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May 2010

現代のヴァザーリにならないように

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by 卓 坂牛

午前中のゼミ。先週は工事で窓が開いていて寒いし、今日は引っ越し業者が走り回っていてうるさい。教育施設なのだから大学の施設部はもっと気を使って欲しいものだ。午後製図。エスキスは楽しい時間でもあるのだがエネルギーを消耗する。その昔、香山先生が明治大学の退官パーティで「製図は闘い。戦う気力が無くなったので辞めます」とおっしゃっていたのを思い出す。
夕食後ハンス・ベルディング元木幸一訳『美術史の終焉?』勁草書房(1987)1991を読む。ここで美術史と言っているのはヴァザーリ流の美術史のことである。それは「良きものからより良きものを、より良きものからもっと良きものを区別する」美術史である。つまり美術がある進歩を遂げていくと言う史観であり、そうした考え方の終焉を言っている。ではそうではない美術史とは何かということについては明確な回答は避け様々な可能性を語っている。今時進歩的美術史観なんて!と馬鹿にしていると足元をすくわれかねない。我々は建築を語る時にでも、これよりこれはいいと言う時にそれはある尺度を設定してその上での進み具合を言っている。そして往々にしてそんな尺度を我々はそんなにたくさん持っているわけでも無かったりするではないか!!!いつの間にか現代のヴァザーリになっている自分に気づかないだろうか?ベルディングの言葉を肝に銘じておかないと。

感応する空間

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by 卓 坂牛

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yellow room by ofda 2008
朝から学科会議。11時ころ終り午後の講義のテクストを読む。『言葉と建築』のフレキシビリティ。GW明けの最初の授業は久しぶりで楽しいような、疲れるような。その後ゼミ。今日はワトキンの『モラリティと建築』。五十嵐さんがこの本を読んで建築史を相対化できたとどこかに書いていたような気がするが、正にこの本をバンハムの次に読ませているのはそういう意図からである。歴史は一つの虚構であり、その数は限りなくある。ゼミ後の1時間設計はベンチューリの母の家を題材に、母の家を改造して別のメタファーを作れと言うもの。母の家は言わずと知れたブロークン・ぺディメントである。そして意図的に表層的である。そこでもっと日本人にも通用するメタファーで3次元的な空間を作れという課題を出してみた。1時間後スケッチが届く。「メタファー」なんてなんだかポストモダン時代に逆戻りしたような課題だが、80年代のメタファーとは異なるもっと空間的感応的メタファーを期待した。すると、なかなかそれに応える解答がある。ちょっと嬉しい。なんでこんな課題を思いついたかというと、もちろん相手がヴェンチューリだということはある。装飾を研究テーマとしているということもある。しかしそれに加えて、先日頂いたおはがきにも影響されている。それは拙著『フレームとしての建築』を謹呈した桐敷慎次郎先生から頂いたものである。先生は拙著をご覧になられ、あの中で一番興味深いのはyellow roomhttp://www.ofda.jp/sakaushi/works/type/06other/03/index.html#であり、今後もっと装飾の研究をすればよいとしたためられていた。yellow roomは文字通り黄色い部屋(茶室)なのだが、5色の黄色を塗り分けて人間の色彩知覚の閾値に挑むような作品なのである。桐敷先生の言葉は短くその真意は計りしれぬが、あの感応的な空間に興味を示してくださったことが嬉しく、そうした空間の可能性を探りたい気になってきたところである。そこで今回の課題もあまり理性的なものではなく、感覚で分かり作るということを考えてみたのである。

地方コミュニティ

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by 卓 坂牛

スタッフからメールで質問がきたので夕方事務所に。僕のチームは全員いた。これで彼らはGW中完璧に無休。しかし、明日見積もり事務所に図面を渡すというのに、今日やっと届いた構造図の基礎が見事に布基礎になっている。数週間前に届いた構造図が二重スラブで基礎底が地盤の関係で2メートルも深かった。こりゃちょっと勿体無いと思って、できる限り布基礎にして欲しいとお願いしていたのだが、それがよりによってこんなぎりぎりに回答が来るとは。断面から矩計から大量に直しが発生する。間に合うだろうか?
心配しながらアサマに乗る。読みかけの広井良典の『コミュニティを問いなおす』を読み続ける。彼のコミュニティの定義は二つあって、一つはコミュニティには外部があることもう一つはその外部に対してコミュニティはアプリオリに開いているということ。そして、コミュニティの中心について語る。それは歴史的に3段階あり、伝統社会では神社、寺、次の市場化産業化社会では学校、商店街、文化施設、そしてポスト産業化社会では福祉施設、大学、再び神社などのスピリッチュアル施設だそうだ。そしてこういう施設はコミュニティが外部と繋がる場所ではないかと推論する。外部と繋がるコアがコミュニティには必要という考えは賛成である。地方主義の最大の問題はその内に閉塞することである。閉塞した地方に未来はないと思う。長野で考えるとスピリット施設善光寺、大学施設として信州大学がある。これを利用しない手はないのだろう。もちろんこちら側にコミュニティコアとしての自覚が必要なのは言うまでもないのだが。

三越の猪熊

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by 卓 坂牛

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僕が良く見てい東京美術館のホームページがある。最近それを使っていなかったのだが(最近は東京アートビートを見ている)、何を間違えたか今日それを見たらオペラシティのアートギャラリーで「6+(シックス・プラス) アントワープ・ファッション」が6月までやっていることになっている。そう言えばアントワープは去年もやっていたけれど見られなかったなあなんて思ってかみさんと初台に行った。「あれ?おかしい」ギャラリーでは「猪熊弦一郎展」をやっている。ICCかしら?と思って行ってみるとICCは閉まっている。ギャラリーの受付で聞いたら「アントワープは一年前にやってました」と申し訳なさそうに言う。ああ、、、、あのホームページは一年前から止まっているわけだ。良く見ず来たのが僕のミス。ここまで来て帰るのもなんなので「猪熊展」を見た。そしたらこれがなんともいいのである三越の包装紙で有名な猪熊さんだが、その感性が様々な絵の中に染みわたっていた。http://ofda.jp/column/
今日の東京は実に穏やかでいい天気。「一年中こんな気候の所に住みたいなあ」と言うと、かみさんが「そんな場所あるの?」と聞く。そう言われると答えに窮する。地中海沿岸なんてそんな場所なのだろうか?それとも去年訪れたブエノスアイレスとか??
夕刻事務所へ、塩山第二回目の見積もり前最後の図面チェック。夕飯抜きで終わったら11時。腹減った。

ポスト消費社会の生産性とは

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by 卓 坂牛

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早稲田大学文化構想学部 学生撮影 
午前中早稲田の演習。今日は学生のプレゼン。全二回の講義(男性性⇔女性性、永遠性⇔消費性)をもとに自ら建築写真をとってきて批評せよと言うもの。結構刺激的だった。永遠性が現代社会に求められる価値ではないとして、消費社会を脱却した今、求められている建築の質として「生産性」という概念を提示した学生がいた。彼女はセルフビルトの工房を撮影してきた。それは住人の生産能力が形となったものだが、その質が訪れた人の想像力をかきたてる(生産する)のだと言う。なるほど面白い。セルフビルドが消費社会以降の建築の新たな方向性の一つというのはまあよくある話として、そこには作る側だけではなく、受容する側にも生産というベクトルを生み出しているのだと言う解釈が気に入った。こういう生産性は真の象徴性と言い換えることもできるように思う。
また廃墟の中に永遠性と消費性のアンビバレントな価値が内在しているのではないかという仮説もユニークだった。たかだか10分のプレゼンなのだが、されど10分。オリジナルな掴み(つかみ)のあるプレゼンは光っている。
午後事務所で新たに納品された大判プリンターと大格闘。おいおいまともに動け。ロール紙のフィーダーがいかれているのかもしれない。

女性の居場所の移動

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by 卓 坂牛

このところ東京も暖かったが、甲府は30度を超えていたと言う。夏は鹿児島、冬は秋田と言われる所以である。甲府遠征の電車の中で西洋住宅のプランの変遷を日本の住宅と見比べた。どういう視点で比較しているかというと住宅内での女性の居場所の変化の比較である。日本の住宅であれば西川祐子が分析しているように、(いや平井先生を始め多くの方が分析しているように)父権制のオヤジ座敷中心の間取りが、徐々に書斎や応接にオヤジの居場所が追い込まれ、家の中心に家族が皆集まる場所としての居間が登場し、応接が北側に追いやられそのうちなくなって家事室が居間の脇の日あたりのいいところにできてと言う風に女性の居場所が家の良い場所を占めてくるわけである。西洋住宅でも所詮父権制の世界から女性の地位向上という同様な社会変容があるのだから平面も同様な変化をしているだろうと思って平面を追っかけてみたわけだ。そうすると中世の領主の家から近世の住宅になるとやはり主人のための応接空間が南の良好な場所に登場し、19世紀になるとタウンハウスのようなプランではそれが一~二階に現れ、主婦の台所は半地下に作られる。寝室は最上階。寝る時以外は半地下にいる訳だ。それがモダニズム住宅になると陽のあたる場所に台所が登場し、居間なるものが現れる。ライトのロビー邸などでは居間が一番いいところにあり、応接は北側に押し出されることになる。やはり西洋でも女性の場所は徐々にいいところに移動しているようだ。

コミュニティを問いなおす

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by 卓 坂牛

新書大賞(中央公論社)の中で誰かが推した一冊に広井良乗典の『コミュニティを問いなおす』ちくま新書2009があった。広井さんの本は面白いので何冊か読んだし、これも大分前に買って積読状態にあったのだが、順番が回って来た。タイトル自体もそうなのだが、最初の文章を読んでちょっと暗い気持ちになる「これからの日本社会やそこでの様々な課題を考えて行くにあたり、おそらくその中心に位置していると思われるのが『コミュニティ』というテーマである」。僕はこの「コミュニティ」という言葉をうまく咀嚼できない。別の言い方をすると僕の中ではこの言葉がどうにもこうにもうまく位置づかないのである。それは何故かということをよーく考えてみるとどうも大学時代の地域計画(農村計画)の講義にそのトラウマがあるように思える。正確な記憶かどうかももはや定かではないのだが、その講義の中に、「建築を含めた地域の計画がうまくいけばコミュニティがうまく出来上がる」という教えがあったと思う(あるいはそんな教えは無く自分が勝手にそう解釈していただけかもしれない)。その時ぼくにはそれがどうしても正しいことには思えなかったのである。人と人との良好な関係がハードの作り込みによって可能となるなんて妄想としか思えなかったからである。その後、意匠系の研究室に進んだ僕はそのことを真剣に考える機会がないのだが、未だにそれは妄想だと心のどこかで決めつけている。というわけでコミュニティがこれからの時代のキーワードと言われて、そうかもしれないけれど僕たち建築家はそれに対して余りに非力だと最初から匙を投げてしまうのである。ソフトの問題としてコミュニティに関心はあるし、マンションの理事も辞退せずに出来る範囲のことはやっているし、荒木町の石畳を作ろうと言われれば出来る限り協力するし、場所と人が関係を持つことを否定はしない(いやむしろ好き)なのだが、やはり建築がそれに対して何かをできると思うことが分不相応に思えてしまい、この言葉が登場すると喉にものがつかえたような気分になるのである。

ニナガワ・バロック/エクストリーム

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by 卓 坂牛

朝から文章書き。4時ころ家を出て恵比寿へ。写真美術館に行ってからナディフに行こうと思ったのだが、時間が無くなった。美術館は諦めてナディフニ行って「ニナガワ・バロック/エクストリーム」を見る。恵比寿のナディフニ来るのは初めて。表通りから一本裏に入った見つけにくいところにある。住宅街に突如現れる3階建て地下1階。1階が書店で地下と2階3階がギャラリー4階がカフェ。地下にはガングロ他エクストリームな女性写真。2階は蜷川得意の花と最近撮った上海。3階は沢尻エリカのポートレートである。先日この展覧会のオープニングに登場していたのはモデルだったからである。
先日読んだ『女の子の写真』で飯沢は蜷川を両性具有の写真家と位置付け、一歩突き抜けた現代の最先端の写真家と称賛していたが、確かに色の扱いには毎度驚く。しかし一連の上海写真にはそれほどのインパクトは感じられない。上海の力は蜷川得意の色で現れるものでもない。僕には上海の力は人間のどろどろとした蠢きだと思われる。それがあの色の中からは感じられない。蜷川の写真力はその天性の色使い以上に福嶋がいうところの『神話力』が大きいと感ずる。それは時間を上手に扱う力なのである。小走りで恵比寿に戻り四谷へ引き返しジムで30分走ってから事務所へ。23枚の展開図に赤を入れる。10時ころ終り説明をして帰宅。

ガンダムと建築

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by 卓 坂牛

福嶋亮太の『神話を考える』にこんな文章がある。「表現というものは、親密さの親近感を壊すことによって力を得る。たんに見慣れないものはひとの関心をすり吹けるばかりだし、見慣れたものはそれだけでは何も新しい状況を引き起こさない。むしろ、見慣れたものが見慣れないものになることによって、あるいは見慣れないはずのものから慣れ親しんだ何かが生じることによって、ひとはどうしても対象から目が離せなくなってしまう。フロイトはかつて、この種の攪乱に「不気味さ」の感覚の淵源を見た。本書の文脈で言い換えれば、『不気味さ』とは、リンクしていたものといつしかリンクしなくなり、リンクするはずのないものと過剰にリンクすることによって生じる効果である」。これは僕が建築の表現を考える時の基本を期せずして言い当てている。いや僕だけではなく、福嶋が「表現というものは、、、、」という風に一般論として書いている通り、これは建築をやっている人のかなり多くの人が意識無意識を問わず表現の基本に据えていると思う。いやもっと言えば、彫刻でも絵画でもはたまた文章から手芸、料理に至るまで表現の根底にあるものである。この文章が、ガンダムの解説に登場しているところが面白い。アニメも建築も同じである。
お昼に家を出て1時から塩山実施図面の一回目の図面レビューを行う。関係者4人が打合せテーブルに顔を突き合わせる。一般図(平立断)を見終わったら夕方になった。お菓子を買ってきてもらい、コーヒー飲みながら、天伏せ、矩計を終えて21時。建具表を終えたら23時。展開図23枚残っていたがエネルギー切れ。展開は明日に持ち越し。
『フレームとしての建築』南洋堂、アマゾンにて発売中。
http://www.nanyodo.co.jp/php/detail_n.php?SBID=76f5189b&sbcnt=0&pic_list=p&cate=top&book_id=88361728

神話が考える

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by 卓 坂牛

読みかけの矢作俊彦『悲劇週間』文春文庫2008を読む。たまにこういう何故買ったか思い出せない本というものがある。多分小巻さんに勧められたものだと思うが、何故彼はこの本を勧めたのかが皆目思い出せない。堀口大学を主人公とした歴史小説である。京王線に乗って上北沢に。かみさんの実家に行く。実家と行っても5年前に義父が他界してからこの家は人に貸していたのだが、4月に退去したのでリフォームしようと思い見に行った。丁寧に使ってくれていたようで痛みが少ない。しかし畳と襖紙、障子紙は取り替えざるを得ない。午後帰宅して福嶋亮太『神話が考える』青土社2010を読む。帯に書かれた東浩紀の宣伝文句がすごい「ゼロ年代批評最後の大物新人」の鮮烈なデビュー作。文芸評論はようやく時代に追いついた」である。まだ途中だけれど、著者の言う神話とはひとことで乱暴に言えばネット上の情報提供システムのアルゴリズムのことである。だから神話が考えると言うタイトルは、そうしたアルゴリズムが自律的に動き始めることを示している。ネット上でいろいろなモノが流行り始めるそのメカニズムの内実や、その意味するところを分析する。比較的分かりやすくリアリティを感じるテーマである。