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Mar 2011

そして信大最後の日が終わる

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by 卓 坂牛

4年生担任の僕は朝学務でもらってきた学位記を学位授与式で学科長に渡す係である。一枚ずつ渡し、ふり仮名の入った名簿を見ながら小声で名前の読み方をつぶやく。学部と修士あわせて80人くらい。およそ30分。これで僕の信大での公務は終わった。3月31日までの残りの日は有給休暇をいただくので今日が最後の日である。
信大で教えた6年間いろいろな経験をさせてもらった。印象深い3つのことを記しておく。
先ずは学科内の話。僕が来るまで意匠の教員のいなかった建築学科は、僕の赴任後、意匠を設備、構造、歴史計画と並ぶ4番目の建築学科の柱に据え、それを全面的に僕に一任してくれたこと。それは結果的にとてもありがたいことだった。やっている時は少々負荷が大きく大変だとぼやきもしたが、考えてみればそれによって良くも悪しくも一貫した教育が可能となった。2年3年4年の製図を見て院も見るのだから完全な一貫教育である。加えてゲストクリティークの人選からその審査まで全てをやっているのだから、他者の入る余地は無い。それがある一定の成果の原因であることは明らかである。もちろんそれによる弊害もあるとは思うが。
二つ目は長野という場所に身が晒されたこと。市民を連れて建築見学ツアーを毎年3回やったし、長野市のデザイン関係の委員をさまざま行い、大町、塩尻、佐久などでコンペの審査もした。こんなことをしていくうちに長野という場所の持つ建築的状況、市民と建築の関係、グローバルとローカル、こうしたことを嫌でも考えることになった。このことはかなりの程度僕の建築観を動かすものとなったことは間違い無い。
そして最後は東京長野を往復するという状態。これは精神的にかなりの負担を強いられた。どっちかにいるとどっちかが心配になる。当初1、2年は本当にうつになりそうだった。何冊うつ病の本を買ったことか。何度附属病院のカウンセリングを受けようと思ったことか。しかし結局受けずに6年間が終わった。もちろん時間的な制約もかなりのものになった。しかしこのできた時間によって博士論文が書けた。車内は動く書斎でありその時間が貴重となった。読書量もドラスティックに増えたのはこのおかげである。
6年が終わり今日あたり涙でも出るかと思ったがそうでもなくとても晴れやかな気持である。6年間の間に本を3冊(もうすぐ4冊目の訳書もでる)上梓し、学生も急成長し、そして自らの建築観もとても伸びやかになった。その分事務所の仕事がちょっとおろそかになったのだがそれは仕方ない。6年は調度いい期間だったかもしれない。天に感謝である。
謝恩会の席でとある先生が「信州大学の建築学科がここまでになったのは坂牛先生のおかげであり、一時いい夢を見させていただいた」と言ってくれた。嬉しくもあり淋しくもある言葉だった。悔いが残る。そして文字通り返す言葉が無い。
信大建築学科の素晴らしい先輩後輩の先生方、そして素敵な学生に心から感謝の気持ちでいっぱいである。そしてわが子のように可愛い坂牛研究室のすべての学生には最後にしてしかし最小ではなく御礼したい。ありがとう。

僕らを覚醒させるのは震災だけではない

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by 卓 坂牛

午前中ジムに行ったら、ここも節電のためか営業時間が短縮されプールは水が抜かれていた。午後事務所で明後日の打ち合わせの打ち合わせ。夕方帰宅して食事してから長野へ向かう。車中鹿島茂『『パサージュ論』熟読』青土社1996を読む。
先日誰かがポストモダニズムとは金魚鉢のようなものだと言っていた。もちろん人間を金魚に例えての話である。つまり金魚にとって唯一見えないものが金魚鉢であるように我々にはポストモダニズムは見えないということである。
ベンヤミンがパリのパサージュをきっかけにして資本主義の夢から覚醒したようなそんなきっかけが我々をポストモダンの夢から覚醒させてくれるのだろうか?とこの本を読みながら感じた。そしてそんなきっかけは50も過ぎた人間には到底見つけられないのかもしれないとも思った。ベンヤミンが言うようにそうしたきっかけは子供の持つ再認識力にしか見つけられない。子供は「まったく新しいものの中に『すでにある』アルカイックなシンボルとして認識する」力があるからだ。でもまたベンヤミンが幼少のころシンボル化したベルリンのパサージュのように、僕も幼少のころシンボル化した何かが50過ぎてから蘇りそれがポストモダンの金魚鉢からの覚醒を促す可能性もある。
今世の中は大震災をきっかけにさまざまな反省に促されている。それはとても重要なことだと思う。でもこのことだけが我々を夢から醒ますとは思えない。いやむしろ危険でさえある。こういう時だからこそ覚醒を別の角度から考えないといけない。

塩山養護施設オープンハウス終わり

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by 卓 坂牛

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●エントランス周りのキャンチ下。ヒノキの軒天
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●畑の真ん中なのに要求機能に対して敷地が狭い。プレイルームは敷地ぎりぎり
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●エントランスドアはステンレスドアにヒノキ張
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●プレイルームの天井は格子梁。鉄骨柱で支える
8時半のかいじで塩山へ。今日はオープンハウス。来訪者はこんな時期でもありそれほど多くなく、来られた方とはゆっくり話ができる一日だった。雨だと思った天気もなんとか夕方までもって建物を汚すこともなくほっとした。こうやって一日冷静に見て回ると反省点も見つかってくる。来週は官庁検査と施主検収。
夕方のかいじで新宿へ。今日はこの仕事にかかわった人の労をねぎらい新宿ライオンでビール。この二日立ちんぼで足が腫れてきた。

『長野市民会館50年の記憶』が出版される

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by 卓 坂牛

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●長野市民会館ファサードのトレサリー
朝9時に信大のT先生がホテルに迎えに来てくれて甲府へ向かう。道路は空いている。長野から山梨へ進むと山が急峻になるのを感じる。小渕沢のあたりからは正面に富士が大きく見える。気のせいかもしれないが富士山は山梨側から見ると静岡側から見るより急に見える。検査開始時刻よりも早く着いたので先ずはT先生を案内する。
1時にスタッフのT君が到着。事務所検査を始める。設備検査は事前に済ませていたが、たっぷり3時間半はかかった。しかし全体的に見て大きな指摘事項もなく、未済工事も殆どなかった。よくこの工期で遅滞なくここまで作りこんでくれたことを嬉しく思った。一か月前の住宅の施工者と言い今回の早野組といい、良い施工者良い所長に恵まれたことに感謝したい。
夕方のかいじで東京へ向かう。車中昨晩梅干野先生からいただいた長野市民会館記録編集会議編著『長野市民会館50年の記憶』信濃毎日新聞社2011を読む。長野市民会館は私が生まれたころに竣工した50歳の建物であり。残念ながら今年で閉館となり解体される。設計は佐藤武夫事務所。担当は当時32歳の宮本忠長であった。音響工学で工学博士となった佐藤の技術と早稲田伝統の触視的なデザインが融合された建物である。
煉瓦とPCトレサリー(すかし模様)が印象的な外観である。そのことについて現佐藤総合計画の細田雅春はこう述べている。「(佐藤は)端正な正面性を意識しておられた。正面性を構成する壁面のテクスチャーには、織物の模様のアナロジー・・・・紬や絣模様、タータンチェック、ヘリンボーンなどと言う先生の言葉が今も耳に残る」。
服飾を建築のアナロジーとするのはゼンパーを始め多くの建築家が試みたことであるが表層のパターンに適用したのはあまり聞かない。なるほどと思わされる。

坂牛に貸しを作る会

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by 卓 坂牛

昼のアサマで大学へ。車中クリストファー・ホロックス小畑拓也訳『マクルーハンとヴァーチャル世界』岩波書店2005を読む。吉見俊哉の解説に彼のヴァーチャル授業の話が載っていた。それは「吉見俊哉をたたきのめせ」と題した授業である。学生は授業前にBBSのスレッドに吉見の論文を徹底攻撃してから授業に臨むというものである。そこで重要なのはスレッドは学生に一覧され学生間に批判のプロセスが共有されるということである。僕は批判をさせないがある共通テーマをBBS上に書かせるということをかなり前から行っている。その狙いは吉見とまったく同じものである。一覧性によって学生それぞれが自らを相対化するきっかけとなる。午後最後の会議。夜は数名の先生たちと食事。「坂牛に貸を作る会」ということでおごっていただいた。今後彼らが東京に来た際はおごり返すと言う約束である。

状況に批判的であることと状況を劇画化することは違う

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by 卓 坂牛

いわきに住んでいる友人の消息が分かった。被害には奇跡的に合わず、社長と言う責任もあるのだろう、原発の被害を考え会社はクローズして、社員には自主避難を命じ、自ら東京の実家に移動したという。英断だと思う。
東京ではもちろん現状の推移を見守るしかない。辛い状況もいろいろある。しかし現状の客観的データーを手に入れながら粛々と生きていくしかない。
状況に批判的であることは重要ではあるが、必要以上にやることはやめよう。悲しくなるほど稚拙でステレオタイプな質問を不必要な抑揚とBGMで味付けする民法のワイドショー的ニュースはやめて欲しい。電波がもったいない。節電したらどうだろうか?あなたたちのやっていることは批判ではなく劇画化である。

世界を震撼させている

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by 卓 坂牛

●五日前、震災の次の日、アルゼンチンの建築家ROBERTOから見舞いのメールが届いた。昨年ワークショップをいっしょにやった親友である。
Hi Taku, we saw the news about the devasting earthquake and Tsunami.
We can see terrible images about that.
I hope you and your familiy are good.
Let me know if we can do anything for you, we are so far away in distance but we feel very close un this moment.
all the best
Roberto.
●二日前にUCLAのクラスメートEDMUNDから見舞いのメールが届いた。卒業後もお互いの国で何度も会い。昨年も夫婦で来日して建築を見て回った仲である。
Taku,
I hope all is well with you and your family, Devan and I were very saddened to hear the news of the earthquake. Please let us know that you are alright.
Our hope and heartfelt concern are with you.
Best Regards,
Edmund
●今日オーストリアの建築家ONDINAから見舞いのメールがきた。7年前OFDAが最初に受け入れた海外からのインターンシップ生である。
Dear taku, dear ofda-team,
I feel so sad about whats happening in your country at this time…
It makes me speechless.
I truly hope and pray that you, your families and your friends are all fine….
I am sure all of the japanese are weighed down with sorrow in this times.
And i truly wish you and all the people in your country not to loose hope.
All the best,
Yours,ondina
友人の暖かさ、優しさが嬉しいとともに、今回の災害がどれほど世界を震撼させているかが伝わってくる。
そして昨日ハンス=ユルグ・ルッフからのメールが武井君経由で届いた。熟慮の末来日を取りやめるというものであった。とても残念な話ではあるが、1か月かけて日本を見ようと考えていた彼にとって交通網の乱れ原発の危険は深刻であろう。おそらく政府の渡航自粛勧告も出されているだろう。それらを考えると仕方ないことである。非公式に流した情報の修正は非公式に行うしかない。ツィッターやブログを見て来日を楽しみにされていた皆さまにはとても申し訳ないけれど、非常事態故のことでありご容赦願いたい。

花田佳明さんの松村論にうなずく

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by 卓 坂牛

花田佳明さんにお送りいただいた『建築家・松村正恒ともう一つのモダニズム』鹿島出版会2011を一気に読んでみた。花田さんの博士論文であり渾身の一冊。600ページを超える大部の書。分厚い装丁に怖気づき、いただいてから一カ月くらい放置していたのだが、予定されていた打ち合わせが震災の影響で中止となったのでここぞとばかりに読んでみた。
勉強不足も甚だしいがドコモモの建築家程度の知識しかなかったわけなので目から鱗。こんな建築家がいたのだと言うことに驚くとともに、本のタイトルであるもう一つのモダニズムと言う言葉がまさにぴったりと当てはまる建築家であることを知る。
ドコモモで有名な日土小学校も素晴らしいのだが、学校建築、病院建築の見ごたえある建物が沢山あることに目を見張る。松村建築の醍醐味はもちろん土浦事務所で鍛えたモダニズム(インターナショナルスタイル)の繊細な幾何学にあるとはいえ花田が言うようにそれを遠ざけるようなアンビバレンスにある。花田はそれを「抽象化の拒否」と呼んでいる。そのアンビバレンスに「もう一つのモダニズム」が見え隠れしている。本物を見ていないので正確なことは分からないけれど、そのアンビバレンスを作り上げるためにはかなり高度な技術力があっただろうことは想像に難くない。
こんな本を読むと世界にまだまだこういう「もう一つのモダニズム」を実践した建築家がいたのではないか?と思わせる。また逆に言うと現代にはもう一つものモダニズムを実践している建築家が大勢いることも了解される。モダニズムの何かを拒否したモダニストである。思い浮かぶだけでも両手に余る。
歴史を掘りおこしながらそんな現代への視座を与えてくれる本である。

さあ、頑張ろう

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by 卓 坂牛

朝歯医者に行ったら先生が未だ白衣も着ずに開院準備であたふたしていた「今日はやりませんか?」って聞いたら「やりますよ」と返事。衛生士のお姉さんが市川から来られないと言う。総武線が止まっているから。先生は地震の時四谷の道を歩いていたそうだ。車が跳びはねるのが目で見え、あっという間に皆止まり、周囲のビルが木立のように揺れていて恐怖におののいたそうだ。治療を終えて事務所に来たら未だ誰もいなかった。今日は皆来られないのだろうかと思ったが、午後になったら三々五々やってきた。皆の無事な姿を見てほっとした。しかしあるスタッフの実家は福島で津波をかぶったそうだ。すぐに行きたいところだが行くすべが無いと言う。なんとももどかしい。実家の父親は電力会社に勤めているそうで家のことは横に置き復旧作業で帰れない日々だと言う。事務所ビルのオーナーのSさんの実家は震度7を記録した栗原市であるが、実家は倒壊しなかったそうだ。「30年前も震度7は来たんだよ」と言っていた。今回はやはりTSUNAMIの猛威に潰されたということか。昼に近くのとんかつやに行ったらカウンターにテレビが置いてあった。余震が来たらすぐ油の火を止めると言う。地震の日には夜寄席をやる予定だったが演者も観者も誰も来なかった。店を開けて帰宅難民を受け入れたそうだ。とんかつ屋の横の割烹では夜防衛省のお偉いさんの宴会が予約されていたそうだが当然キャンセル。
これから山梨の現場の検査が続くのだが、電車が動くのかよく分からない。今日の計画停電の状況を受けて明日からどうなるのか?見えないことが多いけれど生きているのだからどうにでもなる。ありがたい。

3000ガル近かった

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by 卓 坂牛

風呂でだいぶ前にいただいた五十嵐太郎編『見えない震災』みすず書房2006を読む。その中に都市計画家高山英華のこんな言葉があった「もっとも大切な予防的対策の大綱は、天災の起こるようなところに、高密度の人間社会を形成しないようにすること」それなのに日本はそういう場所に町ができる。日本に風水害が多いのは、干拓や埋め立ての土地に都市が形成されるからだそうだ。今回の災害も起こってみればこんな言葉がむなしく響く。さて耐震構造の歴史を読んでいくと1950年建築基準法が制定されたころは水平震度(地震時に構造物にかかる水平加速度の重力加速度に対する比)は0.2という想定だった。それが現在では単純に言うと「約0.1(100ガル)で壊れず、0.4(400ガル)で倒壊せず」という2段階設計になった。この基準の数字を一昨日構造の先生に聞いたのだが、聞き間違えたのかもしれない、妙に低い気がする。というのも一昨日の各地の加速度を見ると最高瞬間栗原市で2933ガル、大船渡市で991ガル、宮城県石巻市で675ガル、東京都千代田区で259ガルだという。ということは上の基準では栗原はもちろん、大船渡、石巻あたりでは限界をこえていた。倒壊である。東京はかろうじて損傷程度。基準ってこんなに低いのだろうか?それともこの地震が400年ぶりの大型地震であることを物語っているのか??