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Nov 2010

ベネッセの戦略

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by 卓 坂牛

ニューヨークの友人と四谷でブレックファースト。彼女はジャパンソサエティの芸術監督。加えて最近日本人としてはじめて理事長になった元ニューヨーク大使(アメリカにはワシントンと国連とニューヨークに大使がいるそうだ)の芸術面の先生役でもあるようだ。彼女は年に4回くらい来日し、前衛アート、ダンス、劇その他を物色してアメリカで公演させるのが仕事。しかし今回は遊び半分でやってきて直島に行くという。どうして??と聞くと、やはり福武さんの策略に興味があるという。先月瀬戸内に行ってきた私はベネッセがここまで投資する理由か分からなかった。進研ゼミで儲けた金を趣味に費やしているのだと思っていた。しかし彼女の話は全然違う。彼らの戦略は瀬戸内海に日本の新しいリゾートを作ることだという。交通のベースを関空に定め、そこから高速ホバーでダイレクトにやって来るルートを計画しているのだそうだ。瀬戸内の島は温泉の宝庫で、気候も穏やか。そこをアートで知的に味付けし、世界的スター建築家による美術館とホテルを用意して話題性を高めているのだという。もはや成田経由のカオス東京とトラッド京都の組み合わは新鮮味に欠ける。観光日本の次なる資源は日本の地中海:瀬戸内なのだという。うーん、、ベネッセが本当にそう考えているかどうかは別にしても、言われたことは至極尤も。昼ころ別れ僕はジムへ。夕方家族と新宿「つちや」でもんじゃ焼きを食す。結婚記念日祝い。噂にたがわずうまい。客足が途絶えない。

不運の平等

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by 卓 坂牛

経済学者竹内啓の書いた『偶然とは何か―その積極的意味』岩波新書2010という本がある。著者曰く、偶然は良いほうに転べば幸運といわれ、悪いほうに転べば不運である。科学が支配する社会になっても偶然は消滅しない。未来社会まで含めてそこに偶然は内在している。僕らはそれを回避するのではなく受け取らなければならない。もちろん不運を最小限にする努力は必要だが、それでも不運は起こる。その時われわれは不運を被った人を不運だといって知らん顔するのではなくその不運を分配しなければならないと著者は言う。この考え方は昨日読んだ「自由の平等」に近いものがある。言い換えれば「不運の平等」である。天災被害に自衛隊を出動させるのは税金を被害者にあてがうのだから不運の平等になる。しかし常に自衛隊が出動するわけでもない。それは無視された不運であり、あってはならないことなのである。
数え上げれば僕もいろいろな不運を経験した。卑近な例だがコンピューターが壊れるというのも不運。病気というのも不運。ひどい施工者と仕事をするというのも不運。そしてこれからも確実に多くの不運に直面するだろう。でもそれは仕方ない。そして今後は人のことでも自分のことでも不運を分配しよう。著者の考えに多いに賛成。

自由の平等

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by 卓 坂牛

朝から推薦入試。北は北海道、南は徳島まで広く受験生が来た。最近はネットに様々な情報があるせいか、志望動機などがとても具体的である。午後まで会議が続く。夕刻、昨日同様4月から僕の部屋の学生の面倒を見てもらう先生に学生とご挨拶。昨日は歴史の先生。今日は環境の先生と心理学の先生。学生の研究計画を聞いていると未だ多少頼りないところもあるが、今日の学生達はなんとかなるだろう。夕食後アルゼンチンブックレットのチェック。これで日本語部分は完成。これをアルゼンチンに送り香川君に翻訳を頼むことになる。彼が帰国する前になんとか印刷に回せると有難いのだが。時間との戦いだ。8時半のアサマに乗るつもりで駅にきたら20分発だった。最近は乗り遅れが多い。最近自分ではないような事がいろいろ起こる。更年期障害だ。福岡伸一が週刊誌に男性更年期障害のことを書いていた。シールのように貼る男性ホルモンの薬があるとか。アメリカじゃ大事なプレゼン前にそれを貼るビジネスマンも結構いるらしい。しかし日常の凡ミスを避けるには毎日貼らねばならないのだろうか??
帰りのアサマで『自由の平等』を読み続ける。著者の主張は間単に言えばこうである。福祉社会とは強者の獲得したものが弱者に再分配される社会である。そのとき強者は「妨げられない自由」を主張する。一方弱者はその立場にいるのは生まれつき、あるいは社会的にそうなっているのであり「できる自由」を主張する。一般に「妨げられない自由」こそが自由であるとされるが「できる自由」はそれと同等の自由であるとするところが著者の主著の肝である。それが本のタイトルである「自由の平等」を意味している。この発想のポイントは人の存在=社会的存在と認める点である。もちろん無人島で孤独に生きる人間にこんな倫理観は不要である。しかしそういうケースは稀であり社会的存在を背負っていることが人間であると認める限り著者の主張は正しい。
リバタリアニズムへのベクトルが方向転換して素直に著者に頷けそうになってきた。

冷たい雨

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by 卓 坂牛

東京は霏々として冷たい雨が降り続く。午前中事務所で打ち合わせ。飯を食って東京駅で新書を二冊買い込みアサマに乗る。高崎を越えるころから雲が開け夕日が空を赤く染める。駅で買った海部俊樹『政治とカネ』新潮新書2010を斜め読み。昨日見た週刊誌に紹介されていた。政治家の書く本などあほくさくて滅多に読まない。しかしこの本は彼が政界で生きたありのままを書いてあるということなので読んでみた。確かに生生しい数字が羅列されていたがそれを除けばあまりどうということはない。夕方大学で4月から僕の学生を受け入れてくれる先生に学生とご挨拶。研究テーマなどの打ち合わせ。夜研究室で立岩真也『自由の平等―簡単で別な姿の世界』岩波書店2004を読む。リバタリアニズム批判である。自らも時としてリバタリアンに傾斜する。しかし理性的にそれを制止するのである。心底リバタリア二ズムを否定できる心地よい考え方があるのなら傾聴に値する。

sugar sync

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by 卓 坂牛

午前中打ち合わせ。午後mac book airを手に入れる。事務所でT君にwindowsをインストールしてもらう。結構時間がかかる。僕じゃとてもできない。ほっとする。Officeはとりあえずopen officeを入れてみる。残りのアプリは明日。昨日drop boxに感動していたら、平瀬さんからsugar syncの方が便利だよとtwitterで教えてもらう。さっそくダウンロードしてみた。未だ上手く動かせないが便利そうだ。Drop boxとの差はよく分からないがまあおいおい。夜、奥山さんへ原稿最終便を送る。ほっとした。これは中国語に翻訳されると言うが日本語中国語併記の本になるのだろうか?

mac book air 

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by 卓 坂牛

午前中のアサマで長野へ。車中アーサー・クローカー伊藤茂『技術への意志とニヒリズムの文化-21世紀のハイデガー、ニーチェ、マルクス』NTT出版2010を読む。いやこの本はなんだか全然分からない。いや分かる人には分かるのかも知れないが波長が合わない。午前中は輪読ゼミ。ジョナサン・クレーリー遠藤知巳訳『観察者の系譜』。視覚論の定番本だけど修士学生がいきなり読むには少々難解かもしれない。お昼を食べながら会議。午後は修士論文ゼミ。さあ早く作品を作ってほしい。ゼミの終わりに1時間設計。ジャンプルーベのナンシーの家を題材にして平面を維持したまま断面を変えよという課題。モダニスティックな空間を換骨奪胎せよという主旨である。3時から教員会議。来年度はまた給与が数%減少するという説明があった。しょっちゅうこんな話があってもう慣れっこになってしまった。大学の給与だけで生きるなんてもはや無理である。小説でも書くか?会議後Y先生にマックブックエアを見せてもらった。立ち上がりも終了もおそろしく早い。エアの薄さで重さ1キロ。CPUはデュオ。HDは60くらいだけどこれで8万台。スゴイ。ついでに見せてもらったドロップボックスというデーター管理ソフトがすぐれモノ。ネット上のサーバーとCPU内のファイルが瞬時に同期する。見せてもらっている間にも学生のファイルが更新されていくのが表示されている。これを見ると学生が何時どのファイルをいじっているか一目瞭然である。5時からキャンパスマスタープランの打ち合わせをして飯を食って1時間設計の採点。雑用を終わらせて8時半のアサマに飛び乗る。週間新潮を買って読んでいたが面白い記事が一つも無かった。

最後の訳語統一

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by 卓 坂牛

午後A0勉強会。読み合わせは全部終わった。今日は訳語ルールについての打ち合わせ。全体を通して多く出てくるhumanismとかspace, line, coherence等の言葉については全体を通して意味が変化しないので訳語を統一しそれを確認する。一方頻出しても意味が場所によって変化する言葉は逆に統一しないことを決める。カタカナを使う方がもはや一般的であるメタファーや、日本語訳があまり一般的ではないコーニス、モールディングなどの専門用語はそのままカタカナで統一。本のタイトルなどは訳書がある場合はそれに従う。例えばThe Stone of Veniceは『ヴェニスの石』ではなく『ヴェネツィアの石』とした。それから人名、地名の発音をどこまで原語に忠実に再現するのか?などなど。しっかり半日かかったが懸案事項の答えは全て出した。そのルールブックに基づいてもう一度訳文を見直すことになる。12月には各自分担部分を見直して最終稿を持ち寄りやっと校了とあいなるか?

文節の並べ方

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by 卓 坂牛

作品選奨の審査にお昼ころ出かける。地下鉄駅から地図を頼りに歩く。下町ビル街に突如桜並木が現れた。建物は桜に面しそれを愛でるように設計されていた。ベテラン建築家による手慣れた作法だ。見終わって銀座に出る。BLDギャラリーで辰野登恵子個展を見る。箱や本棚が画面からはみ出るようにつながる。どうも僕はオールオーバーな構図に弱い。そして色がいい。ピンクと薄い紫が何とも言えない。京橋のほうへ歩き小山登美夫ギャラリーで池田亮二展をのぞく。前にも見たことがあるようなデジタル映像とスティルの作品。伊東屋でシャープペンを一本買ってホコテンを歩く。途中教文館で平積みになっていた野内良三『日本語作文術』中公新書2010を買う。谷崎や横溝という大家に赤を入れているのが小気味いい。加えて文節の並べ方の説明に合点が行く。日本は述語を最後に置くことを除けば文節の順序に規則はない。しかし長い文節から並べるのが読み易さの原則だという。そうやって並べかえると読みにくい文章は確かに読みやすくなる。四ッ谷に戻り、本を読みながらジムで自転車。

メトニミー

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by 卓 坂牛

朝一で輪読ゼミ。今日の本は三中信宏の『分類思考の世界』講談社現代新書2009 著者は進化生物学者。分類の元祖は生物学ではあるが、生物以外でも分類は必ずやある。分類をしない学問など聞いたことはない。いや学問と言わず生きていくために分類はなくてはならないものである。建築の世界だって分類は日常茶飯事である。およそ分類をしない論文など見たことはない。意匠に至っては事象の分類が学問であるかのごとくである。その価値をうんぬんする気は無いが分類せずして僕等は頭を整理できないのだから仕方ない。ところで分類の方法論の一つの概念に換喩メトニミーがある。モノの一部で全体を表す修辞法である。青い目で西洋人。鳥居で神社などを表す事を言う。建築でも全ての作品に一貫した特性を持っている建築家はメトニミーで言い表せるものである。でもそう言う人は常にその方法論を変えないということでもありちょっとつまらない人かも知れない。午後製図のエスキス。さあ今日で終わり。講評会まで頑張って欲しい。去年を追いこせ。夕食をとって雑用を片付け帰宅。

武家空間の近代的変容

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by 卓 坂牛

午前中、長野市景観賞受賞作品見学ツアーの講師。長屋門、保育園、酒蔵巡り。午後大学に戻りゼミ。そろそろ訳の分からない話にいら立つ季節になってきた。その後アルゼンチンワークショップブックレットのデザインを見る。50ページを超えていたので印刷代を考えてページ数を減らす。こういうモノはだらだらやっていると熱が冷める。多少のことには目をつぶり最速で作り上げることが肝要である。夕食後、水内俊雄・加藤政洋・大城直樹『モダン都市の系譜―地図から読み解く社会と空間』ナカニシヤ出版2008を読む。著者の1人にソジャの『第三の空間』の翻訳者である加藤氏が名を連ねているので興味がわきこの本を読んでみた。しかしここでは比較的地理学者として正攻法の話を展開している。城下町から現代まで関西の都市変容過程が地図をもとに綿密に分析されている。その中でも明治になって武家空間が一掃されたこと。そしてそれらが種地となり、新しい時代に必要とされた空間(教育、行政、病院、遊郭など)が建設されてていったことを地図の上で改めて知る。例えば京都では鴨川以東の武家屋敷跡に帝大、第三高等学校、美術工芸学校、医科大学、第一中学校、発電所、平安神宮、岡崎公園、動物園などが建設されたのである。こういうことを知ると東京の明治も知りたくなる。ちなみに僕の事務所がある荒木町は松平家の屋敷があったところだったが、明治は、花街になった場所である。屋敷の庭に池もあり(今も小さなモノだが残っている)東京でも名の知れた景勝地だったからだろう。花街になったことが明治政府の計画的な事業であったかどうかは分からないが。