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May 2010

時間的経過の生みだすものは?

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by 卓 坂牛

9時に丸善。40分本を物色。自宅に宅配。久しぶりに最新物価版も購入。9時48分のアサマに乗る。これは大宮、軽井沢しか止まらない最速アサマ。車中、暮沢剛巳の『ア―トピック・サイト』美学出版2010を読み始める。暮沢さんの著書は数冊読んでいたが、お会いしたのは先日の出版打ち上げの時が初めて。温和ないい方。青森出身とは知らなかった。午後の講義。今日はhistoryとmemoryを一度に行う。期せずして今日研究室にHistoric Houses in the Engadin Architectural Interbentions by Hans-Jorg Ruch Steidl 2009が届く。この本は建築家Hans-Jorgの作品集である。彼が事務所を構えるスイスEngadinにおける建築的介入(intervention)の記録である。6~7個の作品はどれも16世紀くらいの建物の改修なのだが、タイトルのinterventionが示すように単なるrenovationではない。どれも新しい何かが挿入されている。そしてその挿入物は理屈なく不思議な形をしている。しかしよくよく見ていると、もともとの16世紀の殻も現代的な合理的な視点からすると実に不思議な形をしている。それを非合理だと言うのは今見ているからであり、当時の視点からすれば合理だったのかもしれないし、合理などと言う視点は無かったのかもしれない。それは分からない。いずれにしても時の経過と言うのはこうした「不思議」を生み出すのである。古いものには経年的価値と歴史的価値が付着すると言われるが、それは意味論的な価値であり、モノそのもに目を目ける時そこにはこうした「不思議」が登場するはずである。そしてその不思議に異議を唱える者はいない。既存のものには文句を言えないのである。
夕方僕がコーディネートしている異分野レクチャーシリーズ2010の第一回。今日は農学部の北原曜教授を招いて森林についてお話頂いた。森の公益的機能など知っているつもりで情けないくらい無知である。森の最も重要な機能の一つが地表の侵食防止であるとは予想外である。それにしても木には実に多くの機能があるものだ。

上代ってなんだ

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by 卓 坂牛

昨日休館日で入れなかったジムへ。腰に負荷がかからないように注意してストレッチと自転車こぎ。午後事務所へ。昨日届いたガラスの見積もりに目を通す。ガラスだけの見積もりをとったなんて初めてだが、物価版の4倍から10倍の値段である。ガラスの上代ってこんなに高いの?12㎡の15ミリのガラス(2枚割)が125万ってどういうこと?開いた口がふさがらない。来週の不在中の指示をして帰宅。
風呂でエンツォ・トラベルソ柱本元彦訳『全体主義』平凡社現代新書(2002)2010を読む。この本は一昨日、昨日とアマゾンから2冊届いた。毎年同じようなことが数回起きる。T.S.エリオットは1929年の発言で資本主義に敵対するものとして共産主義とファシズムを位置付け後者の方が望ましいと言っている。当時ファシズムがこのような展開になるとは祖像されなかったのであろう。歴史の不思議である。風呂から出て松野弘『大学生のための知的勉強術』講談社現代新書2010を読む。学生指導の助けにと思ったのだが、書いてあることが余りに普通である。読むべきものは何もないのだが、逆に言うとこれだけ普通のことが入学してきた学生には分かっていないと言うことがよくわかって勉強になった。

建築家の職能を守らねば

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by 卓 坂牛

午前中ジムに行くべくあっちこっち用事を済ませて四谷のジムにたどり着いたら休館日。仕方なく待ち合わせたかみさんと昼をとる。午後八潮に行って新たな基本設計をする公園の敷地を皆で見る。広大である。打合せ後S氏は所用で帰り残りの面子で鐘ヶ淵に行く。鐘ヶ淵と言う場所は東京人でも滅多に行く場所ではない。そこにいい店があるということで探索。この辺りはかなり不思議な場所である。墨田区なんてめったに来ない。真黒な木造の古そうな居酒屋に到着。今日は建築家のトラブル話。皆お互いの脛の傷を知る。建築士という職能は、他の職能と比べて法的な位置づけがひどく脆弱なものだとある弁護士が言っていたそうである。まったくそうである。契約書が伝統的にあまりに貧弱である。これからはもう少しきちんと作らねば。

人間のアタマなんて99%は借用

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by 卓 坂牛

午前中早稲田の演習。今日は学生8人が10分ずつ発表。テーマは階級性⇔平準性、写真性⇔体感性である。写真性を発表してくれた学生(文化構想学部の3年生である)はコロミーナ等を引用しつつ、建築写真とは建築批評であるというまとめをしてくれた。これはかなり高度である。建築学科の3年生に同じ課題を出してここまで言えるだろうか?と考えてしまう。午後事務所に戻り仕事。今週中に送られて来ると言う資料を待っていたが届かない。諦めて帰宅。
帰宅後上野千鶴子のエッセイを読み続ける。「本棚」というエッセイにこんな文章がある。「にんげんのアタマのなかは、九九パーセントまで他人のことばとアイディアの借用で成り立っている。オリジナルは残りのわずかな部分だけ。・・・・」これを読んで僕の事務所に集まる人文系の若き学者の卵が似たようなことを言っていたのを思い出す。「論文なんて引用の継ぎはぎです、これにオリジナリティを求められてもそんなのは無理ですよ」そう論文と言うものはそうなる運命にある。99%は借用というのは論文頭の上野の言葉であろう。少なくともこのエッセイは上野のオリジナル以外の何物でもないのだから。しかしそうは言っても人は言葉に限らず、音だろうと形だろうと生まれた時から周りの環境から吸収して育っているわけである。そうしたものを先ずは真似ることで成長する。そして芸と名のつくものであってもひたすらコピーするのがことの始まりである。音楽をやっていた僕もひたすらレコードの通り弾けるように練習をした。もちろんそのレコードは数枚あってどれをコピーするかはよく考えてはいたが。書道をやっているかみさんはこの年になってもとにかくコピーである。さてでは建築はどうだろうか。もちろん僕らはやっていることをコピーだとは思っていない。「私」であると自負しているかもしれない。でもそれは疑わしい。99%とは言わないが、オリジナルなんていうものはほんの少しだろうと思う。コルビュジエだってカウフマンに言わせればルドゥーからの流れが指摘されるわけである。上野千鶴子が99%であるのに僕ごときが90%と言うわけにもいかない。

上野千鶴子のエッセイほろ苦い

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by 卓 坂牛

一日事務所で荒さがし、構造からも設備からも調整項目が続々と送られて来る。電気の容量問題がどうしても解決しない。困ったなあ。高圧受電にならぬようあれやこれややっているのだが、IHが多すぎてどうにも納まらない。施主と電話で相談。
夜上野千鶴子の新刊『ひとりの午後に』日本放送出版協会2010を読む。おっと発行日が4月25日(my birthday)である(なんていうことはどうでもいい)。この本はフェミニスト上野の闘争的な本ではない。上野の数少ない(というか僕は見たことも読んだこともない)イデオロギーを感じさせないエッセイ集である。それも、NHK出版が彼女に書きおろしをお願いするために、「おしゃれ工房」なるNHKの女性向けモノづくり番組のテキストブックに連載をさせてそれをまとめた本である。「おしゃれ」などというフェミニストが最も嫌いそうなタイトルを冠した雑誌に上野が連載したこと自体驚きだが、その内容はそれ以上である。
あとがきで上野はこう言っている「私は研究者だから『考えたことは売りますが、感じたことは売りません』とこれまで言ってきた。・・・・・この本の中でわたしは禁をおかして感じたことを語り過ぎたかもしれない。・・・・札付きのフェミニストとしての上野など知らず、予断も偏見もないだろう『おしゃれ工房』の読者との出会いも、しあわせだったと思う」この言葉もなんとも上野らしくない優しさに満ちている。
今まで彼女の「考えた」ことを書いた書物は多く読んできた。それはそれでもちろん面白かった。しかし「感じたこと」はそれにも増して素敵である。人間ってこういう幾つかの側面が見えてくると魅力が増すものである。

設備と構造のとりあい

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by 卓 坂牛

午前中昔の建物の検査に伺う。FRP防水がかなり傷んでいる。しかし一方家の中はとても整然と使って頂いており設計者としては嬉しい限り。行き帰りの車中ティナ・シーリグ、Tina Seelig、 高遠 裕子訳『20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義』阪急コミュニケーションズ2010を読む。さすがアメリカと思うような授業がある。「ここに5ドルある。これをつかって2時間以内にこの金を出来るだけ大きくする方法を考えよ」。と問われてなんと答えるだろうか?5ドルを増やそうとすると何時まで経ってもいい答えは出ない。鼻から金は無いものとして考えると名案が出る。例えば、予約殺到の週末レストランの予約を完全に抑えて現地でその権利を売るとか、、、、なるほどと思わせる。しかし半分読んだらもう飽きた。この本アマゾンでは全てのジャンルで売上一位のようだが、それほどの本ではない。頭の体操である。事務所に戻るとちょうど同じタイミングでテーテンス事務所から3人来所。8時まで最後の調整打合せ。ダクトの貫通をしつこくチェック。もう何度やっているのだろうか?そろそろ飽きた。この期に及んでプレイルームという少し大きな部屋の空調の設置位置が変更となった。これまでワタリウムの天井のように格子梁の中に空調機をはめ込もうと梁サイズをさんざん変更調整してきたのだが、「たれ壁部分に壁埋め込みでやったらどう?」とボスのMさんがぼそりと言う。そりゃすばらしい名案だ。しかしこんな名案があるなら早く提案してよ(涙)でもとりあえずデザイン良くなった(嬉)。

マイクロポップ以降?

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by 卓 坂牛

携帯にロンドンの親友からメール。出張で東京へ行くので飯を食おうとのこと。先月来る予定が火山の爆発で来られなくなっていた。それにしてもメールは距離感を感じさせない。長野もロンドンも殆ど等価だ。午前中市役所主催の景観賞建築ツアー。作品解説係で同行する。年に三回やるのだが昨今新しい建物があまり建たなくなり見るものが無くなって来た。某建築雑誌も掲載するものが無くなって来たと嘆いていたが、日本は大丈夫だろうか?昼大学にもどりサンドイッチ食べながらひたすらメール。他大学の修士受験希望者のメールが溜まって探すのに時間がかかる。その都度返せばいいのだがある程度溜まったところでと思っているとPC内で紛失する。午後の製図を少し見て学内委員会に出席。あっさり終るかと思ったが2時間もかかった。
夕方のアサマに乗る。車中美術手帳の6月号をめくる。アーニッシュ・カプーアのロンドン五輪のモニュメントに驚愕。なんだろねこの大きさ!福住廉「『芸術は可能か?』はどこまで可能か?」を読む。マイクロポップという言葉が市民権を得ているのに驚きつつも納得。マイクロポップは松井みどりが著書『マイクロポップの時代』parco出版2007の題名として使ったのが最初だと思う。フラット以降の個別化を指した言葉。それが美術批評で既に認知されているようである。最近個がますます個化することを実感しているがアートもそういうことになっている。今月号のBTの特集は「新世代アーティスト宣言」である。全部で70人くらいの作品が並べられている。そのうち14人の比較的長い文章もある。それらをさーっと読むと、殆どの人が自分ワールドにいることを感じるが、その中で一人異質なのは田中功起。彼は自分ワールドのことは書いていない。そうではなくて自分が学んだ世界、あるいは自分が組んだ仲間世界で得られたことを全否定して自分を再構築する必要はないと言う。なぜなら学びつつも、組みつつもそこに自分は少なからずいたからである。だからそうした文脈を正確に解きほぐしつつ自己と他者を見極めようとするのである。これは登場するアーティストの中で田中が比較的上のジェネレーションに属すると言うことに由来するのかもしれない。まあ理由はどうあれ、僕には彼の考えになんとなく賛同できる。マイクロポップ以降の可能性?

建築家は社会の言葉に追いつけるのか?

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by 卓 坂牛

今日は土砂降り。雨は大嫌い。朝一のアサマに乗る。車中、奥村倫弘『ヤフートピックスの作り方』光文社新書2010を読む。ヤフートピックスとはヤフーニュースの最初の方に13文字で並べてあるニュースのサマリーである。僕は長野では新聞をとっていないのでヤフーニュースにはお世話になっている。あのトピックスを作るのに実に様々な試行錯誤や戦略があることを知る。午前中講座会議。博士論文の審査の打合せ。終って研究室に来客。昼食抜きで午後の講義。今日は『言葉と建築』のfunctionの章。この言葉が「使い勝手」という意味を帯びたのは19世紀も最後の最後。ワーグナーが『近代建築』で目的建築論を提示してからである。そんな言葉に僕らは日夜振り回されている。3時からゼミ。今日の輪読は土居義岳さんの『言葉と建築』久しぶりに読ませていただいた。日本にはフォーティーのような本がないなんて軽率によく周りの人に言うのだがここにしっかりある。GAの連載として書かれたものをまとめた本なのでそれなりにジャーナリスティックな読ませる構成ではあるが、言おうとしていることは同じである。建築の評価はその時代の広くいえば「エピステーメー」狭くいえば「言葉」によって規定されているということである。二つの『言葉と建築』を通読しながら僕らは言葉の呪縛からどうしたら抜けられるのかを考えさせられる。先日の伊東、坂本、富永鼎談も見方を換えればここに来る。モダニズム時代のエピステーメ―から抜け出てどうしたら社会と共有できる言葉を発見できるかということを皆さんおっしゃっていたように思う。しかるに社会の言葉は凄い勢いで変化する。それに建築の変化はついていけないでいるというのが実情のようにも見受けられる。建築がやっと変った頃には言葉はすでに違うところに行っている。そう思うと現在の社会と何かを共有しようなんて言っていたら何時まで経っても追いつかない。先回り、あるいは変わらない何かを目指さないと同じ地点に立つことはできないのではないだろうか?

ティンバライズ建築展

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by 卓 坂牛

午後事務所で詳細図の打合せ。見積もり事務所に遅れて流し込むのでスケッチでよいので落ちの無いように指示。夕方スパイラルで行われている「ティンバライズ建築展」http://eeg.jp/HKZ4fを覗く。学会のバイオマス委員会で木造中高層の話をしていたのだが、先に大々的に行われてしまった。でも充実した楽しい企画である。ここにはOFDAのパートナーの伊藤君のデザインしたテーブル「サンブスギの家具」http://eeg.jp/6LZ4も展示されている。デザインプロジェクトでは、池田靖史研究室のものと、佐藤淳さんの構造設計によるSALHAUSが美しく印象的だった。見終わったら6時。ワタリウムは未だ開いている時間。外苑前へ地下鉄で移動。ナカジの奥さんのガムテープバッグの陳列を見る。http://eeg.jp/lLZ4これが噂のガムテバッグ。是非作ってみたい衝動にかられる。美術館で行われている「落合多武展」を見る。熱帯雨林の中で紙面を見ずにひたすら描かれた色鉛筆スケッチが魅力的だった。

個がますます個化する

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by 卓 坂牛

午後からA0勉強会。ついに読み合わせ2回目の最終章。Geoffrey Scott `Academic Tradition`。年内には方が着くだろう。
夕方スタッフと打ち合わせ、見積もり事務所への質疑応答。夜、2月に行われた建築イベント6Qを主宰した学生(いやすでに修了生だが)が4名来所。イベントの続きとしてのインタビューを受けてから食事。あの時発表した修士2年生6名のうち就職したのは3名だそうで、後は研究生、プ―太郎、海外研修。とのこと。就職が厳しいのか、社会へ出ることへ魅力が無いのか。面白い。また6名は三つの異なる大学だったのだが、彼らの建築的興味を改めて聞いてみると。大学毎で(あるいは個人個人で)全然異なる。これだけ興味が異なる人間が一緒になって6Qのようなイベントをやっていたことが面白い。昨日も書いたが個人個人の目指すものがますますばらばらになりつつあることが良く分かる。4名のうちの一人が来月からブエノス・アイレスのスーパー・スザカという事務所で働くそうで、情報交換。