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Apr 2010

朝イチでメールは読むな

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by 卓 坂牛

昨日遅かったので今日はさすがに寝坊である。午後は八潮市で打合せ。今年の全体計画についてである。何かの設計をできるという話を聞いていたのだが、それが流れてしまったという話が最初にあった。また今年もスクールをやろうということのようだった。どうもぱっとしないと思っていたら、O先生がその気持ちを代弁してくれた。もっとモノづくりをしようということでスクールを拒否した。打合せは仕切り直しとなった。神戸からはるばるやってきたK先生は少々可哀想である。終ったのは4時であるが、僕以外の先生は飲みに行ってしまった。僕は用事があり失礼した。
最近一日10回はメールをチェックしているような気がするが、時間の無駄である。返事待ちのものについて、焦る気持ちがそうさせるのだが、もうやめた。キャノンでは出社後2時間は部長以上のメール閲覧を禁じているそうである。頭の冴えている朝の時間はクリエィティブに過ごせという会社の意向だそうだ。特に朝の出勤時間で仕事の段取りを考え、そのままメールの邪魔を入れずに仕事に入りこめということのようだ。普通は朝、まず昨日までの情報整理をしろとと言いそうなものだがそう考えない会社もあるようだ(酒巻久『仕事ができる人に変わる41の習慣 朝イチでメールは読むな』朝日新書2010)

本日出版

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by 卓 坂牛

午前中早稲田の文化構想学部での演習。今年で3年目に突入。最初の授業で学生が30人くらい。去年からちょうどよい人数が来るのはどうしてだろうか?あらかじめ人数の割り振りしているのだろうか?理工の建築にいる甥っ子は来ていない。授業が忙しいのだろうか?この演習でも使用するために僕のポートフォリオを今日に合わせて出版。生協に午後並んだ。ぎりぎりセーフ。皆さん是非アマゾンでお買い上げください。タイトルはArchitecture as Frame。僕の27の作品、コンペ、unbuiltプロジェクトを写真、図面、ドローイングなどを使って構成した。坂本一成先生とディヴィッド・スチュワート先生に批評を書いていただいた。デザインは中島壮さん。僕の小さなエッセイも載せた。
午後事務所で打合せ。夜12年間僕の右腕として活躍してくれた中島壮君の慰労会。荒木町のフランス家庭料理アンシャンテで夕食。2次会は四谷コクティル。そして夜は長い。ナカジ(中島君の愛称)は僕の40代を支えてくれた。デリダ的に言えば彼が僕の右腕だったから僕は今こういうことになっている。もし違う右腕だったらきっと違う僕がいる。今の僕であることに僕はとても満足している。
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廊下

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by 卓 坂牛

毎年4月の最初に研究室所属のガイダンスがある。所属する学生を決めねばならない。定員六名だけど応募者は少し多い。僕が学生のころはじゃんけんで研究室を決めていたのだがそれもなんだか昨今の風潮ではない。それにやはり研究室も大袈裟に言えば会社のようなものだからいい人材が入れば盛り上がるだろうし実力も上がる。と言うわけでいろいろな資料を見ながら選考する。仕方なく数名他の研究室に行ってもらうことになるのだがせつないものである。入研者を部屋の外に張り出して夜のアサマで帰宅の途へ。今日のアサマはひどく混みあっている。Pcを打つ手が隣人の荷物にぶつかる。帰宅後丸善から届いていた宅配本を開けその中の一冊をとりだす。青木正夫、岡俊江、鈴木義弘『中廊下の住宅―明治大正昭和の暮らしを間取りに読む』住まいの図書館出版局2009。なんで廊下?というと、先日高山の陣屋や商家を歩きながら改めて日本の家には縁側はあっても廊下は無いものだと思ったからだ。白川へ行っても公開している重文の合掌造りには廊下はない。僕が泊まった合掌造りには廊下があったがそれは客室を細分化するために後から改装された部分である。まあそんなことは教科書的には分かってはいても、実感してなかった。廊下ってどういう理由でできたの?にわかに興味深くなった。加えて最近設計中の甲斐の住宅ではしっかりとした中廊下が現れている。今回の設計では設計前に住宅特集10年分くらいの平屋平面のタイポロジーを作ってスタッフと平面研究をしていたのだが、そこには中廊下は一つもなかった。タイポロジー分析とは、もちろんそこにあるものを作るためのものではなく、そこにないものを発想する為であり、その模索の結果なんとなく中廊下の形式にたどり着いていた。もちろん中廊下がオリジナルな形式であるはずもないのだが、かといって、それがいつ頃どういう理由で生まれたかを知ることもなく設計は進んできたのである。
高山での廊下と設計中の中廊下が意識の中で混ざりあい、丸善でこの新刊を目にして発火した。読み始めたばかりだが、やはり明治当初の住宅はあくまで縁側のみの廊下なし住宅である。そして明治の後半に縁側が垂直に折れて廊下の形態が生まれるのである。さてその理由は何故?続きはまた明日。

花森安治のプラグマティズム

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by 卓 坂牛

甲府での打合せを終え、今日は長野に向かう。車中、読んでいた本(西村佳哲の『自分を生かして生きる』バジリコ株式化会社2009)に面白い引用があった。『暮らしの手帳』を創刊した花森安治のインタビュー記事である。彼は大阪の警察の発想を褒めている。それはこんな文章だ。「あのね、御堂筋のどん詰まりで、心斎橋から出てきたところあたりにねえ、空きタクシー駐車禁止なんていう立て札が立ってますわ。ところがその下に『但し、雨雪の時、除く』と書いてありますわ・・・」彼はこの看板を凄く褒めている。この話はかなり昔のことで今時こんなおおらかな警察の警告があるはずもない。銀座あたりにこんな看板があったら感激だ。しかし大分前のこととは言えお上の文章にしたら上出来である。これを読みながら前に読んだローティ―のプラグマティズムの話を思い出した。きっとローティーもこの看板に感心するだろう。曰く「プラグマティズムの核心は真なる信念を『事物の本生』の表象とみなすのではなく、うまくことをなさしめる行為規則とみなすところにある」。何が正しいかなんて考えるよりは、どうすればうまくことが進むかと考える方がよほど前進的である。

丸善でカート

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by 卓 坂牛

早朝のアサマに乗る。車内で佐々木敦『ニッポンの思想』講談社現代新書2009を読む。SETENVのI君が「これはまあ、今までのまとめ本ですよ」と言っていたので、積読しておいたのだが、手ごろな旅本が無かったので岐阜遠征のカバンにいれていた。読んでみたら、浅田、中沢、柄谷、蓮實、福田、大塚、宮台、東のスタンスが実感をもとに語られていて、分かりやすかった。9時に東京、丸善に寄る。オープンのチャイムと共に入店したので店には僕しかいない。丸善ではいつもカートを借りて、本を漁るのだが、狭いところや混んだ所には入りにくい。しかし今日は客がいないので、ビュンビュンカートを飛ばしながら、好きな所に入り込める。特に新書コーナーの奥など、いつもなら恐る恐る入っていくのだが、今日は気を使わずにすむ。いつもは行かない建築コーナーにも寄る。窓周り、枠回りだけの分厚い詳細図集があった。これはかなり使えそうである。写真、ファッション、社会学、哲学を巡回し、効率よくカートに放り込み、宅配を頼み事務所に戻る。東京はかなり暖かくなってきた。昨晩の長野も結構暖かかったが、やっぱり格段の差。荒木町のさくらも満開に近い。午後明日の甲府遠征の打合せ。腹減った。

前期輪読本を決める

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by 卓 坂牛

新年度最初の学科会議やら教授会やら。午後は留学希望の学生と相談。英語が使えて授業料が安いヨーロッパの国立大学。そう言えばウィーン工科大学なんていうのもあったなあ。今気がついた。夕方、今年度のゼミの輪読本を考える。今年は建築論と哲学、美学、社会学等を交互に20世紀の最初から通時的に読むことにする。最初はバンハム『第一機械時代の理論とデザイン』。久々に自分も読んでみたい。そしてヴォリンゲル『抽象と感情移入』を読みながらモダニズムの抽象について考える。次にバンハムを相対化する為にワトキンの『モラリティと建築』を読む。どうも在庫が少ないようだが小さな本だからコピーしてもよい。建築の倫理と言う面からマイアソンの『エコロジーとポストモダンの終焉』を読みながら建築の倫理性を考える。順番が逆と言う気もするが、ここで倫理を教科書的に知るために教科書である佐藤俊夫の『倫理学』を読む。ここで歴史に戻り、日本のモダニズム受容と言う意味で篠原一男の『住宅論』。続いてモダニズムを芸術から照射するためにクレメント・グリーンバーグの『クレメント・グリンバーグ批評選集』を読む。そして月並みだがポストモダンの教科書であるヴェンチューリの『ラスベガス』、リオタールの『ポストモダンの条件』を続けて読む。そしてもう一回60年代のおさらいとして磯崎新の『建築の解体』に触れ、いよいよ本格的なモダニズムの解体として多木浩二の『生きられた家』を読み坂本一成の『対話建築の思考』そして消費社会後の展望として上野千鶴子の『ポスト消費社会』を読む。という流れで前期は20世紀のおさらいをしたい。夕方学科の新年度会。今年も信大建築学科が前進しますようにと皆の心意気は高い。

キッズルーム

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by 卓 坂牛

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岐阜遠征最終日。白川を早朝出て高山に戻る。高山最古の商家を見る。吉島家同様一階の吹き抜けの周りに住宅がスキップしながら張り付いている。何故こういう構成なのかと言うと、どうも道路側の軒高を抑えるためのように思えた(本当かどうかはわからないが)。なかなか見応えがある。この商家に隣接して、民家を改修したピザ屋があった。お店の雑誌を見ると設計したのは小泉さん。いや実に面白い。ピザも上手い。ここに中庭をはさんでキッズルームがあった。ピザ屋にキッズルームと言うのがまた不思議な取り合わせ。誰も使う気配がないのだが不思議な空気を発していた。
2時ころの特急で名古屋に出て、のぞみで東京、そしてアサマで長野へ。名古屋からシナノで長野の方が早かったのだが、既に大分前に買ってしまった切符がありこの経路。7時間くらい電車に揺られていた。

合掌造りの曳き屋

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by 卓 坂牛

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岐阜遠征二日目。午前中高山の陣屋で1時間半説明を聞く。丘の上にあった大名屋敷は江戸の直轄領になった時に壊されそしてこの陣屋(役所、裁判所、お代官の公邸、などなど)が出来たそうだ。陣屋が当時の姿を残しているのはここ高山だけと聞く。屋根はすべて杮葺(グレードは3段階くらいあるようだが)、壁はしっくい、土壁、板壁いろいろである。午後世界遺産白川郷に向かう。高山からバスで50分(去年出来た道路で時間が短縮されたそうだ。それまでは2時間半かかっていた)。途中雪が舞う。もちろん現地にはここかしこに雪が残る。着いたところは巨大バス駐車場。観光バスの大群に世界各国の旅行者が乗っている。駐車場わきには合掌造りの食堂、土産物屋が並ぶ。まるでディズニーランドのようである。橋を一本渡るとこの俗な世界と一線を画し、本格的合掌造りが並ぶ。保存のために合掌造りの曳き屋なんて珍しいものを見た。丘の上に上がりこの集落を一望する。まるでテレビをみているようである。このまま帰ったら本当にテレビを見たような気分で終わったのだろうが、幸い合掌造りに一泊することができた。泊まり客のうち日本人は3割。いろりの煙で燻製になりそうだった。

吉島家

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by 卓 坂牛

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岐阜遠征に出かける。強風のためのぞみが新横浜でとまった。最近乗り継ぎのある電車に乗ると、雪や風のため遅れて乗り継ぎの電車に乗れない。案の定、名古屋からの特急に乗れず1時間後の飛騨号に乗る。高山に着いたのは2時半。Ofdaの伊藤君推薦の吉島家に先ずは行く。この柱梁組の壮大な吹き抜けはあまりに有名。どうして写真があんなに明るく撮れるのだろうと不思議に思っていたら大きなトップサイドライトがついていた。この吹き抜けはさておき、その周りに張り付いた部屋が面白い。5つくらいの部屋が50センチくらいずつ段々に上がっていくのである。まるでhouse saのようである。この空間の流動性って明治の人は意図してやったのだろうか?篠田桃紅の書画がいたるところに飾られ、イサムノグチのぼんぼりと剣持勇のラウンジチェアそしてboseのスピーカーからジャズが流れていた。ほー。和風モダン民家?

荒木町の桜の木の下で

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by 卓 坂牛

今日は春だ。嬉しい。ほっとする。冬は嫌いである。昔は寒いのが大好きだったのだが、、、、アメリカにいた頃、「東海岸で育っても年をとると暖かい西海岸に引っ越す人が多い」という話を聞いて嘘だろう?と思った。ロサンゼルスの常夏(春)の気候が生ぬるく感じられたから。しかし今ではアメリカ人の気持ちがよく分かる。
この陽気で荒木町公園の桜も4分咲きである。この小さな公園には桜の木がたった2本ある。そしてその桜の木の下には夜になると久保田千寿が一本置かれ、誰でもコップ一杯飲んで良いそうである。という話を昼飯食った店の主人に聞いた。なんとも粋なはからいである。
明日から岐阜方面へ遠征に行くので念入りに打合わせをした。いきおいスタッフのUさんといっしょになって基準法を読み解くことになってしまった。20年前に必死になって読んでいた排煙免除の告示。確認申請図にイロハニの色塗りしたのを思い出す。
事務所から荒木町公園の横を歩いて帰ろうとすると、なんとこの桜の木の下で超有名アイドルグループのAと今をときめく超有名アイドルのNSが宴会をやっていた。まるで映画の1シーンのようである。