計を前提においている活動だけに、議論は白熱。いかにしてそれを実現するのか?単なるペーパーコンサルと違い、その方法も新たに開発していかなければならない。会議を中座しk-projectの施主検査に向かう。2時からたっぷり2時間。最後につき物の追加工事のお金についても概ね両者了解。ほっとする。
夜自宅で絓 秀実『吉本隆明の時代』作品社2008を読む。こういう人:一番すごい時代が自分の小学生時代かもうちょっと前でなおかつ今も影響力があるような人というのはいろいろ読んでも実感には至らない。けれど、それでもいつもちょっと気になり何かあるとつい食指がのびてしまう。
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昼のアサマで大学へ。午後の会議は案件が山積み。その上選挙などで終わったら夜。最終バスに飛び乗る。週間誌を眺めていたら椎名誠が書店のブックカバーは無駄だと書いていた。いつもカバーは頼む方なのでそう言われればとふと読んでしまう。彼の言い分はブックカバー自体が紙の無駄。こんなことをしている国は日本くらいだと。そしてさらに表紙というものは著者も装丁者も相当なエネルギーをかける部分でありそれを隠すのはそうしたエネルギーを無視することになるというもの。なるほど分からないではない。なんていうコラムを読んだあとに読みかけの『無駄学』を読むとさてこれは無駄なのかということになる。著者の定義では無駄とはその言葉の使われる対象においての目的と想定時間の中で、想定されるインプットとアウトプットの差が生み出す益が実際どうなのかによって判断されるという。つまり想定と実際の差がマイナスなら無駄という判定である。つまりブックカバーで言えば、カバーすることであがる売り上げ+がやめることでどう変化するかということである。
ふーん本屋というものはそういうことを考えているのだろうか?よく分からないけれどスーパーの袋をやめようという時代だからブックカバーをやめようと言えばレジはすくし、コストも下がり皆共感するようにも思うのだが。
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今日はk-projectのオープンハウスでした。朝から多くの方に来ていただきました。天気もよく昨日より温かく主催する側としてはほっとしました。来て下さる方にとっても気持ちが良い散歩日和だったのではないでしょうか。いずれにしてもたくさんの方に見ていただきありがとうございました。ご感想などお寄せいただければ幸いです。来訪者を案内しながら自らできている建築を反芻するといつもはいろいろな発見があるものですが、今回はそれが比較的少ないようです。それはあいまいなところが少なく全体が明快な図式の上にあるからなのだろうと思いました。それがいいことなのか悪いことなのか分からないのですが。
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昼から晴れるという天気予報だったが夕方までぐずついていた。かなり寒い一日。なので今日は家を出ずにじっとしていた。読みかけの『上海物語』を読み。西成活裕『無駄学』新潮社2008を読む。風呂に入り新聞を全部読み、夕刻家族でトンカツを食べた。
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『建築ノート』に掲載される公開読書会の連絡を槻橋氏からいただいた。場所は伊東豊雄さんの新作「座・高円寺」。建物を案内していただけるのと、読書会(これは6人の方が6冊の本を読んできてその内容を紹介しディスカッションるというもの)出席者の一人に知人がおり行ってみることにした。鉄板捨て型枠RC構造の曲面の外観が中央線沿線のごみごみごちゃごちゃの中央線高架脇に現れた。色は濃いこげ茶。昔見た文芸春秋(竹中)の外壁を思い出す。その色も材質もなんだかこの高円寺には似つかわしい。内部のコンクリートは珪藻土で仕上げられ赤茶で色づけられている。そして圧巻は直径20センチくらいの丸い窓。ランダムに壁、屋根、手すりとあたりかまわ穿たれて光っている。松本芸文のソラマメのような窓が思い浮かぶ。円くなっているのは高円寺だからか?3つの劇場のうち一つを見せてもらう。縦横高さが同じスケールのキューブである。劇のやり方に沿って自由に内部の形式が変わるようにできている。これはコンペ後早いうちから運営側の芸術監督が決まったからできたことだそうだ。
続いてラウンドリーディング。3時間くらいで演劇、劇場の主要な文献の内容を鋭く深く紹介してもらい勉強になった。中世、劇場は場所とのつながりが深かった。アジールな場に多く生まれたというような意味において。逆に言えば建物という物理的な殻との関連は薄かった。近世、演じられるものの形式と建築があるつながりを持つようになった。歌舞伎でありオペラというような形式が確立され、それに適合した空間が確立する。そして近代、観る者と観られるモノの制度化が進行する。ステージあるいはプロセニアムによって両者が明確に分離されることとなる。これは演劇に限らず、音を標本化したコンサートホール、美の美術館、知の博物館、などにおいて発生した。それに対して現在の我々はそうした標本を再度身近な状況の中に置き直そうとしている。それらは場所とのつながりや身体を契機としてとらえなおされるべきものになってきている。そうなるとおよそ制度の産物である建築に一体何ができるのだろうか、制度から外れようとする、音や美や劇と言うものに対して、建築という制度には何ができるのだろうか?建築を制度から引きずりおろす手段とは何なのだろうか?そんなことを考えさせられた。
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by 卓 坂牛
今日は大学の後期日程試験。今年度は理工系の志願者がぐーんと減った。信州大学も例外ではない。先日の先輩の話では今年度GDPが初めてマイナスとなったが来年末くらいからプラスに転じるとのこと。ということはそれが建設の実態に反映されるのは2年後そして志願者に反映されるのは3年後と言うことだろうか?試験後研究室で雑用。夕方のバスで東京へ。車中丸山昇『上海物語』講談社2004を読む。今頃読むのは遅い気もするが、モノを見てから読むと実感があっていいとも言える
帰宅するとnikken sekkei quaterlyという名の日建の広報誌が届いていた。20ページほどの小冊子だが読みごたえがある。今回の特集は宮内庁正倉院事務所。設計は同期の大谷弘明。日建をしょって立つ建築家である。少ない写真ですべては分からないが、格子梁のようなPC版大屋根を鉄骨柱で支えている。たかだか600坪の建物に設計に2年施工に4年かかったと言うから驚きだ。時間をかけながら設計図をさらに良くすることを考えたと言う。設計図は楽譜であり施工者と一体となってどう演奏するかが重要だとも言う。まったくそのとおりである。