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Jan 2010

I pad

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by 卓 坂牛

かみさんは書道の作品提出で朝から外出、娘は模試。ひとりで翻訳本を読み。昼は冷蔵庫を掃除するようにあるもの全部炒めてインスタントラーメンの具とする。午後A0勉強会。パートナーのI君とI padの話題。これはかなり便利そうだし、kindleを買おうかと迷っていた僕としてははかなり魅力的。しかしI padはあくまでI phoneのヴァージョンアップであってコンピューターの軽量化ではない。だからI padを買っても、コンピューターは家に置いておくというわけにもいかないだろう。「2台持ち歩くのはかなり重くないか?」と言うと、「コンピューターサーバーをgoogle docsに任せてしまえば、持ち歩かなくてもいいのでは?」とI君。彼の会社では殆どのデーターがgoogle上にあると言う。これは結構驚きである。メール、カレンダーはもとより、すべての仕事上のデーターもgoogle docs上にあると言う。そんなことが可能なの?と言うか、もちろん可能なのだろうが、会社の重要資料を全部貸金庫の中に入れておくと言うのがちょっと不安。「その貸金庫が火事で燃えたらどうなるの?」と尋ねた傍から、しかし、googleのコンピューターと事務所のコンピューターとどちらが安全なのだろうか?ofdaのコンピューターハードがこの2年間に何回クラッシュしたことか。明らかにgoogleのコンピューターの方が安全であることに気付く。つまり拠点にコンピューターを置き常にgoogleサーバーと同期させておき、その上で、Ipadをモバイルとして持ち歩くというのが理想的なのだろうか????????今日の読み合わせ部分は少し平易な内容。それでも未だ先は長い。何時出版になることやら。

岡本太郎

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by 卓 坂牛

朝、昨日思い出した長谷川堯の2冊の新書を本棚に探したら、なんとあった。建築友情400円、建築旅愁430円である。現在の半分の値段。出版年を見るとそれぞれ1977年、1979年。このころの中公新書はビニールのカバーがつき装丁は白井 晟一だった。午前中、昨日届いた鈴木杜機子、千野香織、馬淵晃子編『美術とジェンダー』ブリュッケ1997の中の3つの論考を読む。西洋美術史の中でのジェンダーについて。森田義之の「ルネサンスにおけるジェンダーとセクシュアリティ」は先日のウィグリーのアルベルティによるセクシュアリティの創出という議論を補強する。古典の肉体主義とキリスト教の精神主義の葛藤がルネサンス期に表出されるということのようだ。続いて鈴木杜機子の「ダヴィッド―ジェンダーの記号としての絵画」は革命以降の近代化するヨーロッパにおける家庭における女性の役割が記号化されて絵画化されていく様を描いている。続いてノーマン・ブライソンの「ジェリコ―と『男性性』」はジェリコ―の描くナポレオン兵士たちの装具の過度な男性的表現に国民、国家の力強さへのイマーゴが表れていることを分析している。それぞれの分析はそれぞれとても面白い。しかし僕が今のところ知りたいのは、日本における縄文的と弥生的のような表現の二軸性みたいなものが西欧にもあるかどうかということなのだが、、、、、???続いてやはり先週届いた岡本太郎の『日本の伝統』光文社1956の縄文土器を斜め読む。この本、僕が生まれる前のもの。紙は日焼けして赤茶色にくすんでいる。彼が縄文に興味を抱き始めたのは1952年ころと言う。建築界が伝統論争をするのは遅れて昭和30年代。岡本の影響なのだろうか?
昼ころジムに行きひと汗流してから岡本の影響で、国立博物館に土偶展を見に行く。土偶から『爆発』を感じるだろうか??http://ofda.jp/column/。今日は天気もよく上野は凄い人出であった。いや上野もそうだが、土偶展自体も凄い人である。こんな(なんて言ったら失礼だが)展覧会はがらすきと思いきや、何故か超満員である。事務所に戻り模型を一つ作ってから帰宅。朝読んでいた本のメモなどとり、研究室から来たコンペのスケッチを見る。なるほど、、、、面白くなるかな??

神殿か獄舎か

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by 卓 坂牛

長谷川堯の『神殿か獄舎か』相模書房1972のオス建築とメス建築の話を読みたいと思って探したが高価な古書しか見つからなかった。そしたらある人がSD選書で復刊されたと教えてくれた。早速取り寄せザーッと斜め読んだ。これが35歳の時の処女作とは信じがたい。藤森照信が解説で長谷川を学兄として慕っているのが納得できる。大正時代の日本の表現派(メス建築)を初めて正当に評価し、それを武器に昭和のモダニズム(オス建築)を初めて相対化したのがこの書だと藤森は言う。そして自らの建築がまさに長谷川の称揚したその精神に立脚していると心の内を吐露していた。それは作り話ではないかもしれない。
長谷川の本は建築友情と建築旅愁という二冊の中公新書を数十年前、多分高校時代、あるいは浪人時代に読んだような気がする。建築に魅かれるきっかけだったように記憶する。その後大学で篠原イズムに浸ってからは、表現派へのこうした心情からは疎遠になってしまった。しかし今こうして読んでみると、再び長谷川の心情に同期する自分がいるのに驚く。大正建築探検をしてみたくなった。

ヘルスメーター

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by 卓 坂牛

帰宅すると新しいヘルスメーターが宅急便で届いていた。10年間使っていたヘルスメーターがまったく信用ならなくなって買い換えた。最近のヘルスメーターは少し高いお金を出すと、体脂肪、筋肉量、内臓脂肪、基礎代謝、骨量まで量れる。一体どういう原理でこんなことが測定できるのかはよく分からない。体中の電気抵抗のようなものを測りそれによってその成分を解明しているのだろうか?ところで、この機械のすごい点は、単に全身のこれらの量を計測するだけではなく、これらの量を体の部位ごとに分けて示してくれる点だ。左右の腕、左右の足、体幹、全身という具合に。人間なんて左右対称だと思っているとそうでもない。一般にきき足やきき手は筋肉量が多い。あるいは僕のように怪我をしてギブスなどしていると筋肉量が落ちる。今日数字ではっきりと出た。
こうやって自分の体を測定するとかなりいい値であることに安心する。特に基礎代謝は1600kcalくらいありこの年にしてはかなり高い。しかし、、、昨日会った旧友は基礎代謝2000kcalと言っていた。もちろんスポーツマンではあったが、今は普通の銀行マンである。とんでもない奴だ。それだからかどうか分からないが、彼はワインなら二本、ウイスキーなら一本までなら二日酔いしないと言っていた。寝ていてもすごい勢いで代謝しているのだろうか?化け物だ。

留学生

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by 卓 坂牛

午前中、留学生試験。12名の受験者がいて数名が受かるのだから狭き門である。事前に多くの資料をもらいつぶさにチェックはするものの、外国の成績表の持つ意味やそれがどの程度の学力を担保するのか判断するのは難しい。幸い、留学生はすべて日本で行われる日本語、科学、物理、数学の試験結果を提出しなければならないので、それを持ってやっと客観的評価ができる。しかし留学生の場合学力以前の問題でつまずくケースが多い。経済的なバックアップの問題である。彼らは親からの自立精神が日本人より高く、それはそれでよいのだが、語学ハンディがあるから日本人の倍勉強してやっとついてこられる。その状況でバイトに追われると、講義には着いていけず、お金はなく、大学に来られなくなってしまうのである。
午後しばらく雑用書類を作り、原稿に必要なメモをとり夕方大学を出る。アサマ車中はゴンブリッチを読み続ける。東京駅で久しぶりに丸善により本を物色、宅配する。事務所に戻り、ほぼ完成した模型を見る。結構面白い。夜は旧友との新年会。

カッコイイ女とカワイイ男

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by 卓 坂牛

午前中事故調査。某建物のトップライトのガラスが割れているとのこと。行ってみると予想通りペアガラスの内側の網入りが熱割れを起こしていた。日建時代も熱割れはいたるところで起こっていた。そしてこれに対してガラス屋は割れることは仕方ないという態度をとり続ける。ハードディスクはクラッシュするものですと言って平気で売っている電機屋と同じである。腑に落ちない。更に、それにも増してこの割れるガラスの使用を強制する法制度はもはや理解不能。火事の時に割れて落ちないためにこのガラスを使えと言うが、火事でもないのに割れて落ちる可能性があるということはもっと問題ではないの??
午後事務所でカワイイデザインパラダイムをチェック。一体カワイイが現代的価値として浮上してきたことを真壁氏はどうとらえているのか?彼はその原因の一端として世の中の母系化をあげる。つまり家庭内において親父の力が下降し、家に長くいる女たち(祖母、母、娘)が価値観を共有し、それが世の中を席巻しているというわけだ。更にそうした価値観が拡張して男的カッコイイをも包み込んでいると言う。一理ある。我々が住宅を設計する時も、クライアントの発言権は旦那より奥さんにある。家にいるのは女だからという理由で。しかし家にいるのは奥さんという時代も何時まで続くか?
ところで真壁理論ではモダニズムがカッコイイ男性でそれにとって代わるカワイイは女性(中性)である。この指標と昨日まで見てきた梅原、谷川による美術における男女的表現の循環運動を接続するといつしかこのカワイイがカッコイイに再転換する時期も来るはずである。それは何時どんな契機で?と想像をふくらましたくなる。その現象はちょっと複雑である。つまり男が家庭化する父系的世界が現れ、再度世を男性表現が席巻しても、その父系世界はすでにカワイイ男に担われているわけだ。そして世の中を牽引する母系は既にカッコイイ女になっているのでは。高校生の娘を見るまでもなく大学を見渡してもそれは伺える。ということは何も変わらないのか?それとも今の表現を担う女性が男性化しその力が表現の覇権を握るのか??
昨日のスケッチの模型化をチェックして事務所を出る。アサマ車中ではゴンブリッチの西洋美術史をトレース。西洋の男女性を追いかける。夜は研究室でコンペの打ち合わせ。方向が見えてきたか?

谷川徹三

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by 卓 坂牛

事務所に行くと谷川徹三の『縄文的原型と弥生的原型』岩波書店1971が届いていた。早速題名となっている論考を読んでみた。縄文的原型を動的、男性的、弥生的原型を静的、女性的と形容している。そしてこの二軸を日本文化の基本と捉えている。また縄文的なものが輝かしく現れたのは平安初期、桃山と言う。その原因を異国文明との衝突に見ている。これは梅原の考えとは異質で梅原は縄文を日本土着のものと捉え、王朝文化を弥生、武家文化を縄文の再現と見ている。
まだ分からぬことは多々あるが、いずれにしても日本ではかなり性格の異なる二つの造形が交互に登場してきたことは間違いない。こうした造形の循環運動のようなものは、しかし、日本的と言うわけでもないだろう。ヨーロッパの造形にしても、動的なものと静的なものが交互に登場してきていると言えぬこともない。これはむしろ人間が何かを表現する時におそらく必然的なことなのではないか?表現とは多かれ少なかれある頂点を極めた後は差異を求めるものである。となれば対比的な何かに振れるのは当たり前のことと思われる。
午後は住宅のスケッチを続ける。ちょっと面白い断面形にたどり着いた。これはコンペの案にも使えないだろうか?

日常のトラップ

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by 卓 坂牛

朝食をとってジムへ。ちょうどピラティスをやっていたので後ろの方に加わる。いろいろな骨が伸びたり縮んだりするような感じである。不随意筋を意識的に動かす練習のようでもある。お腹の底の方の筋肉も大分自覚できるようになった。ジムを出てオペラシティに行きセシル・バルモントの展覧会を覗くhttp://ofda.jp/column/。大量のバナーに生物写真が拡大で映されている。この生物観察を研究室でもやろうかな?観察と図式化でその本質へ想像的に近づこうというのはいいトレーニングになりそうだ。帰宅して相変わらず日本美術史を読む。やっと鎌倉が終了。絵巻物が面白い。積読の中から一冊抜き出す。長谷川一『アトラクションの日常』河出書房新社2009を読む。昨今の我々の生活を取り巻く一連の仕掛けを著者はアトラクションと呼ぶ。その特性は①イベント性②その参加③運動④予定調和⑤複製可能である。そして揺られ乗り込み流され眺め買い物しセルフサービスし繰り返し複製し同期し夢見るという10の運動を説明する。我々を取り巻くこうした自由に見えて予定調和的に仕組まれた罠から僕らはどうしたら抜け出られるのだろうか?というのが著者の狙いのようである。果たして僕らはこうした罠から抜け出なければならないのかどうか分からないが、確かに我々がこうしたトラップに知らぬうちにはまっているのは事実。

三蹟

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by 卓 坂牛

少々寝坊。駅のカフェで朝食。飲んだ次の日はどういうわけかいつも凄い食欲である。アサマの中で週刊誌を読みながら、昨日の会話を思い出す。まさかあの大澤真幸が事件をおこして辞職するとは思ってもみなかった。しかし、真相はどうなのだろうか?辞職したのだから自ら認めているということなのだろうか?
四谷について昼をとり帰宅。日本美術を読む。話は平安中期。三蹟と呼ばれる3名の書家が登場する。小野道風、藤原佐理、藤原行成。何時見ても佐理の書は自由奔放で素晴らしい。万葉仮名からひらがなが出来たのが9~10世紀。松岡正剛が日本の最大にして最初で最後の発明がひらがなだと言っていたが同感である。そしてそのひらがなを最初にアートにしたのがこのころの書家である。つまりこれらは日本で最初で最後のオリジナルアートなのである。

講評会

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by 卓 坂牛

午前中のゼミ、講義を終えて早めの昼食。今日は製図第二の講評会。ゲストに松田達さんと新雄太君が来てくれた。二人の方に来てもらうのは安田さん藤田君以来。先ず松田君にショートレクチャーをしていただく。建築とメディアについての話は僕の興味とかなり近い。レクチャー後に25人の講評を行う。比較的直観的な新君と、ロジカルな松田君の批評は相補的で面白い。そういう役割分担で行うことを打ち合わせしていたかのようである。せっかく来てくれたので僕は少々控えて二人の発言を聞かせてもらった。なかなか見事な講評ぶりである。今日は3人が皆良いとしたものが一つあったのでそれを最優秀として、3人それぞれの審査員賞、加えて佳作を選んだ。受賞者を含めて本日の感想を建築系ラジオに収録。懇親会は40人近くいただろうかお店一軒借り切って大いに盛り上がる。飲んでいる途中でもう一度ラジオの収録。更に駅前へ移動して2次会3年生もやってきた。