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May 2010

マス感性

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by 卓 坂牛

午前中早稲田の演習。今日のテーマは階級性。ファッションと建築を階級と言う切り口で19世紀後半から現在までパラレルに語る。今日の一冊はソースティン・ヴェブレンの『有閑階級の理論』筑摩書房。流行は上流階級から下層に向かって滴るように伝搬するという話。階級ごとにスタイル化されたファッションも建築も近代市民社会の成立を期に同じスタイルを大量に供給せねばならなくなった。ここに求められたことは安く、早く、大量にである。だからモダニズムとは文化の牛丼化であると説明したのだが、それは言い過ぎか?
午後事務所に戻りクライアント電話で細かな入札スケジュール調整。いよいよあせる。来週からOBナカジに2週間くらい助っ人をお願いする。
夜、佐々木俊尚『電子書籍の衝撃』を読み終える。実はだいぶ前からkindleが欲しいのである(未だ買ってないが)。理由は単純で、多くの本を持ち歩けるから。どれだけ持ち歩いても数百グラムである。長野東京往復の身には重いカバンは応える。加えて検索機能はたまらない。ただ持ち歩きたいのは建築洋書の定番というようなもの。サマーソンとかバンハムとかワトキンとか最近ならヴィドラーとかコロミーナ。だがそう言う本は未だ電子ブック化されていない。でもそれは時間の問題だろうから先ずはこのタブレットを横に置いてみたいと思っている。
なんていう気持ちがあるのでこの本を読んでみたのだが、電子書籍の意味する別の大きな問題提示に少なからず驚いている。それは電子書籍のプラットフォーム、例えばアマゾンではもはや二万円くらいでISBNを取得すれば無料で電子書籍が出版できるのである。後は勝手に定価を設定して売れれば何割かが自分に入ってくるのだ。こうしたself-publishは既に音楽では当たり前に行われている。こう言う時代の文化とは一体どうなるのか。ここで著者の面白い指摘があるのだが、大衆消費社会は85年くらいから分衆の時代、感性の時代へ移行したと言われるが実は90年代終わりくらいまではずーっとマス感性だったと言う。それが上記self-publishやself-distributionの時代に入って本格的に個の時代になって来たのだそうだ。そして今後一層マス感性が淘汰され個の感性が強化されると予想するのである。表現者も受容者もフラット化するということである。
こんな話を聞きながら、先日の建築巨匠三人の鼎談を思い出した。社会、世界、大地というあの発言。建築外と繋がりたいというあの発言である。あの建築の外とは一体何なのか?大衆消費社会にどっぷりつかった巨匠たちが建築の外を指す時その念頭にあるのは90年代のマス感性なのでは???と思えてきた。いやそういう俗っぽいことではないにしろ。多くの人通ずる感性であることには変わりない。しかるに現在建築の外は上述の通り一枚岩ではないのである。そしてどんどん個別化されていくのである。数多くの漂流する個性化した小さな宇宙である。その時多くの人に共通する感性とは何を指すことになっていくのだろうか?????

甲府遠征ばたばた

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by 卓 坂牛

朝一でとてもイヤーなメールをいただく。何でこういうことになるのかいささか理解しがたいのだが。少し冷静に対応せねばならないので一日考えることにする。8時半のかいじで塩山へ。スケジュールの打合せをしながら最終図面の理事長への説明。午後甲府へ移動して現説。施工者はある方のご紹介なのだが、とてもしっかりしていそうなので少しほっとした。言説後雑談をしていたらクライアントの姪が早稲田の文化構想学部で昨年僕の演習をとっていたとのこと。昨日も感じたが世の中狭い。悪い評判はなかったようでほっとした。夕方のアズサで新宿へ。事務所と連絡をとったスタッフのT君から、設備の大きな問題が発生したことを知る。一難去らずに又一難。最近問題が累積していく。どうして今頃???設備事務所に℡。スケジュールが厳しいのは分かるが、今になってこんな問題はないでしょう。と所長さんに解決方法を考えてもらう。事務所に戻ると解決法が連絡されていた。おいおい最初からやってくれ!!帰りの車中佐々木俊尚括『電子書籍の衝撃』ディスカヴァー・トゥエンティワン2010を読み始める。電子書籍の未来はI-podを見ていると予測がつくと始まる。そうかもしれない。もはや買うならI-padと思っていたがkindleの利点も多々あるようだ。

生きられた家

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by 卓 坂牛

午前中JTの撮影。JT担当のNさんがスタッフのUさんと大学院の同級生で鉢合わせ。世の中狭い。クライアントの都合で撮影が一年ずれた。その間家の中は大幅に変わった。不要なドアは外されたし、家具も予定外なものがいろいろ入ったり。「生きられた家」となっている。撮るにあたっては家具など少々移動した。さすがにそのまま撮る訳にもいかなかった。そう考えるとHOUSE SAって改めて凄いと思う。生活そのまま撮ってあの姿。インクルーシィヴに造るって並大抵ではない。
その家具の移動など張り切ってやったら腰にきた。自分は力持ちなんて思っているとこういうことになる。事務所に戻り整形外科に行った。レントゲン撮ったら実にきれいな背骨で椎間板も傷んでいないと言われた。ただ腰の左側がちょっと炎症を起こしているとのこと。過信しているとこうなるよと注意された。毎日ストレッチしなさいと言われ炎症止めをもらった。事務所に戻り5時から金箱事務所と打合せ。設備のダクト、パイプの経路の納まりなので問題が起こる度に設備に電話。この際テレビ会議でもしたら手っ取り早いのか?アルプとやった国際テレビ会議を思い出す。痛みがひどく9時ころ中座して後はスタッフに任せて帰宅。

南米のものさし

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by 卓 坂牛

朝ゼミ。m2の修論のテーマ、引き算の建築、巣の建築化、生命、視覚的連続性、4つ。今日は時間がなくそれぞれの今後やるべきことのアドバイス。2コマ目はテレビ会議。長野、上田、伊那、松本を繋いで行う。便利と言えば便利だが、コミュニケーションはしずらい。午後3年生の製図エスキス。TAもエスキスしないと終わらないというのはちょっと厳しいねえ。6人がかり。6時7分のアサマで東京へ。車中読みかけの『中南米が日本を追い抜く日』を読み終える。その中にこんな話があった。日本の食の話である。日本の食卓に洋食が大々的に登場するのは戦後。それから半世紀でアメリカンスタンダードに染められたのだが著者はこう言う「そして今、日本は金融、市場もアメリカンスタンダードにあわせていこうとしているようにみえる。世界には、もっと違うものさしもあるのだが」。僕がアルゼンチンに言った時に感じたのはこれにかなり近い。もちろん世界には数多くのものさしがある。中国だって、インドだって、、、、しかしdeveloping countryのものさしは興味深いがそう簡単に受け入れられるものではない。それに比べれば欧米のものさしは受け入れやすい、というより既にかなり受け入れてきた。では南米はどうだろう?南米のパリと言われるブエノスアイレスだけれどパリとは全然違う。食べ物も町も建築も気候も経済も、、、、ものさしが違う。それは日本にすんなり受け入れられそうでいて欧米とは違う。欧米ほどきちきちしていないゆるーい感じである。このものさしはこれからの僕(ら)には是非欲しい何かを持っている。その意味で欧米にかぶれて成長してきた日本がもっと自分たちを相対化するのに欠かせないのが南米のものさしだと思うのである。
ところでこの本は三菱商事の社員の情報を朝日新聞記者が再構成したもの。情報はすべて三菱商事である。それでふと思い出した。その昔サッカー部の同窓会で名刺交換した先輩が三菱商事の偉い人だった。その方は日本アルゼンチン友好協会の会長もしていたし、その昔日本にサッカー番組が無い時に、「三菱ダイヤモンドサッカー」という番組を立ち上げスポンサーとなり世界のサッカーフィルムの買い付けまでしたという。凄い先輩もいるものだと思っていたが、この本を読みながら、南米最大の情報網は実は国でも新聞でもなく商社なのだということを実感した。

エコロジーを批判せよ

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by 卓 坂牛

9時に丸善に行く。誰もいない本屋の快感を一度味わうと忘れられない。走るように欲しい本をカートに突っ込んで宅配する。その中の一冊津田大介『Twitter社会論』洋泉社2009だけ持ち帰り,車中読む。誰かに勧められて最近twitterをやり始めたのだが(tsakaushi)昔の友達に会えたり(それはmixiでもそんなことがあった)、ブログをリンクさせるとそれへの反応を頂けたりと少しその効能を知り始めた。僕が呟くのはもっぱらパソコン上。本当は携帯で何も出来ない時にするものなのだと思う。その方が臨場感ある。電車待ちしている3分間とか、信号待ちしている1分間とか。そういう、ひょっと空いた時間の呟きこそ呟きだろう。
午後は言葉と建築の講義、今日はform。夕方教員会議。ゼミ。今日の輪読はジョージ・マイアソン『エコロジーとポストモダンの終焉』である。ワトキンの『モラリティと建築』を読んだ後なので、現代のモラリティとは何かでこの本を読んでみた。もちろん現代のモラリティとはエコロジーのことである。しかし僕がこの本を通して学生に分かって欲しいことはこの抗えないエコロジーにひれ伏せよということではない。そうではなくむしろ全く逆のことである。モダニズム全盛期にモダニズムのパイオニアたちはモダニズムのモラリティである、機能主義や合理主義に100%身をささげていたわけではなく、50%はまったく半モダニズムを標榜していた。その批判精神がモダニズムのモラリティを昇華させたのだと思っている。モダニズムのパイオニアたちの後の中だるみ期間ではこの批判精神が失われた結果、建築はひどく堕落した。エコロジーも同じであろう。抗えないからこそ抗う必要がありそれを批判的に昇華しないといけないと思っている。加えて正確にその実体を見極めないといけない。

更生工事

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by 卓 坂牛

柳美代子『住まいと女―女性から見た日本住居史』京都松香堂1983を読む。フェミニズム建築論のはしりかと思ったが、もう少し機能的な視点だった。続けて石田博士『中南米が日本を追い抜く日―三菱商事駐在員の目』朝日新書2008を読む。昨夏アルゼンチンへ行く時日本に中南米の情報が少ないものだと思った。著者は朝日の記者だが朝日新聞の駐在ンは南米はサンパウロに一名しかいないそうだ。因みに中米はロサンゼルス支局がカバーする。一方商社員は新聞屋より駐在員の数が多い。だからこの本は朝日のデーター網ではなく三菱商事駐在員の目から見た中南米を朝日の記者が再構成した本である。
朝日より三菱商事の社員数の方が多いと言うのは面白い。社員の数はその人が生み出す利益によって決まるということか。中南米ではニュースヴァリュー(情報価値)は小さいが、マテリアルヴァリュー(モノの価値)は高いということである。
午後事務所に行き打合せ、屋上階から、階毎に、構造伏図と設備伏図と平面図をテーブルの上に置き目をぐるぐる回しながら、雨水配管、雑排水管、汚水管、そして換気ダクト、空調ダクト、の梁貫通をチェックした。4時間くらいかかって一通り終了。そう言えば空調ドレインのルートを確認し忘れた。
7時半からマンションの理事会。今年は排水管の「更生工事」を行う。古くなった排水管を直す方法は二つある。一つは取り替える「更新工事」もう一つは管の中に樹脂を噴霧して錆び穴をふさぐ「更生工事」である。基準階が同じでpsが真っすぐ通っているような集住では排水管をそっくりそのまま取り替えやすいのだが、僕のマンションは各階のプランが異なるのでpsが縦に通っていない。パイプは天井裏で横引きされ、加えてコンクリートへの打ち込み箇所が多く取り替え不能である。したがって「更生工事」とせざるを得ない。この工事は供用部から全ての工事を完結できず、専用部内で四日程度は工事が必要となる。そのた居住者に在宅してもらわないと仕事ができない。すでに昨日で3回の説明会を行い20日の最終回を入れると出席が三分の二くらい、連絡が取れない人は4名程度と結構優秀な成績となっている。工事の次の議題は決算報告。数字が並び始めると眠くなりお腹が鳴る。終ったのは10時。理事の中では僕は若い方なのだが皆さん元気である。

伊東、坂本、富永鼎談

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by 卓 坂牛

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午後四谷駅のジムに行ってから南北線で大岡山に行く。東工大のテックフロントのホールで学会が主催する伊東、坂本、富永鼎談を聞きに行く。ぎりぎりに会場に着いたら満員だった。東工大の諸先生に加え、首都大の小林さん、京都の田路さん、工芸大の市川さん、東大の岸田さんなどがいらっしゃっている。
鼎談はそれぞれの30分のショートレクチャーを行った後、奥山さんの司会でディスカッションを行うというもの。伊東レクチャのタイトルは「抽象性+批評性をめぐって」。高度経済成長の明るい未来が万博とともに終焉して、抽象+批評性の建築が磯崎、篠原の主導で登場した。それについて行った若い建築家は徐々に社会に組み込まれていない自分を感じ始めた。社会はまさにこの「抽象性+批評性」を弾き飛ばしてきた。それゆえ社会に組み込まれていくためにはこの「抽象性+批評性」を後景化せねばならないtと語る。続く坂本さんは閉じた箱を開くことをやってきた。その目的は自由の確保であり、それによって建築が世界と繋がる可能性を探りたい。そして世界を取り込むためには建築空間というよりも、雑多なもモノを受け入れる場を作らなければいけないと言う。富永さんは自らが行ってきた3つの手法として「内なる空」「コルビュジエの日本化」「大地の空間」を説明。現在その大地性に惹かれ、それは建築をとりまく大きな環境との連続性であるという。
3人の話にはある世代の共有する感覚が感じられた。それは伊東さんの社会、坂本さんの世界、富永さんの大地という言葉が共有するニュアンスである。それは建築の外へ繋がる関心である。そしてそこへ行くための方法として建築の内的論理(理念)の後景化と人やモノの前景化が挙げられた。
建築はギリシアの時代からイデア(理念)とモルフェ(形)ヒューレ(質料)で出来ていると言われてきたし、それは今でもそうずれていない。イデアを唱えるプラトニズムは中世一休みし、ルネサンスのネオプラトニズムとして再来する。そうしたイデアをひっさげて登場したのが建築家であり、イデアを語ることによって建築は熟練技術から自由学芸、「学問」へ仲間入りもしたわけである。そもそもイデアを語るのが建築家でありイデアを語らないのであれば石工でよい。中世へ逆戻りするのである。信大でも建築はモノ(モルフェ、ヒューレ)でありイデアに興味はないと言う学生が多い。そのせいか去年も修士を終わって大工になった学生が二人いた。建築の中世化である。
これは最近の傾向なのだろうが、イデアを語らないというのは一つのポーズである。イデアを語らない建築家は存在しないのである。イデアを語ることが建築家の定義なのだから。秋のワークショップで日本に来るアルゼンチンの建築家からもらった課題がこう始まる「物の定義に関するフィールドは二つの重要な側面と関係しています。一つの側面は「本質」という概念と関係しています。もう一つは、その本質の具現化ということです。イデアとしての本質は、全ての建築作品の創造のために重要な基盤であり、欠かすことのできないものです」。建築のイデアとは西洋建築の伝統の中では不滅だと思われる。そう言うものが簡単に無くなったり出てきたりするのが日本である。とても面白い現象である。イデアとともに建築家が消滅することは考えにくい、イデアその後というのがあるはずである。

就活

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by 卓 坂牛

午前中早稲田の講義。もう5回目なのに初めてとか2回目とかいう学生がいたりする。理由は就活。リクルートスーツの学生が結構いる。なるほど就活の弊害と言うのはこういうことか。うちの大学だと4年になると単位は取り終っていて残りは卒論という学生が殆どなのであまり気にしたことが無かったのだが、他の大学では4年になっても単位とるんだ!!結構びっくり。曙橋に戻りランチとりながら文芸春秋のANA社長の記事を読む。JALへの公的資金を入れた無節操な再建への批判が書かれていた。僕はJAL経営悪化の理由の一端が無計画地方空港への就航にあるのだと思っていたが、それはどうも誤解のようである。JALはそうした地方へ殆ど就航しておらずむしろANAの方が飛ばしているのだそうだ。1兆円もかけて再建するからには大鉈を振るってもらわないと国民はやってられない。事業仕分必死にやっても7000億程度だというのだから。
午後1週間追っかけまわしていた下請け業者とやっと連絡がとれた。下請けと言ったってとても大きな会社なのにこんな無責任なことでいいのかと呆れる。建築業界が土建屋と馬鹿にされるのはこういう無責任が横行するからだ。その後、昨日見られなかった設備構造図のレビュー。なんだかまだ落ちがあったり見にくかったり。飯を食ってからもう一つのプロジェクトの見積もり質疑と足りない図面のリストアップ。見積もり事務所には先週一般図、仕上げ、建具、矩計図等を送ったのだが金に関わる詳細が出来ていない。とりあえず一番大きそうな駐輪場の上屋のスケッチを描き構造に送るようにUさんに指示。特記仕様書は今回は付けないで図面に全て書き込む方針にする。その上で落ちている点をリストアップ。図面に書くことと見積もり要項書に書くことを仕分。なんてやっていたら10時になってしまった。アトリエワンでやっている貝島さんの出版を祝う会に行こうと思っていたが、お開きの時間になってしまった。電話をしたら案の定彼女のしめの言葉の真最中。お祝いとお礼を伝えて電話を切る。

日建の査図は凄かった

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by 卓 坂牛

午後事務所で昨日の塩山の打ち合わせ内容を聞く。慣れぬ入札スケジュールにあたふたである。現状の問題を洗い出すと構造と設備の納まりの確認ができていない。残り一カ月は戦争である。夜は甲斐の家の図説前の図面レビュー。意匠図を見終わったところで根が尽きた。これ以上続けると見落としが出そうなので続きは明日に回す。昔日建の査図(図面チェック)ではちょっと大きな物件では2~3日連続で計30時間くらいやっていた。監理部長「鬼の三宅」という方が図面を真っ赤にしてくれた。特に仕上げ表と建具表の一枚目は一言が膨大な金に影響するので、それぞれ2時間はかかった。三宅さんの集中力はすごかったなあと感心する。真っ赤にされた図面は全てどう直したかを番号をふって図を付けて報告書で出す。その報告書がA4で十枚は軽く超えていたのを思い出す。辛かったけれど勉強になったし、現場で助かった。あれだから日建のクオリティは保てていたと今更ながら感心する。あれに負けじとやっているのだが三宅さんの域に達するのは一生無理な気がする。

上海万博

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by 卓 坂牛

午前中後期のアルゼンチンワークショップのコンテンツとタイムテーブルの案を作りブエノスアイレス他関係者にメール。ワークショップ開催中市内で展覧会をしようと言う学生の提案に乗り、どこかの蔵を借りられないかと検討中。午後4年の製図。エスキス前に『フレームとしての建築』を教科書に実際の建築の設計苦労話を披露しようと思ったのだが教科書持ってきている学生はいませんでした。いやー参った。こいつら研究室に入れなければよかった。研究室の先生が本出したら買ってすぐ読もうと思わないのかなあ?先生の考え方をいち早く知りたかったなんていうのはもはや昔話なのだろうか?まあ知る気が無い人には無理に教えることもないと考えよう。
帰りのアサマで週刊誌読んでいたら上海万博の情報。アゲル記事があれば、サゲル記事もある。後者の中に入場者が激減して終わるころには人がいないだろうなんて揶揄しているものがある。その理由は①まだ出来ていないで工事中。②汚い。③場内の植栽で用を足す。うううう。思い出す自分の現場。全てが当てはまる。万博の中には見たいパビリオンもある。特にイギリス館。8月にはまた現場に行くことになりそうだが、イギリス館見るために会場に行く気にはなれない。