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Jan 2011

哲学というものはとてつもなく本質的だけどつくづくまどろっこしい

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by 卓 坂牛

現在検討中の某計画のスケッチを構造設備に送りおおよその構造と設備の考え方をまとめ図面の修正と模型の作成を指示して事務所を出る。夜長野に向かう車中高田明典『現代思想のコミュニケーション的転回』勁草書房2011を読む。哲学的転回は認識論的転回、言語的転回、解釈学的転回そして現在コミュニケーション的転回という4つ目の転回を迎えているという話。どこかで聞いたストーリーだと思って彼の前著を見てみたがそこには書いていない。一体どこだったかと思って本棚を探したが見つからない。50にもなると記憶力がどんどん低下する。そんな時このブログと言うやつは便利である。ブログに検索機能がついているのだ(ということをこの間知った)。「言語的転回」と入れて検索すると出てくるではないか。ブログに記した読書メモが引っ掛かるのである。大賀祐樹『リチャード・ローティ――リベラル・アイロニストの思想1931-2007』藤原書店2009にこの3つの転回が述べられていることが分かった。しかし本を引っ張り出して机の上に置いたまま読んでいないのでこの認識がローティー独自ものか、哲学では一般的なことなのかはよく分からない。この哲学的主軸の変遷はすごーく簡単に言えばこうなる。哲学とは物の本質(存在)に到達することが主眼だった。ところがそんなところへ到達するのはなかなか難しい。そもそもそんものがあるかどうかも分からないし、おれとおまえじゃあ頭の構造も違うし、だからみんなでどこか一点に到達するなんていうことはあり得ないだろう。なーんていう状態だから、よく話し合ってみんなでそこへ到達しようぜというようなことである。うーん哲学と言うやつはとてつもなく本質的だと思いつつ、どうにもまどろっこしい話でもある。

社会学の方法論で建築を分析する可能性

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by 卓 坂牛

稲葉振一郎の『社会学入門』2009を読み返してみると、社会科学とは政策科学であると書かれている。その意味は経済学なら経済発展に、社会学なら社会問題解決に、つまり政策上必要な学問ということである。
では建築に関わる学問は何に寄与するのだろうか?構造設備は社会科学同様に政策科学に近い。構造基準だとかエコ基準だとかは国策なのだから。しかるに計画、歴史、意匠などはどうだろうか?計画は使用者の使い勝手に寄与するものであり、歴史は過去の解明である。では意匠とは何か?ちょっと前まで意匠論とは寄与する何かが無い学問でよいと思っていた。
谷川渥さんが美学と言う学問はその学問によって誰かを喜ばせたり、誰かに貢献するものではない。と言っていたのを聞いて意匠論もそれでよいと思っていた。のだが少し方針を変えて、もう少し何かの役に立ってもいいと思い始めた。
そこで社会学を参考にすべく、稲葉さんの本を振り返り、古典と言われるジンメル(Simmel, G)清水幾太郎訳『社会学の根本問題』岩波文庫(1917)1979を読んでみた。薄い本で読みやすい。その中に社会学が社会を対象化する時の二つのポイントがある。一つは社会とは内容と形式に区別できること、ふたつめは社会とは個人間の相互作用のこと
この二つのポイントはほぼ1世紀後に書かれた稲葉さんの本にしっかり受け継がれている。曰く社会学とは、社会の複数の現象間の因果関係を説明する仮説理論を作り、それを量的調査、歴史研究、ケーススタディのいずれかを用いて立証すること。立証に際し分析対象は社会の素材(内容)であり、目的はそこから個人を集合的に社会たらしめているルール(形式)を炙り出すことだと言う。
ではこうした社会学の構成を建築の意匠に適用するとどうなるか?そのためには先ず建築や都市が生み出している何らかの「結果」が必要である。それはこの場合善悪の価値づけられた状況かもしれないし、単なる特徴程度の感覚的な属性かもしれない。例えばある建築(都市、街路)の固有の感覚的属性をアンケート調査などで言語化してもいいかもしれない。次にそうした感覚を生み出していると思われるルール(形式)を炙り出す。その結果二つの因果関係を説明する仮説理論が生み出され、最期にそれらを立証するわけである。
建築現象と社会現象は気をつけないと似てるところもあれば異なるところもあるのでそう簡単に共通の方法論で解明できるものではない。しかし考え方の骨格を作る上では参考になるところが多い。

言葉と建築

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by 卓 坂牛

午前中ヨガに行った後で六本木に倉又史朗を見に行ったら、2月2日からだった。仕方なく国立新美術館でメディア芸術祭を覗こうと思ったらこれも2月2日からである。帰ろうかと迷ったが新橋に出て白井晟一展を見たhttp://ofda.jp/column/
カタログの巻頭には白井の残したエッセイが並んでいる。ドイツでヤスパースの教えを受けた白井の言葉は建築という狭い世界におさまるものではない。建築の奥底を語ろうとする言葉である。そんな白井の言葉は理性と感性の間を往来する。
建築は言葉である」と大学時代に篠原一男に教わり、縁あってエイドリアン・フォーティの『言葉と建築』を翻訳した。ここでの言葉は白井のそれとは違いはるかに理性的なそれである。そして信大では徹底してこっちの「言葉」について教え込んだ。建築学科でこれだけ「言葉」を詰め込んでいるところはそうは無いと思う。しかし一方で白井の言葉をあげるまでもなく建築は感性でもある。美学においても今や感性の学という言葉が大流行である。そんなわけで4月から赴任する大学でどういう方針で教育するか、「言葉」か「感性」か?信大の連続で行ってもよいものかと少々悩んでいるところだった。
岡田憲治『言葉が足りないとサルになる』亜紀書房2010を食後に読んだ。これで考えはほぼ固まった。この本はその名の通り現代若者の言葉の貧困を訴えたものである。著者は専修大学の教授でありそこでの体験に因るところが大きい。
学生の言葉の貧困は程度の差こそあれどこでも似たようなものだろうからさほど驚かない。ただ学生の話以外に著者の挙げた言葉の必要性の事例に説得力を感じた。一つはサッカー協会がサッカー教育の一環として論理問答トレーニングを取り入れたという話。つまりサッカーとは記憶に蓄積された知覚のパターンの中で自分の行為を感覚的に決定していくだけではなく、攻撃と防御のパターンを言語化して理性的に次の行動を決めるようにしなければ上達しないという認識である。もう一つは著者自身が入会する写真グループにおいて、センスがとても良い若い女性写真家が言葉を語れないがために作品の質を上げることができないという話。どちらのも技を高めていくのは感性だけでは無理であり、言葉による整理と蓄積という行為があって始めて上達が図られると言う事例である。感性無き言葉は不毛だが、言葉なき感性は空虚だと言うことである。

最期に聴く楽曲

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by 卓 坂牛

事務所で打ち合わせ。作業。夕方SETENV入江君が来所。来年の研究室ホームページ作成の打ち合わせ。その後彼と一緒にMDRの新年会に顔を出す。光岡君、柄沢君、富井君など既知の皆さまにごあいさつ。毎年ご案内いただくが近所なのに(というか、だから)新年会に来たのは初めて。すごい料理とお酒にびっくり。今日はまだ仕事があるのでお茶で歓談。お暇しようとしたら、星野君、有山君、松原さん、松田さんなどなど知り合いが続々やってくる。玄関では鈴木明さんに遭遇。事務所に戻り打ち合わせ。帰宅後先日知り合いが送ってくれた米沢慧『自然死への道』朝日新書2011を通読。雑誌『選択』に3年半連載した死を見つめるエッセイをそのまま時系列に載せている。「2010年いのちのステージが変わった」と彼は言う。脳死問題、体外受精問題など、命の取り扱れ方が変わったということである。まだ実感は無いが確かにそうかもしれない。
そんなエッセイの中で著者がホスピスで問われた質問が印象的である。死ぬ時に聞く音楽は何がふさわしいかという質問である。質問者はバッハの「G線上のアリア」ヘンデルの「アレグロ・ジョコーソ」、パッフェルベルの「カノン」を挙げたそうだ。著者はそれにうまく答えられなかったという。僕ももちろんそんな問いに答えられるとは思えない。あなたの死にふさわしい曲はあっても「死」にふさわしい曲などないからである。ということはそんな曲は私にはわかるはずもない。
僕ならきっと最も若い時の最も記憶が凝縮された曲を選ぶであろう。コレルリのヴァイオリンソナタあたりがいいかもしれない。

どうやったら物を減らせるか

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by 卓 坂牛

先日宇野求さんが僕は極力もの持たない主義と言っていた。持たないでデジタル機器の中に詰め込むというわけだ。渡辺真理さんが法政ではipadとkindleは大学で買ってくれると言っていた。大学は、もし先生たちが資料をデジタル化して所持してくれればこんな嬉しいことは無いはずだ。施設面積を恐らく3分の1くらい減らせるだろうから。運営費用をぐーんと下げられ、もう文科省にへこへこしなくて済む。
オフィスはだいぶ前から自分の席を作らないという考え方が主流である。自分の席とはイコールごみ溜めだからだ。自席が無ければ人は使わない資料をためこむことがないし、しょうがないからデジタル化して持ち歩かざるを得ないわけである。
先日読み始めた『SHARE-<共有>からビジネスを生み出す新戦略』には電子書籍などの話しは出てこないが無駄な消費を抑制するという意味ではこの本の主旨を体現していることである。
この本では消費抑制の方策として所有から共有を訴える。持つことが大事なのではなく使うことに意味があると言うわけだ。あれ、、その言葉、「使用から所有に」力点が移った現代建築状況に対する坂本先生の批判と同じである。しかし、所有の本質は物が所有者の本質を表す記号にもなり、その時その記号が人からの借り物であって欲しくないという欲望に関係する。
僕にも所有欲が多少ある。それは主として本である。それ以外は全くない。できればすべて借り物で安く済ませたい。着る物住む場所も全部セコハンでいいもちろん車は要らない。そして不要になったらまた再分配市場で循環させたい。しかし本だけはどうもそういう気になれないでいる。古い頭だからデジタルについていけないのかもしれないし。背表紙見ながらいろいろなことを思い出すし、ヴァールブルグじゃあないけれど本を並べ替えていろいろなことを考えたりする。そうして自分の本質が分身としてここに視覚化されているというような気にもなる。
でも僕より先輩たちがipadに熱狂しているのを見ると考えてしまう。デジタルに取り残されないようになんて考える以前に僕の書斎は既に限界にきているのだから。やはり本は電子書籍の時代なのかもしれない。そんな時代はあっという間にくるだろうなあ。後2年???
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本棚は今にゴミため化するか???

6年間の講評会を振り返る

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by 卓 坂牛

朝一で二年生の設計製図講評会の発表者を選ぶ。25名くらい(半分)を選ぼうと思いつついつも20名くらいで終わってしまう。けれども今日はすいすい30名くらい選べてしまった。ずば抜けて良いものは例年に比べて少ないのだが合格レベルのものが多いということのようである。2コマ目にデザイン論のレポート課題を説明して昼飯。午後、講評会のゲストクリティークである平瀬有人さん現れる。先ずはショートレクチャーをしていただく。タイトルは「建築の自律性と他律性」。これはおよそ建築であれば持ち合わせている性格なのだろう。それを彼は山岳建築研究者として山小屋を例に説明してくれた。登山者の到達目標として「目立つ」という自律的側面と風や雪崩に「耐える」という他律的な側面の共存というふうに。また彼のスイス、日本での仕事についても同じように紹介してくれた。
その後30人の講評会である。彼は先ず質問をしてそれへの返答を聞きながらコメントしていくというスタイルをとる。これは無自覚な学生の設計を反省させる的確な方法に思えた。30人の内から平瀬賞、坂牛賞、佳作5つを選び終了した。信大での最後の講評会。これまで来てくれたゲストの方には深く感謝。ちなみに各々の講評会でゲストの方に好評だった作品を並べてみた。先生の個性も見えるし、少しずつ進歩したような形跡も見える。面白い6年間だった。課題ごとに年代順に並べてみる。
2年生住宅
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2005年 今村創平先生 見事な口技に脱剛
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2006年 若松均先生 スケールが悪いとややご機嫌悪し
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2007年 岡田哲史先生 ずっと立ちっ放しで激辛批評
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2008年 福屋粧子先生 やわらかにしかし鋭く
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2009年2年生住宅 藤村龍二先生 キーワードは社会性
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2010年2年生住宅 石黒由紀先生 丁寧な批評
2年生オフィス
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2005年 山本想太郎先生 理路整然
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2006年 中村晃子先生 ゆるーい感じで、でも厳しく
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2007年 阪根宏彦先生 ニコニコしながら相手を追い詰め
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2008年 柳澤潤先生 分かりやすくそして楽しく
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2009年 松田達先生+新雄太先生 理論派VS感性派
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2010年 平瀬有人先生 問いかける批評
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2006年 藤田純也先生 竹中流でせまる
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同上 安田幸一先生 形へのこだわり
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2007年 岩岡竜夫先生 普通のようで普通でない
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2008年 萩原剛先生 やはり竹中流?萩原流?
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2009年 城戸崎和佐先生 エキセントリックな称賛
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2010年 袴田喜夫先生 保存のプロにしめていただく
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2006年 小川次郎先生 とにかくおおらかに
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2007年 高橋晶子先生 理性の中の感性
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2008年 曽我部昌史先生 具体へのこだわり
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2009年 槻橋修先生 がんがん語る
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2010年 松岡聡先生 ゆっくりと静かに
4年生自由設計
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2006年 奥山信一先生 厳しく楽しくバーベキューも仕切ってました
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2007年 山梨知彦先生 来たと思ったら帰って行った。とにかく忙しい。
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2008年 金箱温春先生 構造が意匠になった案が一等賞
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2009年 山梨知彦先生 亀井さんドタキャンで山梨先生に再度お願い
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2010年 坂本一成先生 真打登場よくこんな遠くへありがとうございました。

皆が納得いく美しいということ

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by 卓 坂牛

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9時から塩山で定例。このところ毎週施主定例だがこの規模の複雑な建物はこうやってできる過程を具に見てもらいながら慣れてもらうことは必須。午後甲斐に移動して事務所検査。おいおい検査だって言うのに「床暖がまだ動きません」は無いだろう。と思ったけれど、引き渡し20日前でほぼ完ぺきに出来上がっているのだから合格点。こんな経験は建築人生で初めてである。終わって大急ぎで甲府からあずさで東京に戻り理科大の卒計の発表会に赴く。
理科大の卒計は技術主義的で合理的な案が多い。批評する先生方も比較的そういう傾向があるだろうか?それにしても非常勤の建築家が10人近く。構造設備の先生も10人近い。学生より先生の方が多い発表会とはなんと豪華なことだろうか?そうした状況を当然だと思っているところが甘ったれと思いつつでも羨ましい。しかし図面や模型に今一つ熱を感じない。来年は我が身。どうやったら熱を伝える制作にこぎつけさせられるだろうか???
各先生のコメント中に後ろからこっそり中座して最終のアサマに乗る。サンドイッチを食みながら小林正弥『サンデルの政治哲学-<正義>とは何か』平凡社新書2010を読む。『これからの正義のはなしをしよう』でサンデルに7割の共感をもっていたところだったのでつい読み始めた。サンデルのコミュニタリアニズムとロールズのリベラリズムの違いなどを深い理解に導いてくれて有益な内容である。しかしそれ以上に面白いと感じているのは政治哲学という分野が昨今重要な学問分野となってきているという点である。それまで政治史や政治思想史というものが政治に関する学問として主流であったものが、政治哲学という政治に対するある種の価値付与の理論が学問として成立してきていることが興味深い。さらに言えば、学問として成立しているからにはその価値付与には客観性と合理性があるわけである。
価値というものは一般に科学としての客観性か、世俗を超越した宗教的倫理観によって成り立つものであると僕は思っていた。しかるにロールズのそれはそのどちらでもない。合理的で理性的でありながら数量的な科学生の持つ非人間性を排除する方法を彼は編み出したのである。それゆえ彼の『正義論』は爆発的な話題となったのである(あんな分厚い本がサンデルのおかげで丸善でも平積みである)。こうした哲学はもしかすると美的な問題にも応用可能なのかもしれないと思い興味が湧く。すなわち教祖的な美の達人が美しいということを盲目的に信じるような美ではなく、まして数量的に割り切れる黄金比のようなものでもなく、だれでもが合理的客観的に考えて到達し、しかも数量や技術に還元できない美の在り方である。長野についたら酒飲んで寝ながら考えてみよう。

2010年の気になること

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by 卓 坂牛

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宮本忠長設計/長野市民会館
このプレコンスクリーンは湊建材が作ったもの。もう作れるものではないと宮本さんがおっしゃっていた。
午前中は経理的雑用。午後事務所で打ち合わせ。明日の現場定例までに決めなければいけない駐輪場の構造がなかなか決まらない。スタッフ同士の打ち合わせではどうも埒が明かないので金箱さんに直接電話して内容を確認。ディテールを決める。
10+1から来ているアンケートの締め切りが今日であることに気づく。あわてて原稿を書く。「2010年の気になる出来事について」という内容。本でも展覧会でもイベントでも建築でもなんでもいいようだ。本を語れば山のようにあるのでこれはやめる。すでに去年末に五十嵐さんや南さん若い人では平瀬君や光岡君が答えていたものであり、メジャーなテーマは大方語り尽くされている感がある。そう思いながら自分のブログやらコラムを見返しながら記憶をたどる。手前みそだがアルゼンチンワークショップのことは自分の中では結構大きな出来事であったと再認識。ブエノスアイレスも長野も既存建築に対する視線は変わらない。そんなことを書きながら宮本忠長さんの市民会館の解体が不快な出来事として頭をもたげた。ワールドカップのパブリックビューをこの建物で学生とともに見た。どうしてこれを改造して使わないのだろうか?新築よりお金がかかってもいいと思う。モダニズム建築の更新が心を揺さぶった一年だったかもしれない。

share

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by 卓 坂牛

読書して散歩して夕食の買い物をする。昨日読んでいた『イマココ』はロンドン大学のバートレットにあるいくつかの興味深い研究所の情報を教えてくれた。一つはUCL Space Syntax Laboratory。言語学の概念であるsyntaxと言う言葉を使って都市を分析しようという意図はもちろん、都市の構成と言語の構成が類似しているからである。このlaboratoryでは都市分析ソフトのシェアを行っている。3週間ほど確認に時間がかかるようだが大学教員は登録すればダウンロードできる。使ってないから分からないけれど、説明からすれば3次元のイソビスタの計測もできそうである。人は広がりのある方向を向くものであり、その方向の視界の容積を計算するソフトである。
ところでこうしてソフトをshareするのはもはや当たり前の感覚だが、コンピューター上以外でもshare感覚が当然の時代が来る(来ている、来た)ことを記したレイチェル・ボッツマン/ルー・ロジャース(Botsman, R / Rogers, R)小林弘人監修解説『SHARE-What`s Mine Is Yoursシェア―共有からビジネスを生み出す新戦略』NHK出版2010を風呂で眺めた。僕らが学生時代下宿をシェアするなんていう考え方はあり得ず、アメリカ行ったらそれが当たり前でその合理性に驚いた。今や日本でもシェアする学生が増えている。皆で使う。何度も使うというのは当たり前の時代である。

居心地感

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by 卓 坂牛

朝一で九段下の理科大に卒業研究の発表会を聞きに行く。トップは山名研。大高正人さんの図面を資料とした設計の変遷解明が多かった。続いて歴史の伊藤先生、環境心理などの直井先生、構法の真鍋先生で午前は終わり。昼間働いている学生が多いのにしっかりした内容、加えて論旨が明快で聞きやすかった。また当たり前だが卒論テーマは大学ごとに固定化されるもので(先生が入れ替わらない限り)、他大学の発表テーマは新鮮に響くものである。特に直井先生の指導する「視線到達度が居心地感に及ぼす影響研究」なんて僕の興味とぴったりあっているのでびっくりである。その直井先生が僕と入れ違いとは至極残念である。
午後事務所で打ち合わせ。昨日指示した模型がほぼできていた。ちょっと骸骨みたいになってしまったので修正案を考える。
帰宅後コリン・エラード(Ellard, C)渡会圭子訳『イマココ―渡り鳥からグーグル・アースまで、空間認知の科学』早川書房(2009)2010を読む。本屋で立ち読みした時に確か「居心地感」という訳語が入っていたような気がしたので積読から引き抜いた。そうしたらやはりあった。第七章「家の中の空間」のなかで「家の居心地はイソビスタで決まる」という節があった。イソビスタとはある場所から家の中の見える領域を言う。それでとある家の中に被験者を連れてきて、特徴的なイソビスタを見せながら空間の性格づけや順位づけをさせたところ次のような結果になったという。
① 心地よい空間・・・・・複雑性と対称性の高い空間 例えばゴシック教会のような
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② 美しい空間 ・・・・・開放的で対称性の高い空間 例えばCSH22のような
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③ 面白い空間 ・・・・・開放的で複雑性の高い空間 例えば瞑想の森のような
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この研究のそれぞれの言葉の定義は分からないのでこの画像は僕の想像でしかないのだけれど。